空の守り半世紀、さらばファントム…親子2代で搭乗の空将「感慨深い」
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日本の空を約半世紀にわたって守ってきた航空自衛隊のF4戦闘機(愛称ファントム)が今月、退役した。空将の尾崎義典さん(55)は、同機の配備直後の事故で殉職した父を追い、親子2代でファントムを操った。現在、次期戦闘機の開発に携わる尾崎さんは「昭和、平成、令和を飛んだファントムの交代に立ち会うのは感慨深い」とかみしめている。(園田将嗣)
殉職

ファントムは1972年、百里基地(茨城県)に最初に配備された。臨時の飛行隊ができ、当時39歳の2等空佐だった尾崎さんの父・義弘さんが隊長に就いた。空自戦闘機で初めて音速を超えたF104などを乗りこなした、総飛行時間3800時間のベテランだった。
ファントムには2人の隊員が乗り込む。前席の隊員が操縦し、後席の隊員はレーダー操作などを担う。73年5月1日、義弘さんが後席に座ったファントムは、鹿島灘沖で訓練中に空中爆発。前席の阿部正康・1等空尉(当時35歳)と2人、海に投げ出された。阿部さんは遺体で収容されたが、義弘さんは救助準備中、姿が見えなくなった。事故原因は、今も特定されていない。
運命
尾崎さんが初めて飛行するファントムを見たのは、事故の2日前にあった百里基地の航空祭だった。当時、小学2年生。低いエンジン音が耳に残った。「お父さんの仕事、格好いい」。その時に抱いた思いは、義弘さんの死後も消えなかった。
高校3年の頃、防衛大に進み、空自を目指すと母・不二子さん(2018年に84歳で死去)に告げた。猛反対を受けたが、最後には「行かせたくないけど、行くならパイロットになりなさい」と言ってもらった。
88年3月、空自に入隊。当時、最新鋭機だったF15戦闘機に乗ることを望んだが、配属先は那覇基地(沖縄県)のファントム部隊だった。「運命を感じた」と尾崎さんは振り返る。実際に乗るファントムは操縦の難しい機体で、特に失速時、足元のペダルで行う垂直尾翼の方向
部隊で戦闘機に乗ったのは空自入隊後の5年だけだったが、ずっと、ファントムだった。その後、米国の防衛駐在官や第5航空団司令などを務め、今は防衛装備庁の装備官として次期戦闘機の開発に関わる。空自にはパイロットを退いても技量維持を目的に飛行訓練を続ける制度があり、この間もファントムに乗り続けた。
感謝
百里基地のブリーフィングルームの一角には、「尾崎」と記された古いパイロットスーツが畳んで置かれていた。父・義弘さんが着ていたものだ。事故から約12年後の85年1月、事故現場の海で足の骨の一部とともに、漁網に引っかかった。パイロットたちはこのスーツを見て安全を誓ってきた。
ファントムの退役に伴い、同機を最後まで運用してきた百里基地の第301飛行隊は今月、三沢基地(青森県)に移り、F35Aの部隊となった。スーツは今、尾崎さんの手元にある。
「今までファントムを守ってくれてありがとう」。尾崎さんは、そう思っている。
◆F4戦闘機=機体は米ボーイング社(旧マクドネル・ダグラス社)が開発し、三菱重工業がライセンス生産。最大速度はマッハ約2.2、航続距離は約2900キロ・メートル。計140機が導入され、配備先の千歳、百里など航空自衛隊の7基地で領空侵犯の対応などにあたった。