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終わらぬ夏<2>やんばるへ 100キロ避難行…歌三線奏者 城間徳太郎さん(86)

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しろま・とくたろう 組踊音楽歌三線の人間国宝。1933年、沖縄県真和志村(現・那覇市)生まれ。国立劇場おきなわの組踊養成事業の講師を務め、後進を育成している。沖縄県立芸術大名誉教授
しろま・とくたろう 組踊音楽歌三線の人間国宝。1933年、沖縄県真和志村(現・那覇市)生まれ。国立劇場おきなわの組踊養成事業の講師を務め、後進を育成している。沖縄県立芸術大名誉教授

 1933年、今も住む那覇市の与儀よぎに農家の三男として生まれました。サトウキビを中心に作っていた父は、伝統楽器の三線さんしんの愛好家で、たまに家で弾いていたことを覚えています。(聞き手 帆足英夫、写真 中司雅信)

 11歳だった44年10月10日の空襲が、記憶に残る最初の戦争体験です。飛行機の音に「演習かな」と思い、自宅の木に登って市街地を見たら、真っ赤になっていました。「これが戦争なんだ」と現実を突きつけられました。

 空襲後、日本軍のトラックに乗り、本島北部のやんばる(山原)に疎開しました。大宜味おおぎみ村の避難所で数日を過ごし、家に戻りました。

 沖縄戦が始まる直前の45年2月か3月にまた、やんばるに避難することになったのです。「アメリカが上陸してくる」ということで、役場の指示があったようです。今度はトラックなんてなかった。私や両親、姉たちら家族と、集落の人たち計数十人が、約100キロの道のりを、米や塩を抱えて歩くことになった。

 米軍に見つからないよう、昼は飛行機の音におびえながらごうなどに隠れ、日が暮れると移動する。米軍は上陸後南下した。早めに北に逃げたからよかった。南だったら地獄を見ていたはずです。

 初日の昼間は、普天間の壕で眠りました。ぎゅうぎゅうでした。突然、別の家族の幼い子どもが泣き出しました。米軍による発見を警戒したのか、一緒にいた日本兵が「出しなさい」とその子の母親に命令しました。彼女はそっと、その子と出て行きました。

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1381030 0 社会 2020/08/02 05:00:00 2020/08/06 11:54:26 2020/08/06 11:54:26 戦争体験について話す城間徳太郎さん(7月11日、那覇市で)=中司雅信撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/08/20200802-OYT1I50019-T.jpg?type=thumbnail

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