「あの時代の感情」伝わってくる肉声…「昭和史の天皇」取材テープ公開
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読売新聞は12日、1967年から約9年に及んだ連載「昭和史の天皇」の取材テープの公開を始めた。読売新聞オンラインの「『昭和史の天皇』音声アーカイブズ」で、第2次世界大戦勃発から終戦に至る経緯について、ヒトラー率いるドイツとの連携を図った大島浩・元駐独大使らの証言を聞くことができる。歴史の検証に欠かせない貴重な資料で、戦争の記憶を引き継ぐ記録としても注目されている。

「昭和史の天皇」は、1967年1月1日から75年9月30日まで2795回連載し、この間の68年に菊池寛賞を受賞している。取材では、国策に関与した政治家や官僚、戦場に赴いた軍人に加え、一般国民など延べ1万人の協力を得た。インタビューを録音したテープの肉声からは、戦中に加え、戦前の緊張感も伝わってくる。伊藤隆・東大名誉教授(日本近現代史)は「昭和という時代を読み解くためには欠かせない資料だ。特にテープからは文字にすると抜け落ちてしまいがちな感情が伝わってくる」と評価する。
日独連携を推進した大島浩・元駐独大使も取材に応じた一人だ。
「犬が尻尾を振って来るとかわいい。ウーなんて言ったらこれは憎らしいんだ。ドイツ人は反対ですよ。『ウーと言う
ドイツ人気質についてこう話した後、防共協定の軍事同盟化について語る。
「戦までやる。そういう条約を結んだ方が脅しは利くわけですね。日ソが戦ったとするとドイツが加わってもらわないと困る。どういう範囲、条件で(軍事支援を)やるかは内緒で一つ話そうじゃないかと。こういうことなんですがね」
交渉相手だったリッベントロップ独外相との親密な関係がうかがえる証言だ。
「昭和史の天皇」の取材は、終戦からようやく20年が過ぎた1960年代半ばに始まった。戦争体験者が多く、戦後75年の現在では得ることの難しい、生々しい史実を伝える「オーラル・ヒストリー」となっている。
満州(現中国東北部)とモンゴルの国境線を巡り、満州駐留の関東軍とソ連・モンゴル軍が衝突した1939年のノモンハン事件については、戦車部隊連隊長、参謀本部作戦課長に話を聞いた。ロシア政治外交史が専門の防衛省防衛研究所の花田智之主任研究官は「量、質ともに得がたい記録だ。事件を研究する上では必須の資料だ」と話す。
日中戦争に詳しい戸部良一・防衛大学校名誉教授は「紙面化されなかったインタビューやメモから新たな事実が見つかる可能性もある」と述べ、「昭和史の天皇」の取材テープやメモ、関係資料の公開がさらに進むことへの期待感を示している。(文化部 前田啓介)
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「A級戦犯」の証言


「『昭和史の天皇』音声アーカイブズ」は第1弾として、東京裁判の「A級戦犯」で終身禁錮の判決を受け、後に仮釈放された大島浩・元駐独大使と、沖縄戦で本島防衛作戦にあたった
大島浩元駐独大使「僕なんぞが助かっちゃってね」
大島元大使は駐独武官時代に日独防共協定締結の立役者となった。大使となってからも独ソ戦の戦場視察を優先して許されるなど緊密な関係にあった。取材テープでは「国民に対してすまぬと思っている」「私なんぞは当然絞首刑になるべき人間なんだが、僕なんぞが助かっちゃってね、広田(弘毅・元首相)、松井(石根・元陸軍大将)両氏がやられているんだ」と自責の念を示している。
八原博通元第32軍高級参謀「作戦準備がご破算に」
八原元参謀は沖縄戦を持久戦に持ち込む考えでいた。その理由について「本土決戦のために少しでも敵兵を殺し、それから弾薬を浪費させ、(中略)本土決戦の準備のために時間がいるから」と説明する。「途中で根本的に変更して、すべての作戦準備がご破算になる」「敵がやって来た時に、こちらは準備したとおり持久作戦をやるというのに、出ていけ出ていけと猛烈強く言ってくる」などと述べ、大本営の方針に
音声や紙面随時公開

「『昭和史の天皇』音声アーカイブズ」は、取材テープの音声を抜粋して公開しているほか、伊藤隆・東大名誉教授や戸部良一・防衛大学校名誉教授の解説動画(伊藤隆氏、戸部良一氏)、当時の新聞紙面や関連する写真を見ることもできる。今後、公開する音声を随時増やしていく。
「昭和史の天皇」の取材テープや資料について、読売新聞東京本社は2018年、計約2200点を国立国会図書館に寄贈した。同館はCDにデジタル化するなどして一部公開を始めている。取材テープ約950本のうちCD化して公開しているのは190本弱にとどまり、残りは破損などを防ぐため未公開のままだ。
18年の寄贈後、連載の中心となった読売新聞OB宅からは、大本営参謀だった瀬島龍三・元伊藤忠商事会長への取材内容を書き残したノートなどが見つかり、同館と追加寄贈について協議している。(知的財産部 河野越男)
戦争中の思い聞き出す
取材班の一員だった桑野

テープレコーダーがあまり普及していなかった頃からインタビューを全部録音し始めたのは、歴史的な資料になることを意識したからではありません。どの証言も短時間で聞き終えられる話ではないし、こちらの知識も不十分なので、上司のデスクに正確に報告するために必要だったのです。結果的に、大変貴重な証言資料を後世に残すことになりました。
レコーダーはまだ大きくて重く、担いで話を聞きにいくと(元内大臣の)木戸幸一さんや大島浩さんのような名の知れた方も次第に心を開いてくれました。
私は当時20代で、デスクからは「孫娘がおじいちゃんの手柄話を聞くような取材で終わるんじゃないぞ」と言われていましたが、お二人をはじめ、子や孫の世代にきちんと語り残しておきたい、という気持ちで取材に応じてくれた人は多かったと思います。
取材当時は、戦後まだ20~30年しかたっていない頃です。でも、戦中世代は戦争での体験を家族にも語ろうとしていなかった。生き残ったことを申し訳ないと感じ、引きずっている人も少なくありませんでした。それをコツコツと聞きに行くと、やがて部下だった元兵士たちを紹介されるなどして取材が進みました。
研究者や専門家による聞き取り調査とは違って、新聞社のインタビューは話しやすかったのかもしれません。こちらの関心は客観的な事実だけでなく、むしろ戦争中の思いや心の内にありました。だから、例えば駐独大使を務めた大島さんは、ヒトラーや当時のドイツの勢いに幻惑された心境なども率直に語っている。人間くさい証言資料としても価値があると思います。
インターネットの時代となり、こうした肉声が誰でも聞ける形で公開されるのは、本当に感慨深く、うれしいことです。(談)