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プレイバック五輪野球…初舞台で米撃破、大砲・広沢が金メダルへの4打点

   
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1984年 ロサンゼルス大会の野球日本代表

 アジア予選の敗退で一度は消えたロサンゼルスの舞台。だがキューバの不参加と参加枠増により、急きょ日本にも出場権が巡ってきた。

 公開競技の野球で初めて五輪の舞台を踏んだ日本代表は全員がアマチュアの大学生と社会人の編成。だが、のちにプロ野球でスター選手として活躍する選手がそろい、今にして思えば「ドリームチーム」の陣容だ。指揮を執ったのは松永怜一。東京六大学・法政大の監督として田淵幸一、山本浩二、富田勝の「法政三羽ガラス」やリーグ戦通算48勝の山中正竹を育てた指導者だ。

 主な選手(カッコ内所属は当時)

<投手>

伊東昭光(本田技研)→ヤクルト

伊藤敦規(福井工業大)→熊谷組→阪急・オリックスなど

宮本和知(川崎製鉄水島)→巨人

西川佳明(法政大)→南海・ダイエーなど

<捕手>

嶋田宗彦(住友金属)→阪神

秦 真司(法政大)→ヤクルトなど

<内野手>

正田耕三(新日本製鉄広畑)→広島

上田和明(慶応大)→巨人

和田 豊(日本大)→阪神

広沢克己(明治大)→ヤクルト・巨人など

<外野手>

荒井幸雄(日本石油)→ヤクルトなど

古川慎一(亜細亜大)→ロッテ

熊野輝光(日本楽器)→阪急・オリックスなど

「4三振でも構わない。直球は捨てろ」

ロサンゼルス五輪が終わった1984年秋のプロ野球ドラフト会議でヤクルトに1位指名された広沢(右)
ロサンゼルス五輪が終わった1984年秋のプロ野球ドラフト会議でヤクルトに1位指名された広沢(右)

 大会には8の国と地域が参加。日本は予選を1位通過すると、準決勝で台湾を延長戦で破り、米国との決勝戦となった。

 打線のキーマンと期待されたのは大学生にしてクリーンアップの一角を任された右の大砲・広沢克己(現在は克実)だ。大会直前に不振に陥ったが、投手寄りの左膝が開かないようにする打撃フォームの修正に取り組んだ。

 「4三振でも構わない。直球は捨てろ、変化球を狙え」と送り出された広沢は、八回に相手を突き放す3ランなど4打点の大活躍。日本は投打にアメリカを圧倒して6-3で勝利し、選手団全体にも勇気を与える金メダルとなった。

 それ以降の日本は、1988年ソウル(銀)、92年バルセロナ(銅)、96年アトランタ(銀)、2000年シドニー(4位)、04年アテネ(銅)と続き、稲葉篤紀・現日本代表監督が選手として出場した08年北京(4位)まで、6大会連続で金メダルから遠ざかった。(敬称略)

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2233166 0 東京オリンピック2020速報 2021/07/28 09:00:00 2021/07/25 16:26:22 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210707-OYT1I50096-T.jpg?type=thumbnail
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