[桜の記憶]<1>商社マン 世界に突進

9月に開幕するラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会は、第9回の大会となる。過去8度、全ての大会に出場した日本は苦戦が続いたが、前回の2015年大会では歴史的3勝を挙げて脚光を浴びた。「桜の戦士」が立ち向かったW杯の歴史をひもとく。

代表の誇り 敗れて芽生え

W杯初戦の米国戦でトライする日本代表WTBノホムリ(手前)=ロイター・サン

第1回W杯

第1回W杯に出場した生田久貴

1871年に世界初の国際試合としてイングランドとスコットランドが対戦してから、110年余りがたち、1987年にW杯が産声を上げた。

当時はアマチュアスポーツの象徴だった。認め合う国・地域同士が戦う対抗戦形式が重視され、世界王者を決めるW杯は勝利至上主義から商業化へつながるなどとして、欧州伝統国からの反対もあった。そうした中、豪州とニュージーランド(NZ)が共催した第1回大会は予選がなく、出場16チームが招待された。

宮地克実監督率いる日本代表には、社会人リーグのチームに所属しない選手もいた。86年1月の日本選手権で、慶大を日本一へ導いた生田久貴(56)。第一線から退くつもりで三菱商事に就職を決めた後、代表候補に選ばれた。会社は「いい経験だ」と、遠征や合宿の度に特別休暇をくれた。代表活動がない時は坂道を走り込んだ。

W杯初戦で日本は世界の厳しさを味わった。前年にアウェーで引き分けた米国と力の差はなかったが、簡単なPGを次々と外すなどして、勝てる試合を落とした。「米国は試合前、大統領から激励の電話があった」と聞いた生田は「大会が近づいてもいよいよという感じはなく、米国には勝ちたいね、ぐらいの気持ちだった。今思うと、いつもの遠征の延長線上にいるような感じだった」と振り返る。

主将を務めた林敏之

当時の日本は遠征などで初戦からテストマッチ(国・地域代表同士の国際試合)を戦うことは珍しかった。地区選抜などとの戦いを繰り返してチームを作り、最後に真剣勝負のテストマッチに臨むのが一般的。主将を務めた林敏之(59)は「ピークを初戦に持って行く方法がなかった」と、慣れない短期決戦の難しさを語った。

イングランド戦で大敗し、残すは優勝候補の地元・豪州戦だけ。林は毎日ミーティングで涙を流して訴えた。「下手な試合をしたら帰れないぞ」。国を代表するプライドがチーム内に生まれ、朽木の2トライなどで善戦した。初戦に続いて先発した生田は「いい試合はできた。観客席から日本を応援する声が聞こえてきた」と懐かしむ。

第1回W杯は次第に盛り上がり、NZが優勝して成功裏に終えた。生田は「当時はアマチュアリズムということで美化されていた部分はあるが、突き詰めてやる重要性もある」とプロ選手が大半の現代表に期待を寄せる。林も「今は環境が違う。とことんやってほしい」とエールを送った。(敬称略)(中安真人)

ジョセフHC「短くハードに」…代表候補合宿 本格指導

タックルの練習をする日本代表候補の選手たち

ラグビー日本代表候補合宿は18日、東京都町田市で第3クールが始まり、欧州6か国対抗視察などを終えて15日にチームへ合流した日本代表のジョセフ・ヘッドコーチ(HC)が本格的に指導を始めた。

第2クールまでと同様、基本のパス練習や体力強化が中心だったが、指揮官は接点での動き方やタックルの入り方なども指導した。フランカーのリーチ主将(東芝)は「ジョセフHCは、『(練習は)ショート(短く)、ハードにやりたい』と話していた。自分の体の状態はかなり上がっているので継続したい」と語った。

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