背伸びしない地方の学生たち…脳が「欲」を出すカギは?
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先日、ある地方都市の高校に講演に伺った折、とても印象的な経験をした。
日本有数の清流と言われる川の沿岸で、文化的伝統の豊かな土地。その町並みの中心に、昔ながらの校舎があった。地元の子どもたちが憧れるという名門校での、好奇心に満ちあふれ、素直な高校生たちとの質疑応答は楽しかった。
やり取りするうち、あることに気づいた。生徒たちの進路の希望が控えめで、現実的だということである。
地元の国公立大学や私立大学の、自分の志望する学部に行ければそれでいいといった気分が伝わってきた。私が大都市にある著名な大学をいくつか挙げ、「そういうところに進みたい人は?」と聞いても、みんな、ポカンとした顔をしている。どうも、最初からそういう発想があまりないようなのである。
先生方に聞くと、「もう少し欲があってもいいんですけど」とおっしゃる。学力は十分で、高い可能性があるのに、無理して大都市の著名な大学に行く必要はないという雰囲気が感じられたのだ。
日本は島国で狭いと言われる。しかし実際には自然も、風土も、習慣も、言葉も、そして何より、人と人とのつながりのあり方もさまざまである。
素質や個性の豊かさは、生まれた地域に関係ない。それなのに、どこで生まれたか、ふだんどんな人、モノ、情報に触れているかで進路の選択肢が限られてしまうとしたら、残念でならない。
私が彼らと同世代だった1970年代は、国全体にもう少しギラギラとした雰囲気があったように思う。地方出身者も、都会に出て活躍し、故郷に錦を飾るとか、そういう気概にあふれていた。それが今や社会全体に停滞、現状維持の気分が
ある人が、「東京やその近郊に生まれて育つことは、(それ自体が)最大の才能の一つ」と語っていたのを思い出した。そんな言葉が意味のあるように響く時代になってしまった。
人間の脳では
インターネットで情報を得るだけでなく、希望する進路を勝ち取った先輩から直接話を聞いたり、がんばっている姿を見たりすることで、いわば「身体」を通して脳が刺激を受け、やる気になる。そのような機会がないと、今の環境から一歩踏み出そうという発想自体、浮かばないものだ。
もちろん、大学の名前だけで判断するような時代ではない。インターネットの上には、自分でさまざまなことを学習する機会があふれている。地方で学んでも、世界の最先端につながることはできる。
それでもやはり、子どもたちの可能性を十分に生かすことや、日本全体の発展を考えると、さまざまな人と出会うチャンスは多いほうがいい。
最近は起業したい、ベンチャー企業で働きたいという学生も増えてきた。起業などのノウハウに触れ、支援してくれる人に出会う機会は、大都市のほうが圧倒的に恵まれている。在学中から起業したりその準備をしたりするケースも多いけれども、地方でそのような機会はなかなかない。
地方生まれでも、将来の機会は無限に広がっている――。子どもたちがそう実感できる日本にしたい。そのために、大人ができることはたくさんあるはずだ。
例えば、遠足や修学旅行で、名所旧跡やテーマパークを訪ねるだけでなく、大都市の著名な大学に足を延ばしてキャンパスを歩き、教授の講義を受けたり学生たちと交流したりするプログラムを企画してはどうだろう。すぐれた学生を集めたい大学側も歓迎するはずだ。
一方、大都市の大学関係者や、ベンチャー企業の経営者が地方の学校に行って、学問の面白さ、技術革新の熱気について話したり議論したりするのも良い。そのような活動に、公的な援助が得られれば素晴らしい。
鍵になるのはやはり、顔と顔を合わせた直接のコミュニケーションである。縁遠いと感じていた人や出来事を身近に感じるやり取りがあってこそ、脳の「やる気」や「目的意識」のスイッチが入るものなのだ。

教育をめぐるさまざまな課題が議論されている。地方と大都市の間のギャップもその一つで、両者を埋める取り組みは待ったなしだと感じる。
先のラグビー・ワールドカップでは、一丸となった日本代表の選手たちによる「ワンチーム」の精神が人々を沸かせた。日本が一つになった。
未来を考える上で最も大切な教育の場においても、日本を一つにする工夫をしたい。もちろん、流れは地方から大都市へばかりでなく、双方向がいい。大都市の子どもたちが地方の大学に進んだり、国内留学したりする動きも好ましい。地方と大都市という壁を越えてもっと人が行き交うことで、新しい技術革新や学問、産業が生まれる機運はいっそう高まっていくはずだ。
