南アフリカ<上>人種超え統合 世界一に

ケープタウンに立つマンデラ氏(右端)らノーベル平和賞受賞者の像=南恭士撮影

南アフリカ南西部に位置するケープタウンのウォーターフロントは、観光客でにぎわっている。その一角に、この国でノーベル平和賞を受賞した4人の銅像が並ぶ。向かって右端に立つのはネルソン・マンデラ氏。南アが国際社会から孤立する要因となった、白人と非白人(黒人やカラードなど)を分離したアパルトヘイト(人種隔離政策)を、撤廃へと導いた偉大な黒人指導者だ。

アパルトヘイトは政治、経済、生活だけでなく、スポーツも暗い歴史へと引きずり込んだ。国際舞台から締め出され、各国・地域の代表チームを相手に高い勝率を誇ったラグビーも、1987年に始まったワールドカップ(W杯)から2大会続けて除外された。

ラグビーは南アで、様々な人種の中でプレーされていた。1861年にケープタウン郊外で初めて行われたという説があるなど歴史は古く、多くのクラブチームが誕生し、広まった。

だが、アパルトヘイトの時代、白人と非白人が交わることはなく、人種などによって協会はバラバラ。現在、ケープタウンのある西ケープ州を統括する地方協会のゼルト・マレー会長は「政府のポリシーとして、非白人は(白人と)同類と見なされていなかった」と語る。人種を超えて集まるには、政府の許可証が必要だった。同州にはかつて、五つも六つもの協会が乱立していた。

国のラグビーを統括する組織も、白人を対象にした評議会、人種に関係ない協会などに分かれ、「スプリングボクス」の愛称で呼ばれる代表チームは長く、白人のチームを指した。非白人の代表チームも存在したが、脚光を浴びず、ラグビーは「白人のスポーツ」であり、「スプリングボクス」はアパルトヘイトの象徴だった。

初の黒人主将 実力で信任

大きな転機が訪れたのは、政府がアパルトヘイトを撤廃した翌年の1992年。人種で分かれていた協会を統合する協議が開かれ、3月、同国ラグビー協会が発足した。以降、人種に関係なく同じように機会が与えられ、代表チームも国際舞台へと戻った。95年、自国開催のW杯で、初出場初優勝を果たした。

南アフリカ代表「スプリングボクス」初の黒人主将としてチームをまとめるシヤ・コリシ(昨年9月15日撮影)=ロイター

現在、一定以上の割合で黒人選手を代表に入れなければならないという政府の方針があり、一部では白人選手が多いという批判もある。一方、代表主将を黒人選手として初めてシヤ・コリシが務め、20歳以下代表や女子代表も黒人選手が主将を務めた。南ア協会の大会運営責任者のユスフ・ジャクソンさんは言う。「主将を任されるのは純粋に彼らのパフォーマンスによるもの。いろいろな人種を含むチームを作るという理念を、我々は守り続け、維持している」

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