「戦死は怖くない、その前に真っ白なお米をおなかいっぱい食べたい」みんな思ってた…「すきやばし次郎」主人

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◆…「すきやばし次郎」主人 小野二郎さん 94…◆

 今年の8月15日で、終戦から75年。今回の「あの夏 戦後75年」では東京・銀座の (すし) 店「すきやばし次郎」の主人、小野二郎さん(94)に、戦争について語ってもらった。(聞き手・立原朱音)

戦地で死ぬ前に真っ白い米を食べたい

 ――7歳の頃から地元・浜松市(静岡県)の料理旅館へ奉公に出て、16歳だった1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まると、軍需工場で働き始めました。

「小さい頃から苦労した。家族にはあんな苦労はさせたくない、と思って働いてきた戦後75年でした」(7月4日、東京・銀座の「すきやばし次郎」で)
「小さい頃から苦労した。家族にはあんな苦労はさせたくない、と思って働いてきた戦後75年でした」(7月4日、東京・銀座の「すきやばし次郎」で)

 「アメリカと戦争が始まったのが12月8日で、12月15日に軍需工場に行きました。横須賀の海軍航空技術(しょう)の支廠が横浜の金沢八景あたりにあって、爆弾の外側部分を作るための熱処理工場で働きました。外の工場から運ばれてきた鉄の塊を、1000度くらいまでにした油の釜に落として焼き入れするんです。私は起重機(クレーン)を運転し、塊をひたすら油に入れていました」

 ――それまで料理人だったのに突然、未体験の仕事をすることになりました。

 「運転席は高さ10メートルくらいのところにあるんです。言われたとおりに運転していれば、ちょっとサボっていても地上から見られない。休みなしで一日中どなり続けられていた、奉公時代の方がよっぽどつらかった」

 「工場へは寮から通っていました。寮は大体6人部屋で、一緒に働いている仲間とは友達になりましたよ。でも親しかった人が、作業中に死ぬことが何度かありました。足を滑らせて油の中に落ちたり、荷物の下敷きになったりするんです」

 ――その後、44年(昭和19年)に豊橋市(愛知県)の工兵隊で軍隊生活が始まりました。

 「朝から晩まで追っかけられながら訓練しました。まず入った時に古い靴をもらうんだけど、かなりサイズが小さい。『合わない』というと『バカ野郎。おまえの足を合わせろ』と。足の裏は常にマメだらけ。銃も5人に1丁でした」

 「しばらくして、今度は毎日穴掘り。パン工場を造るため、動物園の裏の山の中をひたすら掘った。掘ると水が出てきて、つかりながら作業をしているとみんな下痢になるんです」

 「作業を終えると、宿舎にしていた小学校の校舎へ帰り、米とコーリャンのご飯を食べる。おかずはトラックで毎月、1か月分が運ばれてくるのですが、今月はキュウリだけ、次はタマネギだけ、とか。戦地に行って死ぬことはちっとも怖くなかった。当たり前のことだと。でも、いつ死んでもかまわないから、その前に真っ白なお米をおなかいっぱいに食べたいな、と思っていました。みんなそう」

 ――戦時中に見たもので、心に残っていることは。

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1411855 0 社会 2020/08/13 05:00:00 2020/08/15 10:12:23 2020/08/15 10:12:23 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/08/20200813-OYT1I50082-T.jpg?type=thumbnail

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