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1964年(昭和39年)の東京オリンピックを目指して進められた首都の町づくり。今も残る「遺産」から、半世紀を超えた街の移り変わりをたどる。(メディア局専門委員・千葉直樹)
羽田から都心まで2時間も

JR品川駅港南口から海に向かって20分ほど歩くと、高浜運河にかかる都道の橋の上を首都高速道路1号線が走り、その上を東京モノレールが立体交差で横切る場所がある。運河を渡る長さ93メートルの橋の名前を「

東京モノレールは東京オリンピック開幕23日前の64年9月17日に開業した。羽田空港-浜松町を15分(当時)で結んだ国内初の旅客用都市型モノレールだ。昭和30年代後半、空の玄関口である羽田空港は高度経済成長へと向かう航空需要の増加で拡張が急がれていた。だが都心と空港を結ぶ幹線道路である第一京浜国道は交通渋滞が慢性化して、15キロの移動に2時間近くもかかることがあり、オリンピック開催に向けて、抜本的な対策として空港アクセスの大量高速輸送機関の整備が急務とされた。そこで、建設費が安く、工期が短い「第3の鉄道」として急浮上したのがモノレールだった。
導入された方式は、コンクリートの軌道
開業前夜

横浜市磯子区杉田。丘陵地に住宅が立ち並ぶこの地区は、江戸時代に「杉田梅」の梅林で有名だった場所だ。坂の途中に、コンクリートの枕木を縦に並べた塀があり、その中にログハウス風の建物がある。昭和30年代、東京から30キロ離れたこの場所で、一人の技術者がモノレールの研究を続けていた。国鉄(当時)を退職して国の研究機関の要職も歴任した軌道(レール)の専門家で、東京モノレール工事の設計・監督にも関わっていた。親族によると、自らが所有していた横浜のこの土地に自費で実験施設を造り、1960年から64年ごろまでタイヤの摩擦軽減や騒音解消などの研究を行っていたという。
細長い敷地を歩くと、屋外の梅の木の根元に細長いコンクリートの帯が続いている。かつて実験に使われた軌道
かつての実験棟は、コンクリートの骨格をそのままに間伐材を使ってリニューアルされ、「梅の木坂ハウス」と名前を変えて、「杉田・梅塾」代表で料理研究家の市原由貴子さんが杉田梅を守り、普及する活動の拠点となっている。研究者が亡くなり、20年ほど前に親族から市原さんに土地と建物の管理が委託された。「初めてこの土地にきたときには、建物の下までずっとレールが続いていました。建物のコンクリートを残したのも、お父様が残した施設へのご家族の強い愛着があったからです」と市原さんは話してくれた。
ウォーターフロントの変容
東京モノレールのルート(※)決定までには
1964年は「1兆円のオリンピック」と呼ばれた大会だ。同年度の国の一般会計予算3兆3405億円の3割にあたる額だ。大会準備のための関連経費(間接的経費)は9608億円。これには、東海道新幹線(3800億円)や道路(約1753億円)の各整備予算が含まれている。
オリンピック開催中はもの珍しさもあってにぎわったモノレールだが、途中駅がなく、開業時で片道250円という高い運賃のために、閉幕後の利用者数は低迷し、経営危機に直面した。運賃値下げ、沿線の開発による途中駅の開業、会社合併による再建策、そこに航空需要の伸びが後押しをして、1970年代には経営は軌道に乗った。現在はJR東日本グループとなり、京浜急行電鉄やバスとの空港アクセス競争にしのぎを削っている。
〈主な途中駅〉
大井競馬場前駅開業 :1965年(67年までは臨時駅)
羽田整備場駅(現整備場駅)開業 :1967年
新平和島駅(現流通センター駅)開業 :1969年
天王洲アイル駅開業 :1992年

