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オリンピックが変えた東京の街・「青山表参道」~「レガシー」からたどる1964

  
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 1964(昭和39)年の東京オリンピックを目指して進められた首都の街づくり。今も残る「遺産」から、半世紀を超えた街の移り変わりをたどる。

削られた建物

山陽堂書店で残った3分の1のビル側面を飾る谷内六郎さんのモザイクタイル壁画。現在の「傘の穴は一番星」は1975年にお目見えした第2号作品だ(東京都港区北青山で)
山陽堂書店で残った3分の1のビル側面を飾る谷内六郎さんのモザイクタイル壁画。現在の「傘の穴は一番星」は1975年にお目見えした第2号作品だ(東京都港区北青山で)

 東京・青山にある表参道の交差点に立つと、赤坂方向への青山通り沿いに、奥行き5メートル足らずの細長い建物が続く一角がある。1964年の東京オリンピックで青山通りが広がったために建物の一部が削られたり、後退させられたりした場所だ。

 交差点の角に立つ老舗の「山陽堂書店」ビルも以前は3倍の大きさがあった。1891(明治24)年に青山で創業。1931(昭和6)年に建った今のビルは鉄筋コンクリート3階建てで地下室もあり、1945年5月の山の手空襲でも焼け残った。もともと豆腐屋があった場所で井戸があり、その水で空襲時に命をつないだ人も多いという。

 取締役の遠山秀子さんは「(移転話があった時は)まだ築30年余りで、戦後しばらく続いた危機を乗り越えて住み込みの勤労学生も大勢使い、店の経営も軌道に乗っていた。この建物と戦前、戦中、戦後を共にしてきた祖父は相当悩んだと思います」と話す。

 過労からか体調を崩した祖父を引き継いだ遠山さんの父親はある取材に「自分の都合だけで商売を替えることはできませんよ」と話している。結局、道路に土地を差し出すために建物の3分の2を削り、お得意客の励ましにも支えられてこの地で商売を続けることを選んだ。「コンクリートに川砂を使った頑丈な建物だったようで、壊す時は大変だったそうです」と遠山さん。現在は6.5坪(約21平方メートル)の敷地の1階が店舗、2階にギャラリー、3階に喫茶スペース。様々なイベントも積極的に行い、地域文化の発信役も担ってきた。

3倍に広がった? 東京の街路を大改造

1950年ごろ、山陽堂書店から南青山方面を望む。左下が当時の青山通り(山陽堂書店所蔵)
1950年ごろ、山陽堂書店から南青山方面を望む。左下が当時の青山通り(山陽堂書店所蔵)

 「青山」の地名の由来は諸説あるが、徳川家康から広大な土地を拝領した武将、青山忠成の名前に由来するとも言われる。昭和30年代までは静かな屋敷町だった。

 交差点近くで洋服店を営む2代目の鈴木克明さんは、終戦直後に3歳で家族とともに移り住んだ。「空襲で焼け野原となった後に平屋のバラックが並んで、今の交差点の交番の辺りから、子供の背丈でも富士山が見えました」

 街の様相が一変したのは、青山通りが拡幅されてからだ。1960年の東京都の道路率(地域の面積に占める道路面積の割合)は約10%で、欧米の主要都市と比べてかなり低かったが、都内の自動車登録台数はその前後の10年間で約5倍の増加となり、首都の道路交通は行き詰まっていた。東京都は一大イベント招致を追い風に「オリンピック道路(※)」と呼ばれた22路線の建設、拡幅を急いだ。代々木の選手村から競技会場に向かう選手たちの円滑な輸送を交通混雑が妨げてはならない、という至上命令もあった。

 その一つ、国道246号の一部で三宅坂から渋谷を経て世田谷に通じる現青山通りと玉川通りの約8キロの区間(放射4号線=都市計画道路としての名称)は、国立競技場と駒沢の競技会場を結ぶ主要連絡路と位置付けられた。その昔は相模の国・大山への参詣路で「大山道」と呼ばれた道は、都電の軌道のある片側2車線で車両がひしめいていたが、五輪を機に約2倍の40メートル幅に広がった。「とにかくびっくりした。私には3倍に広がったかと感じられたほどです」と鈴木さんは振り返る。

鈴木克明さん。「オリンピックまでは、この辺も静かでしたよ」
鈴木克明さん。「オリンピックまでは、この辺も静かでしたよ」

 ちなみに、「青山通り」「外堀通り」「明治通り」などの名称は、都民や観光客の利便をはかろうとオリンピックに向けて付けられた通称道路名だ。

 道が広がるとそれまでの住民の中には賑やかさを嫌って引っ越す人がいる一方で、集合住宅など大きなビルの開発も進められた。鈴木さんはこの地で70年以上暮らし、地元の商店会長なども務めた。「屋敷の跡にはマンションやビルができて、道路拡張後は服飾関係の方が入ってきましたね。いい商品を扱う店が多く、それを目当てにお客さんが集まった。街はそういう人たちに支えられて、オリンピックの前後でびっくりするくらい変わりました」

VANが牽引しファッションタウンへ

 最先端のファッションタウンへと変貌する嚆矢(こうし)は、オリンピック前年の1963年、日本橋から青山に本社を移転したメンズアパレルブランドの「VAN」だろう。ヴァンジャケット社の創業者で「アイビールック」の生みの親として知られる石津謙介さん(2005年没)は、青山の地を選んだ理由の一つを自らの著書でこう記している。

