(1)第1号は織田幹雄 独学の三段跳び

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アムステルダム五輪で優勝した織田幹雄の三段跳び
アムステルダム五輪で優勝した織田幹雄の三段跳び

 今からちょうど90年前の1928年(昭和3年)8月2日、日本のオリンピック史上初の金メダリストが誕生した。織田幹雄(当時23歳)がアムステルダム大会の陸上競技三段跳びで15メートル21を跳び優勝した。織田の快挙から2016年のリオデジャネイロ大会まで、夏季五輪で日本は142個の金メダルを獲得している。

 日本の五輪挑戦史の扉を開いた織田の名は、現在、「織田幹雄記念」として開かれる国内トップレベルの大会や、「織田フィールド」の名で知られる東京都渋谷区の陸上競技場として残る。そして織田の故郷、広島県海田町の小学校では、織田の金メダル記録と同じ高さの国旗掲揚ポール、「織田ポール」が、校庭を駆け回る子供たちを見守っている。

 2020年、東京で2度目の夏季五輪を開催する日本。栄光の歴史を刻んだ金メダリストの足跡をたどり、現在の社会やスポーツ界にも受け継がれているレガシー(遺産)を、時代を追って紹介する。(敬称略)

織田「日本人向き」見抜く

 日本が初めてオリンピックに選手団を送った1912年のストックホルム大会から16年後。アムステルダム大会前半の8月2日、織田が2回目に跳んだ15メートル21が優勝記録となった。同じ日に人見絹枝(当時21歳)が、女子800メートルで2位に入り、日本女性として初の五輪メダリストとなっている。

 日本の五輪史上に輝くこの日、織田の表彰式ではメインポールに通常の何倍もある特大の日の丸が掲揚された。優勝した織田の体を包むために選手団が用意していたものだった。自著には、大きな日章旗が揚がっていくのを見て「これでよかったと思ったとたん涙が出てきた」と記されている。

 広島県海田市町(現海田町)で6人きょうだいの三男として生まれた織田は、山や川のある自然の中で過ごすことで足腰が鍛えられ、広島一中(現国泰寺高校)のころから、陸上競技で注目された。19歳で24年パリ大会に出場し、走り高跳び、走り幅跳びは予選落ちしたが、三段跳びで6位入賞。その経験から「4年後の大会では三段跳びで3位以内」を目標に陸上競技に邁進していく。当時は本格的なコーチがいるわけでもなく、指導書もなかった。織田は、外国選手のフォームなどが掲載された雑誌や洋書を探して研究し、自らの跳躍を磨いた。

 なぜ、日本のスポーツ界がまだ世界に進出しはじめたばかりの時代に織田が世界の頂点に立ったのか。早大時代に直接指導を受けて、56年メルボルン大会から64年東京まで3大会連続で三段跳びの日本代表だった桜井孝次(82)(日本陸連顧問)は「織田さんは、ホップでかかとを故障することが多い三段跳びが、パワーやスピードだけでなく技術やバランスという要素があることで日本人に向いていると判断した。体の動きに対する鋭い洞察力を基本に創意と工夫で三段跳びを磨いたと思う」と分析する。

研究熱心 多くの金言

晩年も陸上競技、スポーツ界を見つめていた織田(1996年、神奈川県鵠沼海岸の自宅で)
晩年も陸上競技、スポーツ界を見つめていた織田(1996年、神奈川県鵠沼海岸の自宅で)

 1932年のロサンゼルス大会後に競技を退いた織田は、朝日新聞記者、日本陸連や国際陸連の役員、早大教授と歴任しながら、著書も執筆、スポーツ界に多くの「金言」を残してきた。

 著作などで繰り返し言っているのが「私は、喜びのないスポーツ、楽しみのないスポーツは、本当の意味でのスポーツではないと思う」、「最初から一つの競技や種目にこだわるのではなく、いろんな種目をやってみることだ」などの言葉だ。86年にはわかりやすい言葉で「陸上競技訓」を記している。

 織田が亡くなる98年12月まで親交があった佐々木秀幸(85)(日本陸連顧問)は「織田さんは世界を見つめて、研究を重ねた人。自宅にある洋書の多さには驚かされた」と話す。

次世代見守る「織田ポール」

海田小のグラウンドでは「織田ポール」が子供たちを見守っている
海田小のグラウンドでは「織田ポール」が子供たちを見守っている

 織田が残した多くのレガシーの中で、目に見える象徴的なものが「織田ポール」だ。

 アムステルダム大会の優勝記録と同じ15メートル21の長さで、国立競技場に立てられた。新国立競技場建設にともない、現在はナショナルトレーニングセンターのグラウンドに引っ越しているが、生誕地の広島県海田町の海田小学校のグラウンドには、1964年9月から「織田ポール」が立っている。

 今年は西日本豪雨の影響で中止となったが、8月2日の直近の日曜日には、織田が残した寄付金を原資に「ジャンプ&ラン」の大会も開かれている。同町は、2020年のオープンを目指し、名誉町民の織田を顕彰する「織田幹雄記念館」(仮称)を海田公民館(同)に併設する形で建設する。

南部と田島 続いてV3

 織田が高めた日本の三段跳びの技術は世界のトップレベルとなり、五輪3連覇を達成して、「日本のお家芸」とまで言われた。

 ロサンゼルス大会金メダルの南部忠平は、札幌の北海中学(現北海高校)時代に競技会を通じて織田と出会い、早大時代から長いつきあいがあった。1931年の競技会では南部が走り幅跳びで7メートル98、織田が三段跳びで15メートル58をマーク。同じ日に同じ競技場で世界新記録(ともに当時)を樹立している。迎えたロサンゼルス大会で、南部は三段跳びで15メートル72を跳んで見事に優勝した。後年に織田は「南部と出会ったのが幸運だった。兄弟以上のつきあい、生涯の相棒ですよ」と述懐している。

 36年ベルリン大会では、23歳の田島直人が16メートル00の世界新記録(当時)で優勝した。直人の兄と競技会で知り合った織田が山口県岩国市の田島家を訪ね、2人で一緒に練習したときに小学校5年生だった直人が熱心にそれを見ていた。「私が跳躍種目に入ったのは、織田さんとの出会いが大きかった」という直人の言葉が残されている。

迫る戦争 東京大会は中止

 1928年アムステルダム大会から36年ベルリン大会まで戦前の夏季五輪3大会は、日本が国威発揚を前面に打ち出し、戦争へと向かう流れの中で開催された。

 スポーツ界では、24年に大日本水上競技連盟(現在の日本水連)、25年に全日本陸上競技連盟(現日本陸連)が設立され、いよいよ「世界」を目標にする時代となっていた。

 28年大会に選手、役員合わせて56人の選手団を送った日本は、4年後の32年大会には192人、ヒトラーの五輪と言われた36年ベルリン大会には249人の大選手団を派遣した。

 3大会で獲得した金メダルの競技別数は、水泳10、陸上4、馬術1だった。

〈Topic〉

ターザンになった金メダリスト

 1928年アムステルダム大会の競泳100メートル自由形に優勝したのは米国のジョニー・ワイズミュラー(当時24歳)。翌年から肉体美を生かして、モデルとして活動し水泳ショーにも出演。32年から映画で「ターザン」役を演じて俳優としても活躍した。

37052 0 企画・特集 2018/08/16 10:00:00 2018/08/16 10:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180815-OYT8I50036-T.jpg?type=thumbnail

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