ガラケー使い、煮干しかじる35歳ボクサーの動画に「投げ銭」殺到
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様々なニュースがあった2020年も残り半月を切った。現場を駆け回った記者たちが、出会った人々の喜びや悲しみ、苦悩をつづる。
25歳まで引きこもり
気持ちが浮ついていた。8月31日、東京・新宿で開催されたプロボクシングの試合。35歳、山口拓也選手が繰り出すパンチは、ことごとく空を切った。

2ラウンド、早くも相手のフックとアッパーを顔面に浴び、膝が崩れた。レフェリーが試合を止め、KO負け。これで戦績は4勝12敗2分。ただ、薄れる意識で真っ先に考えたのは、楽しみにしていた破格のファイトマネーのこと。「75万円。少しは周囲に恩返しができるかな……」
実績に見合わぬ高額報酬は、主催者が考案した「投げ銭」システムのお陰だった。試合1か月前から、選手の生活を追った動画を「ユーチューブ」で配信し、ネットを通じて、ファンから1口500円で投げ銭を募集する仕組み。試合もネットで配信するなどして、新型コロナウイルスの影響で打撃を受けた興行収入を増やす狙いだ。
8月1日、山口選手の動画が公開されると、投げ銭が殺到した。地元、茨城県日立市の安アパートで一人暮らし。部屋に冷蔵庫やエアコンはなく、コンビニエンスストアのアルバイトで生計を立てる。従来型の携帯電話「ガラケー」を使い、煮干しをかじる無名のボクサーの生活は話題を呼び、公開された中で最多の77万円を集めた。手数料を差し引いたファイトマネーは普段の約10倍、日本王者級に膨れあがった。
今年、スポーツ界はコロナで開催延期などを余儀なくされた。プロボクシングも3~7月上旬、試合が中止され、観客の入場制限も続く。山口選手は苦境にたつ業界の話題作りに一役買ったつもりだった。
甘い考えが試合結果に表れた。自分の土俵である接近戦だったのに、いいところを見せようと大振りになった。勝っても負けても75万円という思いから、粘りも欠いた。「ようやくスポットライトを浴びたのに、何もできなかった」。ふがいなさに打ちのめされた。
中学から25歳まで引きこもり生活だった。部活や勉強に打ち込む友人について行けず、何となく休んだのが始まり。1日のつもりが、何かと理由をつけて1週間、1か月になり、登校のきっかけを失った。周りから見下される気がして、人と会うのもやめた。
25歳の頃、内装業を営む父の和洋さんが病気で仕事ができなくなり、ようやく、コンビニでアルバイトを始めた。手際の悪さを叱られ、対人関係のストレスもあって何度も辞めようと思った。
そんな時に出会ったのが、ボクシングだ。体を動かしてみようと入会した地元のジムで汗を流すと、仕事のつらさを忘れられた。ジムの佐藤勝美会長(76)から「プロを目指せる」と乗せられ、練習を重ねた。数か月後、他ジムの選手とのスパーリングも経験し、試合で力を試したくなった。「挑戦できることが見つかった」。のめり込み、27歳でプロテストに合格した。
以来、負けがこんでも「もう1戦」と踏ん張った。一つのことに熱中する充実感や仲間らとの一体感。引きこもり生活で味わえなかった体験も新鮮で、気づけば8年たっていた。投げ銭の試合で心の弱さとも向き合えた。「支えてくれる仲間のためにも、次は全力を出す」。今は地元のジムで、今月26日の次戦に向け、黙々とミットをたたく。
日本ボクシングコミッションの規定では、王者などを除いて、37歳になった時点でプロのライセンスは失効する。山口選手が戦える時間は、あと1年半余り。記者がそれを問うと、「打ち込めるものがなかった僕には、今が青春。やりきりたい」と語ってくれた。中年ボクサーの挑戦は最後まで熱くなりそうだ。(小林岳人)