「沖縄県民斯ク戦ヘリ」父・大田中将の「遺言」に思い新た…海自OBの三男「惨事繰り返さぬ」

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1944年に撮影された大田家の家族写真。中央に座る大田中将の右が落合さん=落合さん提供
1944年に撮影された大田家の家族写真。中央に座る大田中将の右が落合さん=落合さん提供

 63年に防衛大を卒業し、海自に入隊。本土復帰2か月後の72年7月、沖縄県名護市の自衛官募集事務所に初代所長として赴任した。壮絶な戦闘を経験した県内には、反自衛隊感情が渦巻いていた。

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 事務所には連日デモ隊が押し寄せ、入り口の鍵穴がコンクリートで固められ、中に入れないこともあった。大田中将は電文で県民への配慮を訴えたが、「その息子が県民を戦争に連れて行くのかと批判されたこともあった」と振り返る。

 そんな状況を知り、当時の沖縄県知事・屋良朝苗氏が面会を申し出てくれた。「戦後27年間、沖縄は里子に出されていたのです。その苦労を理解してあげてください。一度滅びた国の再興は50年、100年の計で考える必要があります」。知事公舎で手を握りながら諭された。

 落合さんは毎朝、電柱に貼られた「人殺し」と書かれたビラを一枚一枚剥がし続けた。理解を示してくれる住民も増え、抗議は沈静化していった。

後世に伝える

 約20年後の91年、湾岸戦争後のペルシャ湾で、イラクが敷設した機雷を除去する掃海部隊の指揮官を任された。賛否が分かれる中で行われた、自衛隊初の海外派遣活動だった。

 現場の海域は流れが速く、砂漠の砂で濁っていた。「父は部下の命を大切にしていた」。ダイバーが機雷に接近し、手作業で処分する過酷な活動に臨む際に、「迷ったら安全な方に転ぶ」との方針を示した。511人の隊員は1件の事故も起こさず34個の機雷を処分した。

 翌92年には国連平和維持活動(PKO)協力法が成立し、自衛隊による国際貢献の流れができた。96年に退官した後も各地の講演会で経験を伝えた。

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