昭和39年6月版の品川区の地図(品川歴史館所蔵)を、同館学芸員の永山由里絵さんが解説する。「天王洲は倉庫街でした。高速道路(緑色のライン)は載っていますが、9月に開業するモノレールは地図に入っていません。平和島(地図の右下=当時は京浜第2区埋立地、現在は大田区)もまだ小さかった時代です」。当時の海岸線の東側、地図では海になっている場所で1950年代後半から行われたのが大井ふ頭の埋め立て事業だ。平成の時代まで約40年続き、約664ヘクタールの広大な埋め立て地に、コンテナターミナル、清掃工場、JR車両基地、火力発電所、鉄道貨物駅など、生活を支える施設ができた。西側には69の住居棟に現在は約1万2000人が暮らす団地「品川八潮パークタウン」がある。
1983年の団地開き当時から暮らす渡辺瑞枝さんは、緑が多く、運河にボートが走る、ゆったりとした景観が気に入って入居を決めたという。当初はバス便数が少なく、団地から徒歩で行ける大井競馬場前駅からのモノレールが生活の足だったという。通勤者はもちろん、銀座など都心に行くにもモノレールが便利だった。
開業から56年、モノレールの車窓から見るウォーターフロントの風景は変わった。平和島の埋め立て地が広がり、大井ふ頭、そして倉庫街だった天王洲地区で大規模な民間プロジェクトによる再開発がスタートしたのは1980年代後半だ。オフィスビルや高層マンション、アート複合施設などができ、
天王洲アイル駅から大井競馬場前駅へと向かう途中、モノレールから京浜運河越しに八潮パークタウンを見ると、運河寄りに立つ低層階の住宅棟を手前の樹木がすっぽりと隠している。「入居当時には、まだ背の小さかった木が、今ではこんなに成長したんですね」と渡辺さんは感慨深げだ。
「象徴」としてのモノレール

東京モノレール社史によると、免許申請が下りた当初、東京都当局内では、やはりオリンピックまでの開通を目指して都心と空港間で建設が進んでいた首都高速道路ができれば空港までの旅客輸送に不安はなく、モノレールの必要性は低いのではという意見があったという。海外旅行もまだ一般的ではない時代に、それでもモノレールの建設が急がれた背景はなんだったのか。
予測を超えるであろう交通量増大への対応、そして鉄道アナリストの川島令三さんは「海外から来る人に対して、何か象徴的なものが欲しかったのではないでしょうか」と考察する。「それまでの遊園地などのモノレールがせいぜい30キロという時代に最高速度は80キロだった。それに、あれだけ長い距離のモノレールは当時、世界的にみてもほとんどなかったでしょう」
東京都港区。五色橋のたもとに立って見上げると、海面から24メートルの高さをモノレールがひっきりなしに通過していく。朝の通勤時間帯は3分20秒、日中でも4分間隔で、平日で1日535本が行き交う。
56年前の開業翌日、9月18日の羽田空港には、オリンピック選手団を運ぶ各国のチャーター便第1便として、韓国からの44人を乗せた大韓航空機が到着し、2週間後の10月1日には東海道新幹線が開業している。海外から訪れた人々を乗せて、高架をまるで宙を飛ぶように走るモノレールの車窓に「夢の超特急」が並走する絵柄は、敗戦からの日本の復興を世界に印象付けるシーンとなりえたのだろうか。
※東京モノレールのルート
昭和30年代は欧州から各社のモノレール技術が導入され、国内ではモノレール路線の免許申請が相次いだ時期でもあった。「東京モノレール20年史」や「同50年史」によると、1961年12月に羽田空港-新橋間での免許申請が認可された。だが、沿線住民の反対などもあり、最終的に羽田空港-浜松町間13・1キロに決まったのが62年5月。建設工事が始まったのは翌63年5月だった。オリンピックまでの短期間で完成させるため、工事は東京モノレール株式会社の前身である日本高架電鉄から日立製作所が一括して請け負った。海上部分では、軟弱な地盤のため、海面から30メートルも下にある堅固な地盤まで掘って基礎を作り、軌道の支柱を建てて