[桜の記憶]<4>高かった「プロ」の壁…アマ主義 転換の契機

ウェールズ戦で突破を図るマコーミック(中央)=小西太郎撮影

1999年、英ウェールズを主会場とした第4回ワールドカップ(W杯)は、95年に国際ラグビーボード(現ワールドラグビー)がプロを容認してから初めて迎えた世界王者決定戦だ。

日本は「切り札」の平尾誠二が監督を務め、元ニュージーランド(NZ)代表のジョセフ(現日本代表ヘッドコーチ)、バショップが日本代表入り。99年5~7月、環太平洋6か国によるパシフィックリム選手権で優勝し、「史上最強ジャパン」の呼び声もあった。

1999年W杯について語るマコーミック

だが、外国出身者初の日本代表主将に指名されたアンドリュー・マコーミック(52)の感覚は違った。同選手権が終わってからW杯まで、本格的な代表の活動期間は短かった。「パシフィックリムがピークだった。その後は一緒に過ごす時間が少なかったから、伸びなかったのだと思う。『時間がない、どうしよう』と焦っていた」と振り返る。

W杯初戦。5月に同選手権で下したサモアに完敗した。「その時から、(サモアの力が)50%は伸びていた」。地元ウェールズとの試合では、7万人超の大観衆が相手を後押しするという経験したことのない雰囲気にのまれた。近くにいる仲間の声も聞こえず、「相手の防御を突破しても、味方がどこにいるかも分からなかった」という。

98年に秩父宮で勝利したアルゼンチンにも敗れた。3試合でわずか2トライ。外国人の自分を主将に選んだ指揮官の勇気に応えられず、「結果で返さないと意味がない。でも、それができなかった」と悔やむ。

大畑大介

W杯初出場の大畑大介(43)は、世界との距離を肌で感じた。サモア戦では相手の気迫に押され、「全くだめだった」。ウェールズ戦では1トライを奪ったものの、「自分はまだ伸びていく段階だと思っていたし、全然通用しなかった。W杯を経験したことで、大きく変わった」と、自らの成長につなげたという。

日本ラグビー界としては、95年の前回大会でNZに17―145という歴史的大敗を喫し、地に落ちた誇りを取り戻すことが至上命令だった。戦術、戦略を練り込み、対戦相手の分析に力を注ぐなど、過去に例を見ないほどの強化に取り組んだ。

だが、プロ化が進んだ「世界」は、日本のはるか先を行っていた。「最大限の努力はしたけど、今、思えばチームとして経験が足りなかった」と大畑は言う。この大会をきっかけに、アマチュア主義を貫いてきた日本もプロ容認を検討し、翌年にオープン化を決めた。(敬称略)

(南恭士)

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