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終わらぬ夏<1>「露営の歌」にじむ哀感…作曲家・古関裕而の長男 古関正裕さん(74)

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 終戦から75年の時が った。戦争体験を聞くことが難しくなった今こそ、あらためて記憶を語り残してもらい、語り継がねばならない。「戦争を考える夏」はこれからも続く。終わることはない。

こせき・まさひろ 東京生まれ。高校在学中からカントリーバンドで活動。担当はピアノ。1998年に新聞社を早期退職後、古関裕而の楽曲を中心に演奏するライブ・ユニット「喜多三」(祖父の呉服店の屋号)を結成し、活動している。著書に、「君はるか 古関裕而と金子の恋」
こせき・まさひろ 東京生まれ。高校在学中からカントリーバンドで活動。担当はピアノ。1998年に新聞社を早期退職後、古関裕而の楽曲を中心に演奏するライブ・ユニット「喜多三」(祖父の呉服店の屋号)を結成し、活動している。著書に、「君はるか 古関裕而と金子の恋」

 父・古関裕而は、満州事変が起きた1931年(昭和6年)以降、多くの戦時歌謡、いわゆる軍歌を作曲し、「軍歌の覇王」として名をはせました。しかし、兵士を鼓舞するのが軍歌だとするならば、父の曲は「軍歌」ではけっしてありません。(聞き手 阿部文彦、写真 平 博之)

 37年に作った代表作の「露営の歌」は、勝って来るぞと勇ましく――と歌い出しこそ勇壮ですが、短調でもの悲しいメロディーです。戦時中、出征兵士はこの歌で家族に見送られました。鼓舞する側でなく、兵隊さんに寄り沿った大衆歌だからこそ、愛されたのではないでしょうか。

 父は翌38年、慰問のために中国の戦地に派遣されました。病院のステージで行われた演奏会の締めくくりは、兵士による「露営の歌」の大合唱。「作曲者の古関先生がいます」と紹介され、あいさつをしようとしますが、言葉になりません。自伝「鐘よ鳴り響け」にこう書き残しています。

 「多くの兵隊の顔を見た時、その一人一人の肉親が、無事に帰ることを祈っており、はたしてその中の何人が? と思うと、万感が胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなく、ただ涙があふれてきた」

 この歌を作曲する直前、義兄を訪ねて満州(現中国東北部)を旅行し、日露戦争の激戦地の旅順も歩きました。砲弾の痕も生々しく、実際の戦場を知らなかった父は、戦闘の悲惨さに心を揺さぶられました。

 その帰途、所属の日本コロムビアから「急ぎの作曲の仕事あり。特急で会社へ」との電報が届きました。下船して東京に向かう途中、新聞でたまたま見かけたのが、「露営の歌」の歌詞でした。日中戦争勃発を受け、軍歌として公募されたのです。列車に揺られながら、古戦場の光景、それに駅で目にした出征兵士を送る様子が重なり、メロディーがすっと浮かびました。

 至急の仕事とはこの歌の作曲依頼で、帰京後、担当者も驚いたそうです。

古関裕而(こせき・ゆうじ) 1909年、福島市生まれ。30年代から、軍歌、行進曲、歌謡曲、ラジオドラマの主題歌など様々な分野で活躍。代表曲は「露営の歌」、64年東京五輪の「オリンピック・マーチ」など。89年死去。

軍歌語らなかった父 戦意高揚より兵隊さんの心

心の痛み

 父・古関裕而はその後も、人々の記憶に残る数々の戦時歌謡を作りました。しかし、家族に戦時歌謡のことや、戦時中のつらい体験を話すことはあまりありませんでした。

1953年、ハモンドオルガンを弾きながら、一家だんらんの一枚。右端が妻の金子さん、左から2人目が正裕さん(提供)
1953年、ハモンドオルガンを弾きながら、一家だんらんの一枚。右端が妻の金子さん、左から2人目が正裕さん(提供)

 多くの人に愛唱されながら、戦後もずっと心の痛みを引きずった曲もあります。

 <若い血潮の予科練の>――で始まる「若鷲の歌」です。海軍航空兵のエリートの卵である予科練を描いた映画の曲ですが、「予科練の歌を歌って、特攻隊として亡くなった方を思うと心が痛む」と父が語るテープが残っています。

