[ジョセフ流]<中>日本愛「サインはブリカマ」

サニックス時代のジョセフHC(中央)=サニックス提供

ラグビー日本代表を率いるジョセフ・ヘッドコーチ(HC)は1995年ワールドカップ(W杯)に出場した後、海を渡った。当時25歳。「指導者になる」という将来のプランを胸に、福岡県宗像市を拠点とする創部2年目の社会人チーム、サニックスを新天地に選んだ。

異国での挑戦を支えてくれたのが、同社創業者の宗政伸一社長(故人)だった。「日本一にしたい」と夢を語る社長は試合に駆けつけるだけではなく、家を行き来するなど家族ぐるみの付き合いに。「忙しいのに自分のために時間を割いてくれた」。自らのルーツ、ニュージーランド(NZ)の先住民マオリ族にも似た日本人のぬくもりが心地よかったという。

当時監督だった井上登喜男さん(70)は「ジョセフは自らチームの輪に入っていった」と懐かしむ。仲間の名前を覚え、一人ずつ呼び名をつけた。練習では厳しい言葉も浴びせるが、「終わるとコロッと切り替わった」と元同僚の松園正隆さん(45)。人懐っこい笑顔に戻り、ビールを酌み交わした。

大物外国人選手は、福岡の海の幸にほれ込んだ。行きつけの店では、ブリカマ塩焼き定食と刺し身盛り合わせが定番。ラインアウトのサインを「ブリカマ」など好物の名前にするほど、日本での生活になじんだ。

代表も経験「監督の夢」かなう

99年W杯で日本代表としてプレーするジョセフ・現日本代表HC(中央奥)

一方で、「もっと高いレベルでプレーしたい」と元NZ代表の血が騒いだ。滞在3年以上などの資格を満たした99年春に日本代表に初招集された。黒から桜のジャージーに着替えて2大会連続のW杯に臨んだ。結果は3戦全敗ながら、日本のために全力を注いだ。

2003年、サニックスで現役最後の試合を終えた元NZ代表は「これで選手は終わり」とごみ箱にスパイクを捨て、指導者の道へ進んだ。夢は「NZか日本の監督」。W杯開催を控える日本からオファーが届くと、「家族と離れる寂しさはあったが、即答する自分を止められなかった」。ひらがなが読め、簡単な日常会話は理解できる親日家は「第二の故郷」のために、覚悟を決めた。

サニックス時代の同僚、篠原光弘さん(47)は言う。「彼はいつも前向きに戦い続ける。それを知っているから、W杯が楽しみ」。新興チームを全国区に押し上げた現役時代のように、日本を躍進に導くと信じている。

関連ニュース

<<
ニュース一覧へ戻る
>>