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読売新聞で振り返る五輪名場面

織田と南部の友情、夭折した人見…陸上競技

メディア局編集部 二居隆司

織田の日本初の金メダルは1段見出し

  • 織田の「金」と人見の「銀」獲得を報じる1928年8月4日付読売新聞朝刊
    織田の「金」と人見の「銀」獲得を報じる1928年8月4日付読売新聞朝刊

 すでに取り上げたマラソンを除く陸上競技の記録を振り返ってみると、戦前のわが国のフィールド競技、とくに三段跳びの強さが際立っていることに気づかされる。

 織田幹雄が1928年のアムステルダム大会で日本に初の金メダルをもたらしたあと、三段跳びでは32年ロサンゼルスで南部忠平、36年ベルリンで田島直人が優勝し、日本勢が3連覇している。

 記録の伸びも著しい。織田の15.21メートルに対し、南部は15.72メートル、田島に至っては16.00メートルである。南部、田島はそれぞれ当時の世界新記録で、8年間で記録を0.79メートル伸ばしたことになる。

 記録の伸びに合わせて、紙面の扱い方も次第に大きくなっている。織田の金メダルを伝える1928年8月4日付読売新聞朝刊の記事の見出しは1段。「織田優勝」のわきに「初めて日章旗 檣頭(しょうとう)(ひるがえ)る」の見出しを掲げ、日本初の金メダル獲得を報じている。ただし、記事中にそれに関連した記述はなく、「快挙」に対しての高揚感は感じられない。

 これが次回の南部の金メダルとなると、だいぶ趣が違ってくる。32年8月6日付読売新聞夕刊1面は、「驚異的世界新記録!」「南部、三段跳に優勝」「見よ!大竿頭高く 待望の大日章旗」の見出しとともにトップ記事で南部の優勝を報じている。

「ヨミウリ」機が祝賀飛行

  • 南部の金メダル獲得を大々的に報じる1932年8月6日付読売新聞夕刊1面
    南部の金メダル獲得を大々的に報じる1932年8月6日付読売新聞夕刊1面

 前回覇者で、当時の世界記録(15メートル58)保持者の織田はこの日、足を痛め、2回のジャンプで競技から脱落している。同じ記事に、優勝した南部のコメントが載っている。それによると、南部は「織田君が私にきょうはとても駄目だから君がやってくれ、優勝せねば生きて日本には帰れないぞといって涙を流しているので、ますます発奮し夢中になって跳んだ」という。

 36年ベルリン大会の田島優勝となると、さらにトーンが高まる。同年8月7日には、田島の優勝を伝える号外が発行されている。「感激の極!君が代初めて轟(とどろ)く!」「燦たり!世界新記録」「田島快躍・堂々優勝す」「見事跳んだ十六米 人類最高の距離」と見出しも興奮の「極み」だ。

 同じ紙面の下の方に掲載された記事によると、優勝が決まったときに「西の空に一台の飛行機が現はれた」とある。「ヨミウリ」機の祝賀飛行だという。大会のたびに五輪への注目度が高まり、報道にも力が入るようになったことがよくわかる。

 前出の織田と南部は、同じ早稲田大学で、年齢は南部が一つ上だが、学年は織田が一つ上だった。南部が97年7月に亡くなった際、織田は読売新聞(97年7月24日付朝刊)に南部を悼む談話を寄せている。戦後、互いに近所に住んで南部とは「兄弟以上の付き合いだった」と記した上で、織田は先の記事にないエピソードを披露している。

 それによると南部は、ロサンゼルスのときは織田が足を悪くしたことから、ろくに練習もしていなかった三段跳びに出ることになったという。決勝前に「負けて帰ったら大変なことになるよ」と声をかけると、「心配するなよ。記録を抜いてやるよ」と自信たっぷりに答えたそうだ。

2016年08月11日 11時52分 Copyright © The Yomiuri Shimbun