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亡きライバルに「勝てないと言わせたかった」…パラアーチェリー代表・大山晃司は頂を目指す

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練習に励む大山晃司。「口引き」と呼ばれる手法で矢を射る
練習に励む大山晃司。「口引き」と呼ばれる手法で矢を射る

 8月24日に開幕する東京パラリンピック。その大舞台で、競技を始めてわずか5年で日の丸を背負う選手がいる。アーチェリー代表・大山晃司(29、警視庁)だ。頸椎(けいつい)損傷の大けがや代表選考落ち、ライバルの急逝――。幾多の困難と闘いながら、世界を見据えるアーチャーはその時を待っている。(読売新聞オンライン・古和康行、敬称略)

地味な生活に隠された「壮絶」

 「狙いすぎないことですかね」

 6月下旬、東京都葛飾区の練習場に現れた大山は、アーチェリーの“コツ”をそんなふうに表現した。降りしきる雨の中、屋外の練習場で位置につくと、弓を持ち、歯で矢を引き、淡々と打ち込んだ。矢は低いアーチを描きながら、ほとんどすべてが的の中心に吸い込まれていく。

 「パラリンピックは特別な大会。勝つイメージでやっている。負ける気はさらさらないっすね」。若者らしく力強い言葉は、自信に裏打ちされたものだ。

 一方、大山の生活は地味だ。

 毎朝地下鉄に乗り、勤務先の警視庁月島署の会計課に出勤し、落とし物の処理や経費の精算の仕事をこなす。パラリンピックが目前に迫った6月だというのに仕事は休めない。午後には半休を取得して、練習場に向かう。取得できる半休は6月末に「あと10日くらい」になった。

 「パラリンピックの本番でも、給料が出て休めるのは自分が試合に出場する3日間だけなんですよ」。日本代表という重責を感じさせない、いたずらっぽい笑顔で語る。その笑顔のウラには、壮絶な人生が隠されていた。

「生きた屍」に

 大学3年生の9月、体操部で練習中に首から床に落ちた。天井を見上げながら、いつもの「失敗」と違うことにすぐに気付いた。鮮明な意識の中、首に激痛が走り、そして体が全く動かなかった。「テレビで見たことがあるアレだ――」

 すぐに病院に運ばれ、緊急手術を受けた。練習場から送り出す仲間たちに「大丈夫だ!」と声をかけられても、大山は確信していた。「大丈夫なワケねーだろ」と。手術後に真っ暗な病床で目覚め、「やっぱりな」と心のなかでつぶやいた。ベッドで首が固定され、口には管が通されていた。全身はピクリとも動かない。まばたきしかできないことをすぐに察し、首だけがベッドに横たわる感覚のなか、ぼんやりとこんなことを考えた。「生きた屍(しかばね)ってこんな感じかな」

選手の目から的を正確に捉えることは難しい。車いすに取り付けられた「スコープ」で矢がどこに刺さったかを確認する
選手の目から的を正確に捉えることは難しい。車いすに取り付けられた「スコープ」で矢がどこに刺さったかを確認する

 口の管が外され、リハビリができるようになってきたときに、機能回復の専門医の元を訪れた。この専門医は当時、話題になっていたIPS細胞を研究しており、それを活用すれば、自分の失われた四肢(手足)の機能が回復するかもしれないと思ったからだ。

 だが、帰ってきた言葉は予想外のものだった。

 「IPS細胞の前に、ここから1年間リハビリするかしないかで君の人生は大きく変わるよ」

 通学も就活もとてもできるとは思えない体の状態。それでも、「この1年で人生が変わる」という言葉に大山の心は震えた。「やるだけやってダメならあきらめよう」。大山はリハビリと一層真剣に向き合うようになり、車いすにも乗れるようになった。

挫折を味わったからこそ

 けがをしてから3年半がたったころ、大山はアーチェリーに出会う。中高とサッカー部、大学で体操に親しんだスポーツマンとして、「体を動かしたい」と思った。だが車いすラグビーは車いすをこぐことができず、水泳は一人で浮くことができなかった。そんな中、東京都障害者総合スポーツセンター(東京都北区)で、アーチェリーを楽しむ人を見た。

