【独自】秩父宮、軍紀の乱れ懸念…日中戦争初期の書簡見つかる

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 昭和天皇の弟宮で陸軍軍人だった秩父宮雍仁やすひと親王が、日中戦争(1937~45年)初期に旧日本軍の戦略や軍紀の乱れを懸念した書簡が見つかった。秩父宮が日中戦争に否定的だったことは陸軍関係者の証言などで知られていたが、秩父宮自身がその思いをつづった当時の文章は、研究者の間でも知られていなかった。

秩父宮雍仁親王(「皇族に生まれて」から)
秩父宮雍仁親王(「皇族に生まれて」から)

 書簡は、同じ軍人皇族で当時、中国・華北地方に出征していた閑院宮春仁かんいんのみやはるひと王(1902~88年)宛て。1937年12月30日(便箋4枚)と38年2月22日(同5枚)の2通あった。元宮内庁書陵部編修課長で、昭和天皇記念館(東京都立川市)の梶田明宏副館長が、神奈川県の小田原市立図書館の所蔵資料から確認した。

閑院宮春仁王(「日本史上の秘録」から)
閑院宮春仁王(「日本史上の秘録」から)
1938年2月22日の書簡。秩父宮家の紋章が描かれた便箋に「中支方面の軍紀風紀に関しては 之か日本の軍隊かと唯嘆せられることのみ聞かれまして遺憾と申す外ありません」と書かれている(小田原市立図書館蔵)
1938年2月22日の書簡。秩父宮家の紋章が描かれた便箋に「中支方面の軍紀風紀に関しては 之か日本の軍隊かと唯嘆せられることのみ聞かれまして遺憾と申す外ありません」と書かれている(小田原市立図書館蔵)

 関係者に取材した伝記「秩父宮雍仁親王」(72年)によると、秩父宮は日中戦争中、陸軍の中枢で、東京にあった参謀本部に在籍していたが、中国大陸での戦線拡大に批判的で、速やかな収拾を求めていた。

 日中戦争初期の37年12月13日には、旧日本軍が国民政府の首都だった南京を陥落させ、捕虜、住民を殺害したとされる南京事件も起きた。東京にいた皇族が事件を詳細に把握していたかは不明だが、南京陥落後の書簡で秩父宮は軍紀の乱れを懸念している。

 「中支方面の軍紀風紀に関しては これか日本の軍隊かとただ嘆せられることのみ聞かれまして遺憾と申す外ありません」(38年2月22日)

 戦争の収拾を求める思いを裏付ける記述もある。

 「内地において耳にすることの中には日支親善、東洋平和確立の礎とふ見地から見まして疑問に思はれることも少くない様に考へられます」(37年12月30日)

 梶田副館長は「和平を望んでいた昭和天皇同様、秩父宮も和平を実現しようとしていた」と推察している。

 ◆秩父宮雍仁親王=1902~53年。大正天皇の第二皇子。青森の歩兵第三十一連隊大隊長や参謀本部参謀を務めた。40年に結核を発病し療養生活を続けた。男性皇族は天皇の子・孫が親王、ひ孫以降は王とされる。

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1627327 0 社会 2020/11/15 05:00:00 2020/11/15 09:14:45 2020/11/15 09:14:45 秩父宮家の紋章が描かれた便箋に「中支方面の軍紀風紀に関しては 之か日本の軍隊かと唯嘆せられることのみ聞かれまして遺憾と申す外ありません」と書かれている(1938年2月22日の書簡)(小田原市立図書館所蔵) https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/11/20201115-OYT1I50025-T.jpg?type=thumbnail

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