脳は、忍び寄る地球環境の危機に気づきにくい?

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太平洋の島国キリバスは、温暖化による海面上昇の影響を受け続けている(2007年撮影)
太平洋の島国キリバスは、温暖化による海面上昇の影響を受け続けている(2007年撮影)

 世の中は、だんだん良くなっているのか、それとも悪くなっているのか?

 貧困である人の割合が少しずつ下がり、教育を受けている人や、議会制民主主義の国で暮らす人たちの割合が増えているといった統計を見ると、世の中は次第に良くなっているように見える。

 この論点は、最近日本でも翻訳出版された『ファクトフルネス』のような本の中でも紹介されているし、また、ハーバード大学で認知科学を研究しているスティーブン・ピンカーさんを始めとする論者によってもここ数年、指摘されてきている。

 確かに私たちは、時に必要以上に悲観的になりがちのようである。人間の脳は、テロを始めとする事件や、移民問題、政治的な論争など、世間を騒がせる事象に強い印象を受け、結果として多くの注意を振り向け、その意味を過大評価しがちだ。良いことから悪いことまで、さまざまな出来事が起こっているのに、その一部だけ、特にネガティブな事象だけをとらえて世界は次第に悪くなっていると思いこんでしまう。

 つまりは評価の仕方がバランスを欠いているのであって、実際よりも世界が悪くなっていると感じてしまう。この点は、『ファクトフルネス』のような本や、スティーブン・ピンカーさんが指摘する通りだろう。

 では、世の中は良くなっているのだから、私たちは楽観的でいさえすれば良いかというと、そんなに単純なことでもなさそうだ。

 先日、イギリスで「絶滅への反逆」と呼ばれる運動が起こった。環境運動を象徴するピンクのボートがロンドンの中心街に置かれて、交通がストップした。

 たくさんの著名人も支持を表明したこの運動は、人類の活動によって地球環境が破壊され、温暖化が進み、多くの生物種が絶滅し、取り返しがつかなくなることに対する危機感と抗議を表明するものだった。

 一方、スウェーデンの16歳の高校生、グレタ・トゥーンベリさんが始めた抗議運動も注目を集めている。地球の環境が人類によってこれ以上破壊されることを防止しようと、学校の授業をボイコットして、スウェーデン議会前などで活動をした。トゥーンベリさんの発言は大きなインパクトを与え、今年度のノーベル平和賞候補に推薦されたという報道もなされている。

 地球環境が破壊されたり、多数の種が絶滅して生物の多様性が失われたりするということは、次第に、「今ここにある危機」として認識され始めている。先日は、イギリスの国会が環境破壊や気候変動が「緊急事態」であると宣言した。

 地球環境の破壊という危機は、『ファクトフルネス』やスティーブン・ピンカーさんが主張している「人類の生活は次第に向上している」という楽観論と矛盾しない。むしろ、地球環境破壊は楽観論と表裏一体の関係とも言える。人々の生活レベルが上がり、今までよりも収入が増え、より多くの物質やエネルギーを用いるようになれば、当然のことながらそれだけ地球環境に対する負荷は大きくなるからである。

 結論として、人類の生活はだんだん良くなっていると楽観的でいるだけでは、とても足りないということになる。そのような楽観主義の背後から、次第に危機が忍び寄ってきている。

 ゆっくりとやってくる危機に気づかないという傾向も、人間の脳の癖で説明できる。私たちは、徐々に起こる変化を過小評価することがある。水がだんだん熱湯になっていくのに気づかずにいる「ゆでガエル」の例えにあるように、知らないうちに取り返しのつかない変化が起こることもあるのだ。「正常性バイアス」と言って、自分に不都合な事実を軽視する傾向もある。

 トゥーンベリさんのような若い世代が声を上げ始めたということは、人類にとって、異変にいち早く気づく「炭坑のカナリア」のような意味があるのかもしれない。何ができるかわからない。すぐに問題が解決するわけではない。それでも、課題があることを認識して、考え、行動を始めることで少しずつ事態を良い方向に持っていけるだろう。

 そもそも、人類にとって、「より良い生活」とは何だろうか? 今までよりも収入が多くて、より多くの物質に囲まれ、たくさんのエネルギーを消費することが「より良い生活」なのだろうか?

 世界は良くなっていると分析できるためには、そもそも「良い」ということが何を意味するのか定義されなければならない。人類はそろそろ、「より良い生活」という目標を、地球の自然環境と調和したかたちにアップデートする時期に来ているのかもしれない。

 孔子は、『論語』の中で「七十従心」ということを言っている。「七十にして心の欲するところに従えども(のり)をこえず」。すなわち、70歳になったら、自分の心の欲望に従っても、人としても道を外れることがなくなったと。

 私たち人類は、孔子の「七十従心」にこそインスパイアされる時期が来ているのかもしれない。より良い生活を求めて、自分たちの欲望に従って活動しても、結果として地球の資源を浪費したり、環境を破壊したりすることがない。そんな境地に人類は達することができるのだろうか?

 未来は良くなるという楽観論だけでも、また世界は悪くなるという悲観論だけでも足りない。より賢く未来を設計すべき時代が来ているようだ。 

茂木 健一郎
プロフィル
茂木 健一郎( もぎ けんいちろう
 脳科学者、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。1962年、東京生まれ。東大大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。クオリア(感覚の持つ質感)をキーワードに脳と心を研究。最先端の科学知識をテレビや講演活動でわかりやすく解説している。主な著書に「脳の中の人生」(中公新書ラクレ)、「脳とクオリア」(日経サイエンス社)、「脳内現象」(NHK出版)、「ひらめき脳」(新潮新書)など。近著に「『書く』習慣で脳は本気になる」(廣済堂新書)。
無断転載禁止
580188 0 世界を脳から読み解く 2019/05/14 05:20:00 2019/05/14 05:20:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/05/20190508-OYT8I50025-T.jpg?type=thumbnail

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