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読売新聞で振り返る五輪名場面

“鬼”の大松、“逆転”の松平…バレーボール名将の素顔

メディア局編集部 二居隆司

戦地で死線をさまよった大松の覚悟

  • 日本女子バレーの金メダル獲得を報じる1964年10月24日付読売新聞朝刊社会面
    日本女子バレーの金メダル獲得を報じる1964年10月24日付読売新聞朝刊社会面

 サダ、昌枝、節子、絹子、百合子……1964年の東京大会の女子バレーボールで金メダルを獲得した「東洋の魔女」たちのお名前である。

 一方、前回2012年ロンドン大会で、同種目として28年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得したチームの選手の名前はというと――。

 瞳、香織、愛、舞、絵里香、沙織、理沙、さおり……。48年の時の流れを感じさせられる。

欧州遠征で22戦全勝

 日本のスポーツ史にさん然と輝く「東洋の魔女」との異名は、東京大会から3年遡った1961年ごろから使われ始めたようだ。62年10月27日付読売新聞朝刊の「時の人」に、のちに監督として日本女子バレーボールチームを率い、同大会での金メダルに導く“鬼の大松”こと大松博文が紹介されている。その記事中に、前年の欧州遠征では22戦全勝で、「“東洋の魔女”と呼ばれるまでになった」とあるからだ。

 同じ記事には、日本女子バレーボールチームの猛練習を見ていた人たちの「大松氏は鬼のように思えた」とのコメントもあわせて紹介されている。

  • “鬼”の大松の素顔を伝える1963年3月6日付読売新聞朝刊掲載の「現代の姿勢」
    “鬼”の大松の素顔を伝える1963年3月6日付読売新聞朝刊掲載の「現代の姿勢」

 そのコメントがきっかけになったのだろうか。翌63年の3月6日付読売新聞朝刊に掲載された人物読み物「現代の姿勢」は大松を取り上げており、その見出しは「“鬼”といわれて世界一を鍛える」。記事の中には、「“先生(大松のこと)”は世評“鬼の大松”といわれている」とある。

 大松の回は上下2回で、翌3月7日付紙面に「下」が掲載されている。その記事の中で、なぜ大松は「鬼」と呼ばれるまで厳しく勝負にこだわるのか、その理由がよくわかるエピソードが紹介されている。

戦争の異常体験を“前向きの姿勢”で生かす

 その記事によると、大松は日紡に入社3か月で応召され、中国各地を転々としたあと、インパール作戦に投入される。大松少尉ら40人の部隊は、「山を越え、食べ物はすでになく、マラリア、アミーバ赤痢で四十度の熱でぼうっとなりながら敗走」する。

 「友を呼ぶ、というのか、ふっとさびしい気持ちになるとき、道ばたの死者の“かたまり”の横に行ってゴロリとなりたくなる」こともあった。

 そんなとき、ある陣地を「死守せよ」との命令が下る。だれもがその命令を果たせないことを理解している。「命令を伝える大松少尉の顔も、部下の顔もムラサキ色に変わった。『これで死ぬ』限界状況の心理状態は彼の心にしっかりときざまれた」

 記事を執筆した記者は、「多くの日本人が持っている戦争の異常な体験を、大松監督は日紡貝塚のチームづくりのなかで“前向きの姿勢”で生かしている」と指摘している。戦争経験のないわれわれとは「覚悟」が違うのだ。

 日本女子バレーボールの金メダル獲得を報じる64年10月24日付読売新聞朝刊社会面には、「ついにやった“東洋の魔女”」「鬼監督を涙で胴上げ」の見出しが躍っている。

 インパール作戦で大松が死線をさまよった事実を知った上でその記事を読むと、また新たな感慨が生まれてくる。

2016年08月04日 09時58分 Copyright © The Yomiuri Shimbun