青山の街で、VAN創業者の石津謙介さん(1988年撮影)
青山の街で、VAN創業者の石津謙介さん(1988年撮影)

 「青山は東京のグリーン・エリアで、それはとりもなおさずスポーツ・エリアであり……東京オリンピックを契機に、青山は人が集まる街に生まれ変わるだろうと考えたからだ」(いつもゼロからの出発だった PHP研究所刊)

 謙介さんの長男でファッションディレクターの祥介さんは当時、入社4年目で移転先の場所探しをしていた。「日本橋には問屋が集中していて朝夕は道路が大混雑でした。商売に支障も出るし、どこがいいかと考えた時、商品の納入先のある場所を地図で見ると、その中間にある青山がアクセス面でぴったりだと思ったのです。そのひらめきの上にはオリンピックということもありました。道路が新しくなって流れが変わることはわかっていましたから」

 謙介さん、そして今年85歳になった祥介さんは終戦後に中国・天津から引き揚げてきた世代だ。「租界」と呼ばれた外国人居留地を見てきた目には、当時の表参道もまた、「なんとなく欧米風で日本人離れしている」雰囲気に映ったという。祥介さんの長男で「3代目」の石津塁さんも「ワシントンハイツに近く、高級スーパーマーケットがあったりボウリング場があったり、戦後にアメリカ文化の影響を受けてきて、まだ日本にファッションというものが根付いていない時代に、ファッション関係者を惹きつける魅力があった。たまたまVANがそのスタートだったにせよ、当時の人たちはにおいを感じ取っていたのでしょう」と話す。

 街には気鋭のデザイナーやクリエイターが集まった。「中学生の頃、1970年代ですね。店番をしていると、研ぎ澄まされた感覚を身にまとった方々がたくさんいらっしゃったんです。独特の雰囲気で緊張した。空気がピーンと張り詰める感じでね」(遠山秀子さん)

 青山に移転したVANはオリンピックと高度成長期で売り上げを伸ばした。最盛期には関連会社を含めて7、8か所のオフィスを持ち、界隈は「VANタウン」と呼ばれた。実はそのすべてが賃貸で、持ち物件は一つもなかった。「オヤジの信念です。ファッションの仕事は半分、水商売だから、絶対という計算はできない世界。人や場所に固定的な投資をすることはできないっていう考えだったですね」(祥介さん)

 「流行を作るのではない。風俗を作るのだ」――石津謙介さんの有名な言葉がある。昭和から平成、そして令和へと時代は流れたが、「ファッションとはその人の生き方であり、ライフスタイル全般である」と提言し、若者文化の創造に寄与してきたVANの精神は今も土地の気風に溶け込んでいる。

2度目のオリンピックを待つ

青山3丁目歩道橋から表参道交差点方向を見る。車がせわしなく行きかう現在の青山通り
青山3丁目歩道橋から表参道交差点方向を見る。車がせわしなく行きかう現在の青山通り

 56年前の1964年10月10日。店に近い原宿の自宅にいた当時4歳の遠山さんが、はっきり覚えている景色がある。「世界中の秋晴れを、全部東京に持ってきてしまったような素晴らしい秋日和でございます」――。北出清五郎アナウンサーの名実況で進んだ東京オリンピック開会式で、ブルーインパルスが真っ青な空に描いた五つの輪だ。「ピンク(赤)の輪がきれいで、消えなければいいなあと思って、なくなるまで見ていました……」。戦後日本の復興を世界にアピールするオリンピックを象徴する光景が、変わりゆく青山の空にも時代の変化を告げていたのだろうか。

 青山通りを挟んだ港区青山地区の昼夜間人口比率は2015年の国勢調査で400%を超える。かつての静かな屋敷町は半世紀以上の時を経て、人が集まる街へと変貌し、国立競技場の南側の玄関口として2度目のオリンピックを待つ。(メディア局専門委員・千葉直樹)

「建設進むオリンピック関連街路」(1963年東京都道路建設本部発行)より
「建設進むオリンピック関連街路」(1963年東京都道路建設本部発行)より

※オリンピック道路

 オリンピック関連の道路事業はもともと、選手村を埼玉・朝霞の米軍キャンプに造る前提で、羽田空港から選手村方面へのアクセスとなる環状7号線(大田区~板橋区、地図中の縦の赤ルート)、放射4号線(地図中の横の赤ルート)など22路線で進められてきた。だが1961年5月、米軍が朝霞の返還には応じないことが分かり、同年10月に選手村は代々木のワシントンハイツ地区に置かれることが決まった。代々木選手村案を受け入れた都は、22路線を既定方針通り整備する一方、代々木周辺の追加道路整備については国に財源措置を講ずることを約束させた。選手村の方針変更で環状7号線は「不急の道路」になったが、大田区~板橋区の15キロは開幕までに完成。それまで行き止まりや隘路(あいろ)迂回(うかい)を余儀なくされていた区間には約20か所の立体交差が作られ、幅員も最大33mに広がった。22路線の事業延長距離は54.6キロ。総事業費は用地買収から道路拡幅、立体交差の設置などで710億円。

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1533643 0 東京オリンピック 2020/10/10 07:00:00 2020/10/10 23:57:11 2020/10/10 23:57:11 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/09/20200929-OYT8I50055-T.jpg?type=thumbnail
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