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1964(昭和39)年の東京オリンピックを目指して進められた首都の町づくり。今も残る「遺産」から、半世紀を超えた街の移り変わりをたどる。(メディア局専門委員 千葉直樹)
日本人はきれい好きだ。繁華街にごみ箱やごみが目立たず、分別収集が徹底され、公衆トイレは清潔で、イベント会場や乗り物ではスタッフが座席までごみを回収に来てくれることさえある。世界最大級の旅行口コミサイトが発表する都市調査では、街の清潔度で東京がシンガポールを抑えて1位になったこともある。外国人の印象度も高い、きれいな街になった歴史をたどると、昭和30年代、オリンピックを迎える東京では住民を挙げた「大作戦」が進行していた。
壊れた自転車やリヤカーが……

東京都調布市。京王線飛田給駅から北に向かって通りを歩くと、2001年開業の味の素スタジアムが見えてくる。その手前をほぼ東西に走る甲州街道(国道20号)沿い、量販店や自動車販売店、飲食店が並ぶあたりの歩道脇に御影石の碑が立っている。1964年の東京オリンピック・男子マラソンコースで折り返し点となった場所だ。56年前の10月21日、オリンピック2連覇を飾ることになるアベベ・ビキラ(エチオピア)がトップで折り返す。先頭を追う円谷幸吉に、君原健二に、寺沢徹に……沿道の人は大きな声援を送った。

調布市の広報紙「市報ちょうふ」(2016年10月5日号)は、「私たちが見たオリンピック」と題した企画で、大会1か月前から市赤十字奉仕団のボランティア延べ1000人がマラソンと競歩のコースに決まった甲州街道沿いの清掃活動を行ったことを、当時の参加者の声で伝えている。
「『選手が走るのに、クギ1本でも落ちていたら大変』と、ほうきとちり取りを持参して、雑草が伸びていた沿道を清掃しましたが、壊れた自転車やリヤカー、冷蔵庫まで出てきました……」
マラソンコースが甲州街道に決まった理由は、大会組織委員会が1966年に発行した公式報告書に記されている。

「国立競技場が都心に近い市街地内にあるため、ここを起点、終点とするコースは、どの方向を選ぶにしても繁華街を通過せざるをえない。道路の一般交通がきわめて混乱している東京市街地をできるだけ避けて、すみやかに郊外に出られるコースを検討した結果、江戸時代からの街道である甲州街道が選ばれた」
道路幅が広くて歩道があり、舗装もされ、比較的
折り返しの三角コーンが置かれたのは、南側の旧街道に並行してオリンピック開幕の3年前にバイパスとして開通した新しい甲州街道の上だ。だが、道路が開通するまで、コースの周囲は粗大ごみの格好の投棄場所になっていたようだ。
折り返し点には1万5000人
五輪開幕2日前にマラソンコースの一部を調布市の聖火ランナーとして走った大塚一郎さんは、折り返し点から歩いて数分の場所で生まれ育った。「道路ができる前は幅5メートルくらいの水路が巡っていて、その脇の畑道が中学校への通学路でした。平屋のアパートと商店が一つあって。あとはほとんど畑とか倉庫。開通後も、沿道に住宅や倉庫があったけれど、畑が多かった。普段も車は少なかったですね」と振り返る。
今はスタジアムや武蔵野の森総合スポーツプラザ、調布飛行場がある約200ヘクタールの一帯は、かつて近隣の調布、府中、三鷹の3市にまたがる「関東村」と呼ばれた米軍施設があった場所だ。終戦後に米軍の飛行場と水耕農場になり、オリンピックで代々木の選手村建設のためにワシントンハイツの住宅が移転してきた。64年はまだ日本への返還前で、選手たちが走ったコースの北側には広々とした敷地が広がっていた。
警視庁の記録によると、折り返し点付近の人出は、スタート3時間半前の午前9時半時点で2000人、選手通過時には1万5000人に膨れ上がった。市は沿道に116個のごみ容器を設置したが、入りきらないごみがあふれ、選手が走り去った後に、かっぽう着姿の婦人たちがほうきを持って沿道の清掃を行う様子が、市製作の記録映画に残されている。
オリンピックの「1種目」として
現在では考えられないが、昭和20年代から30年代にかけての東京は、人口や産業の過度の集中によって街にあふれるごみが社会問題となっていた。雑誌「都政人」の1954(昭和29)年5月号には写真入りのルポ記事がある。
「東京は『日本の顔』であるといわれる。だが、この顔の何と汚いことであろう……道路のあちこちに散らばっている紙

このころ始まった「街をきれいにする運動」は、オリンピック招致を機に生活環境を改善しようという都民総ぐるみの「首都美化運動」へと発展。「首都美化はオリンピックの一種目」のスローガンのもと、様々な活動が展開された。目標の一つに「蚊とハエをなくす」とあり、時代を感じさせる。家庭や工場が垂れ流す排水で、「ボウフラさえわかない」と言われた隅田川でも浄化作戦が展開された。
五輪開幕が近づくと、毎月10日の首都美化デーには、都内のあちこちで都民がほうきを手に街頭を掃除する姿が紹介され、清掃事業の近代化にも取り組んだ街では急ピッチで世界の人々を迎えるための化粧直しが行われた。
文化人類学が専門の
国際オリンピック委員会(IOC)委員も務め、「オリンピック知事」の異名をとった東龍太郎都知事(当時)は大会を前に自著「オリンピック」で「人口ばかり多くて、
平和の祭典が帰ってくる

五輪開幕直前まで自転車や冷蔵庫などの粗大ごみが散乱していた調布市のマラソンコースは無事に選手たちを迎え、その後、半世紀を経て大きく姿を変えた。折り返し点の周りは近代的なスポーツ・コンプレックスとなり、2021年のオリンピック・パラリンピックではサッカーやバドミントンなど5競技の会場となる。
大塚一郎さんは56年前、20歳の大学生だった。10月8日の聖火リレーでは調布市の第1走者として夕闇迫る霧雨の道を「灯を消さないように次の人に渡そう」と脇目も振らずに必死に走った。
「小学生のころは雪の日に学校に行くのに畑の上を突っ切って通いました。それぐらい建物は少なかった。五輪を境に家がどんどん建って街は変わった。スタジアムができたのも何かの縁でしょうか。2度目の五輪では、子供たちに生の競技を見せてやりたい。刺激を受けた子たちが将来のオリンピック選手になるかもしれない。そういうことのためにも五輪はあると思うのです」
※清掃事業の近代化

オリンピック招致を契機に東京都は首都美化運動と連動して清掃事業の近代化にも取り組んだ。それまで、各家庭はゴミを路上に置かれたコンクリート製や木製のゴミ箱に捨てていたが、作業員が不衛生な環境を強いられるうえに、ゴミ箱は町の景観を損ねるなどと指摘された。そのため各家庭に蓋つきのプラスチック製バケツを購入してもらって収集日にゴミを出すやり方に変更。東京23区では1963年度末までに新方式が実施された。この時採用された積水化学のゴミ容器は全国に普及して大ヒット商品となり、「清掃革命」と言われた。