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[東京オリンピック]第2部 戦後1号 レスリング

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1952年のヘルシンキ五輪。レスリング・フリーバンタム級で優勝し表彰台に立つ石井
1952年のヘルシンキ五輪。レスリング・フリーバンタム級で優勝し表彰台に立つ石井

戦後の光編

 第2次世界大戦をはさみ、日本が夏季五輪に16年ぶりに復帰したのは、敗戦国として参加が認められなかった1948年ロンドン大会の次に行われた52年ヘルシンキ大会だった。戦後復興のさなか、派遣費を集めるのにも苦労した。日本選手団は12競技に選手72人、役員31人の103人と、36年ベルリン大会の249人の半分にも満たない規模だった。そんな中でレスリングの石井庄八(当時25歳)がフリーバンタム級で優勝し、日本に戦後初の金メダルをもたらした。4年後の56年メルボルン大会では体操の種目別・鉄棒で小野喬(当時25歳)が金メダル。2人は、日本のレスリングと体操が世界の舞台へ飛躍していく先駆者となった。

 五輪で日本のお家芸となる二つの競技が花開いた時代。第2部「戦後の光」編では、52年ヘルシンキから60年ローマ大会までの9個の金メダルの足跡をたどる。(敬称略)

日本のお家芸 礎築く

 レスリングと体操。戦後、世界の舞台に躍進した2競技は、2016年リオデジャネイロ大会までにそれぞれ32個、31個の金メダルを獲得した(最多は柔道の39個)。合計で夏季全競技計の142個の4割を超える。

 その「日本のお家芸」の土台を築いたのが、1952年ヘルシンキから60年ローマまでの3大会の時代。石井庄八、小野喬らの先駆者が世界の技やスピードを学び、工夫と練習を重ねて競技のレベルを世界トップまで引き上げた。

小野に鉄棒新技9.85点

メルボルン五輪当時を振り返る小野喬さん=今井恵太撮影
メルボルン五輪当時を振り返る小野喬さん=今井恵太撮影

 56年メルボルン大会の種目別・鉄棒で日本に体操界初の金メダルをもたらした小野喬(現在87歳)は、秋田県能代市の出身。「小学生の時、能代中(現在の能代高)の先輩の模範演技を見て、体操競技にあこがれた」。東京教育大(現筑波大)に進み、1年生の終わりごろに父親が死去してからは、「屋根瓦を張るアルバイトをしながら競技を続けた」という。

 最初の五輪は大学3年生で迎えた52年ヘルシンキ大会。「餞別せんべつで8ミリカメラを購入して、世界の体操をとにかく勉強だ、と意気込んでいた」。しかし、初めての飛行機の旅、それも乗り継ぎの繰り返し、急性ちくのう症を患ってしまい、治療と休養をしながら本番を迎え、「鼻に綿をつめて」出場した。日本は団体で5位。小野は跳馬で3位に食い込んだ。

 ヘルシンキ大会前後を振り返り、小野は「外国の強豪を見て、技のスピードと正確さの必要性を痛感した」という。「自分は体の線がきれいなほうではないので、人の出来ない技を習得しよう」と新技の開発に明け暮れた。当時は社会人で体操競技を続けるのは困難な時代。大学卒業を控えた小野は、慶大への編入により競技に挑戦する道を選んだ。

 「外国選手の技や日本選手の動きを見ながら、ふとひらめいたのが、鉄棒の新技だった」。縦回転の車輪の動きの中にひねり技をいれて、「片大逆手の大車輪から手を離して1回転のひねりをいれながら鉄棒の下をくぐり、鉄棒を握り直して飛び越える」。身ぶり手ぶりで説明するその技を習得するのは並大抵のことではなかった。

 離した手がなかなか鉄棒に触れない。「柳の下のカエルみたいだった。初めて成功するまで4か月近くかかった」。小野はこの新技「ひねり飛び越し」をメルボルン五輪の鉄棒自由演技で披露した。得点は「9・85」。10点満点で減点法の当時の採点では、最高得点ともいえる評価だった。「審判も見たことのない技に驚いていた。緊張で眠れない夜を過ごしたあとだったが、いざ始まると無心だった」。後に「鬼に金棒、小野に鉄棒」と呼ばれた小野にとっても「会心の演技」でつかんだ金メダルだった。

石井 マットの先駆者

 戦後初の金メダリストになった石井庄八は千葉県の出身。旧制千葉中(現在の千葉高)時代は柔道をしていた。予科練入隊を経て戦後の1946年に中大に入学。柔道場をのぞいたときに畳の上にキャンバス一枚のマットの上で練習していたレスリング部の先輩たちを見たのがこの競技との運命の出会いだった。

 当時、日本のレスリング界は、日本協会の創設者でもある八田一朗が協会会長に就任し、その強力なリーダーシップで引っ張っていた。「井の中のかわずではだめだ」と、国際舞台への復帰を進め、レスリング先進国の米国などへの遠征を重ねた。石井はそんな中でめきめき頭角を現した。

 「シューズも満足にない時代。それでも好きで始めたレスリングだからつらいと思うことはなかった。道を歩いても頭の中はレスリングのことばかり。向こうから歩いてくる人が右足を出せば、タックルに入るのは今だと心の中で叫んだ」。64年東京五輪を前に読売新聞への寄稿の中で石井は当時を述懐している。

ヘルシンキ五輪のレスリング・フリーバンタム級で金メダルを獲得し、胴上げされる石井
ヘルシンキ五輪のレスリング・フリーバンタム級で金メダルを獲得し、胴上げされる石井

 ヘルシンキ大会前年の51年、石井ら候補選手たちは米国遠征で各地を回り、試合と練習を重ねた。石井はこの間、23戦21勝1敗1引き分けの成績。力に頼るレスリングからスピード重視に転換を図っていた。

 スピードとタックルなどの技の切れ味。そして集中力。石井のレスリングは磨きをかけられていた。

 オリンピック本番で石井は6戦全勝で迎えた7戦目、ソ連の強豪、ラシド・マメドベコフを判定で下して金メダルを手にした。中大の後輩で次のメルボルン大会で金メダルを獲得した笹原正三は「外食券やコッペパンの時代に石井さんの金メダルは我々に計り知れない勇気を与えてくれた」と当時を振り返っている。

 大会後は広告会社・電通の営業マンとして活躍した石井は、明治(当時明治乳業)と日本レスリング協会を結びつけた。乳製品の提供など明治の日本協会への支援は現在も続いており、八田の教えを受けた福田富昭・日本協会会長は「石井さんはスポーツにもビジネスにも妥協のない人だった。いまの日本協会にとっても大功労者です」と語った。

〈Topic〉人間機関車 長距離3冠

 ヘルシンキ大会のヒーローになったのが、チェコスロバキアの陸上男子、エミール・ザトペックだった。5000メートル、1万メートル、マラソンの3種目に優勝。「人間機関車」と呼ばれた。妻のダナも女子やり投げで優勝し、夫妻にとって最高の五輪となった。

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49933 0 東京オリンピック 2018/11/16 16:55:00 2020/01/23 14:24:08 2020/01/23 14:24:08 ヘルシンキ五輪。レスリング・バンタム級で優勝して表彰台の石井庄八選手 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20181112-OYT8I50084-T.jpg?type=thumbnail
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