 声をかけて、自身の思いを訴えると「世界には口で射る人もいる。君でもできると思うけどね」。帰宅して、YоuTubeで見つけたある一人のアーチャーの姿に心を動かされた。2012年ロンドンパラリンピックで金メダルを獲得したジェフ・ファブリー(アメリカ)だ。口で弓を引き、矢を射ると反動で顔が揺れる。その精強な横顔が琴線に触れた。「かっこいい。これだ」。すぐに初心者教室に通うようになった。

 頭角を現したのは競技を始めて1年後。17年から公認の記録会に出場するようになり、この年の全国大会で優勝した。パラリンピック経験者や日本代表選手ら強豪を退けての優勝に自信を深めた。そこから「パラリンピックを明確に目指し始めた」。

 18年には日本代表として、世界大会にも出場した。破竹の勢いで国内トップ選手に駆け上がったが、落とし穴は東京パラリンピックの代表を決める19年にあった。「調子自体は悪くなかった」シーズンだったが結果を残せず、代表選考レースから敗退した。

 20年に入って新型コロナウイルスが猛威を振るうなか、大山もまた失意のなかにあった。そんな時、競技を始めてから貫いたフォームの変更に踏み切った。「ジェフと同じ打ち方」だったが、体に無理を強いていたのも分かっていた。右腕・右脚を欠損するファブリーは、体の稼働する部分も多い。そのため、筋力や体力に劣る大山が同じフォームで戦うにはハードルが高すぎたのだ。ファブリーと同じように的にまっすぐ肩を向けるフォームを見直し、肩を開いて、ゆったり構えるフォームに変更した。すると、首を向ける方向に無理がなくなりプレーに安定感が出てきた。得点を20~30点近く上げることに成功した。

 「挫折を味わったからこそ、たどり着けた自分のフォームだ」。大山は手応えを感じている。

ライバル急逝とパラへの決意

 パラリンピックへの出場は思わぬ形で実現した。今年2月、ライバルでパラリンピック出場が内定していた仲喜嗣さんが60歳で急逝したからだ。3月に行われた代表選手選考会で、大山は見事その座を射止める。そして、仲さんの妻にこう誓った。「仲さんがいたからパラに出られる。思いを背負って戦う」

練習中、放った矢のほとんどが的の中央付近に命中していた
練習中、放った矢のほとんどが的の中央付近に命中していた

 滑り込んだ代表の座について、大山は「複雑な気持ち」だという。もし、新型コロナがなく予定通り20年に大会が開かれていれば、仲さんが出場していたはずだからだ。「こんなふうに自分が出場するとは思っていなかった」「仲さんが初出場になるはずだったのに」。でも、今はもう吹っ切れた。「やるしかない」と。

 仲さんは今でもライバルだ。本当はもっと戦いたかった。天国へ旅立ったライバルに対して「本当は、『あいつにはもう勝てない』と言われるくらい勝ちたかった。まだ決着はついていない」と歯がゆい思いもある。だからこそ、パラリンピックで「自分の強くなった姿を見せたい」と強く思う。

 練習を終えると、大山は急いで帰り支度を始めた。周りの介助を受けながら弓や矢を車いすへ積み込み、自身の職場へ戻った。大会はもう目前に迫り、「今はパラリンピックのことしか考えていない」と語りつつも、目の前にある日々の暮らしをないがしろにはできない。

 大山の生活はやっぱり地味だ。でも、幾多の困難や挫折を乗り越えてきてなお、それらを感じさせず、地味な暮らしを送る。そんなパラリンピアンのすごみを感じさせる。亡きライバルも目指した舞台で、世界一を狙う。

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2209742 0 東京パラリンピック2020速報 2021/07/16 11:00:00 2021/07/16 11:13:25 練習に励む大山。「口引き」と呼ばれる手法で矢を射る(東京都葛飾区で) https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210715-OYT1I50115-T.jpg?type=thumbnail
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