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ロング・アフタヌーン 第145回 葉真中顕

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 〈あの人と結婚したのは失敗でした。離婚、決意しました〉

 夫に(たた)かれたと書いていた人が、その後のレスで宣言していた。結婚七年目、三〇代と書いてある。子供もいないようだ。〈頑張って〉〈応援します〉と励ますレスが続いている。トピ主も〈私も母が父と離婚してくれればといつも思っています。上手(うま)く別れられることを願っています〉とエールを送っていた。

 私も夫に叩かれたことがある。一度だけ。

 もうずいぶん前。息子が生まれてすぐの頃だ。彼の機嫌が悪いとき息子が泣き()まず、そのことを責められ、少し言い返したら「口答えするな!」と叩かれた。あのとき交わした言葉はもうほとんど忘れてしまったけれど、怒声と恐怖はまだ覚えている。

 記憶にあるかぎり、人に顔を叩かれたのは初めてだった。当時から一〇〇キロ近くもあった大柄の夫の力は(すさ)まじかった。首がもげるかと思うほどの勢いで吹っ飛ばされ私は倒れた。衝撃で意識が朦朧(もうろう)とし、その場で身体(からだ)が震えだした。目の前の床に見えた赤い斑点が、自分が流した鼻血だとはすぐにはわからなくなった。

 夫もさすがにこれには狼狽(ろうばい)したようだった。「大丈夫か」と私を抱きかかえ寝室に運び、(ひょう)(のう)で顔を冷やしてくれた。そうだ、あのとき私は「ありがとう」と言ったんだっけ。叩かれたのはこっちなのに。

 後遺症が残るような怪我(けが)はしなかったけれど、翌日には私の顔の右半分がぱんぱんに()れ紫色に変色した。もう二度と表を歩けなくなるのかと思ったけれど、ひと月ほどで腫れは引き、ほぼ元どおりの顔になった。不幸中の幸いと思っていいことだろう。

 夫にとってもあの出来事はトラウマになったようだ。私が顔を腫らしているときはずいぶん殊勝になっていたし、彼は二度と私を叩かなくなった。代わりにものに当たるようになったけれど。

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2117777 1 ロング・アフタヌーン 2021/06/18 05:20:00 2021/06/18 05:20:00

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