 戦局が悪化した大戦末期には、機体に爆弾を積んだ特別攻撃隊が編成されました。予科練の卒業生も多くが、その一員として空に散りました。

 ヒットしたこの曲にあこがれて予科練に入った若者も大勢いたことでしょう。そのことで父の「戦争責任」を問う人もいます。かばうわけではありませんが、そうなると、戦時下に生きた日本人の多くに戦争責任があったことになるのではないでしょうか。

 父は反戦運動家でも国家主義者でもありません。ごくごく普通の庶民の感覚で、お国に協力して作曲することが職業作曲家の義務と考えていたのだと思います。戦時歌謡を作ったことへの“後悔”は感じていなかったようです。

 ほかの戦時歌謡と違うのは、父が常に兵隊さんの気持ちを意識していたことでしょう。だから、「勇ましいだけの曲はあまり書けなかった」と回顧しています。「露営の歌」も哀感が強すぎると、軍部の批判もあったようです。

 「若鷲の歌」にも、こんなエピソードが残っています。最初は勇壮な長調の曲を作ったのですが、本人はどこか気に入らない。茨城県の霞ヶ浦海軍航空隊に向かう列車の中で、短調のメロディーが脳裏に浮かんだそうです。

 予科練の練習生たちの前で2曲とも演奏したところ、教官は勇ましい曲を選びましたが、練習生の支持が圧倒的に集まったのは短調の悲しげな曲でした。作曲者と練習生の気持ちがマッチして、名曲が生まれたのでしょう。

 父が「思い出したくない、一番嫌な歌」という戦時歌謡もあります。「比島(フィリピン)決戦の歌」で、作詞は西條八十さん。

 <いざ来いニミッツ、マッカーサー 出て来りゃ地獄へ逆落とし>――ですから。この一節は軍部が歌詞を作ったようです。終戦後、西條さんはこの歌詞のせいで、「戦犯になるのでは」と、おびえたそうです。

長崎原爆

 終戦後、父は連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」を作りました。主人公は両親を亡くした戦災孤児。台本が度々遅れ、苦労したそうです。孤児の力になろうと、父も自らハモンドオルガンを弾くなど奮闘しました。

 1949年(昭和24年)に、長崎医大の永井隆博士が著した「長崎の鐘」にちなんだ曲を作ります。長崎原爆直後に治療に当たった永井博士は自らも被爆しており、白血病となりました。<こよなく晴れた青空を>――とゆったりとした短調で始まる曲は、後半で長調に転調します。

 「戦災の受難者全体に通じる歌だと感じ、再起を願って、『なぐさめ』の部分から長調に転じて、力強くうたいあげた」と自伝に記しています。

復興のマーチ

 1964年(昭和39年)10月10日には、父が作曲人生の集大成と自負する「オリンピック・マーチ」が、東京五輪の開会式で響き渡りました。

 その2年前、父が興奮して帰宅し、「東京オリンピックの行進曲を書くことになったよ」と、家族にうれしそうに話しました。ふだんは、どんな曲を作るのかを報告する父ではありません。クラシック志向が強かっただけに、世界という舞台は特別な名誉だったのでしょう。

 開会式の日に父が回した8ミリフィルムが残っています。なぜか、羽田空港に降り立つシーンで始まり、完成したばかりの首都高速道路を走って、国立競技場に移動します。

 「戦時中、敗戦後の苦難をくぐり抜け、日本はここまで復興したんだ」

 マーチに込めた、そんな思いにふさわしい映像を残したかったのかもしれません。

 父の曲は、戦時中も戦後も、その時代の人々とともにありました。

「戦時歌謡」信念の表れ

 「戦時歌謡」という用語は戦時中にはなかった。正裕さんが「露営の歌」などを戦時歌謡と呼ぶのは、古関が自伝で軍歌と自分の曲に一線を画しているからだ。軍歌は軍が直接、命令して作らせる曲を指し、ましてや国民一般が歌う曲は軍歌とは言えないのだと。

 心の痛みを抱きつつも、兵士、大衆に寄り添う自分の曲は、戦意高揚を目的とした軍歌とは違うという信念を持っていた。

 正裕さんには、ゴザに座るしょう軍人を見かけると必ず駆け寄り、お金を渡す父の姿が目に焼き付いている。(阿部)

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1379190 0 社会 2020/08/01 05:00:00 2020/08/03 19:13:12 2020/08/03 19:13:12 父、作曲家の古関裕而を語る長男の正裕さん(7月9日、東京都大田区の自宅で)=平博之撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/08/20200801-OYT1I50011-T.jpg?type=thumbnail

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