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沖縄の惨禍 次代に継ぐ…戦後76年 慰霊の日

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「平和の火」の前で手を合わせる人たち(23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園で)=秋月正樹撮影
「平和の火」の前で手を合わせる人たち(23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園で)=秋月正樹撮影

 太平洋戦争末期の沖縄戦戦没者を悼む「慰霊の日」の23日、沖縄県糸満市 摩文仁まぶに の平和祈念公園で「沖縄全戦没者追悼式」が行われた。新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言が継続中で、規模を例年の5000人以上から36人に大幅縮小。参列者は黙とうをささげて戦没者の 冥福めいふく を祈った。

 玉城デニー知事は「平和宣言」で、戦争の体験や教訓を次世代に伝えることが「私たちの大切な使命だ」と訴えた。菅首相はビデオメッセージで、基地負担の軽減に向けて「一つ一つ、確実に結果を出していく決意だ」と語った。

 宮古島市立西辺中2年の上原美春さん(13)が自作の詩「みるく うた 」を朗読。「みるく世」は沖縄の言葉で「平和な世の中」を意味し、「戦争の過ちを伝え続け、今を生きるわたしたちが平和な世界を作っていく」という決意を込めた。

 同公園の「平和の火」や「平和の いしじ 」では遺族が手を合わせた。平和の礎の刻銘者は41人追加され、24万1632人となった。沖縄戦では日米の20万人以上が死亡した。76年前の6月23日に組織的戦闘が終結したとされる。

命の大切さ伝える決意…親族犠牲の医師

自宅の居間から親族たちが眠る墓の方向に向かって黙とうする中村義清さん(左)、義人さん親子(23日、沖縄県与那原町で)
自宅の居間から親族たちが眠る墓の方向に向かって黙とうする中村義清さん(左)、義人さん親子(23日、沖縄県与那原町で)

 沖縄県 与那原よなばる 町の医師中村義清さん(84)は23日正午、自宅で、同じく医師の長男義人さん(56)と並んで、黙とうをささげた。約60年にわたって医療に情熱を注いできたのは、戦中戦後を通じて多くの命を見送ってきた亡き父・義明さんの姿を見てきたからだ。

 1945年3月、一家7人は米軍の艦砲射撃から逃れるため、旧 東風平こちんだ 村(現・八重瀬町)の自宅を出て防空 ごう を転々とした。当時8歳。前年には3歳の弟が肺炎を患い、十分な治療を受けられずに亡くなっていた。

 米軍の銃撃は、夜空が照明弾で照らされた瞬間に始まった。とっさに身を伏せたが、銃弾は3歳のいとこの頭を貫いた。父は翌朝、投降を決断したが、前夜に我が子を奪われた叔父は米兵に手りゅう弾を投げ、銃撃を受けて即死した。

 一家は米軍の目を盗んで逃走。折り重なる遺体の間を縫って移動したが、見つかり、収容された。理科教師だった父は収容所の診療所で働いた。マラリアや栄養失調で死者も相次いだ。

 終戦後、物理学を学ぼうと考えていた中村さんに、父は「医学部に行け」と繰り返すようになった。家族を失い、人の死に立ち会ってきた父から「人の命を助ける存在になれ」と背中を押された気がした。

 長崎大医学部に進み、69年に与那原町に内科医院を開業。医院は少なく、1日に100人前後の診察を終えた後、夜は往診に回った。父は医師となった息子の姿を見ることなく他界した。

 中村さんは「人間も社会も壊すのが戦争だ。その愚かさを知っているからこそ、命の大切さを伝えていきたい」と語る。

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2151173 1 社会 2021/06/24 05:00:00 2021/06/24 05:00:00 2021/06/24 05:00:00 「平和の火」の前で手を合わせる人たち(23日午前6時3分、沖縄県糸満市の平和祈念公園で)=秋月正樹撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/06/20210624-OYT1I50020-T.jpg?type=thumbnail

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