平成ラグビーの名シーン「ブライトンの奇跡」~稲沢裕子の読むラグビー&ときどき映画案内

平成ラグビー史の金字塔「ブライトンの奇跡」が生まれたブライトン・コミュニティ・スタジアム

「平成ラグビーの名シーンと言えば?」と聞かれたら、あなたは何を思い浮かべるだろう。私はちゅうちょせず、4年前の前回ワールドカップイングランド大会で生まれた「ブライトンの奇跡」を挙げる。

2015年9月19日、私はリセールで買ったチケットを手に、イギリスのブライトン・コミュニティー・スタジアムに向かった。運よく、座席はゴールライン脇の最前列。そこで見た日本―南アフリカ戦は、私にとってラグビーとの絆を決定づける忘れられない名シーンとなった。

歴史を変えた「トライ」

日の丸を掲げる日本人の姿が目立った

かたや、過去の大会戦績が1勝2分け21敗の日本代表。対するは、過去2度の優勝を誇る当時世界ランキング3位の南アフリカ。誰の目にも南アフリカの勝利が明らかに見えた。

ところが、先制したのは日本だった。相手の反則から五郎丸歩選手がおなじみのルーティンでゴールキックを決めた時から、私は夢見心地だった。

一進一退の攻防となり10―12でハーフタイムに入ると、周囲から「後半もこの調子なら行ける」と声が上がった。後半、五郎丸選手が目の前でトライを決めると、隣の南アフリカ人夫妻が「今まで見た中で一番美しいトライだ」と絶賛した。気が付くと、日本サポーターによる「ニッポン」コールが、いつしか「ジャパン」コールとなって会場全体にこだましていた。

3点を追って残り時間はわずかで、日本にペナルティーゴールキックの権利が与えられた。しかし、リーチ主将は引き分けで試合を終わらせるのではなく、逆転のトライを目指してスクラムを選択。この「ブレイブ・コール」(勇気ある選択)から、カーン・ヘスケス選手が劇的なトライを決め、日本は34―32で南アフリカを破った。感動と興奮と熱狂の渦はスタジアムから世界に広がった。

あの時、日本代表が「トライ」したのは、ただの逆転勝利ではなかった。「日本ラグビーの歴史を変える」ことだった。

南ア戦勝利が日本を救った

「平成スポーツ史 ラグビー」(ベースボール・マガジン社)

このほど出版された「平成スポーツ史 ラグビー」(ベースボール・マガジン社)で、長年日本ラグビーを海外に発信しているイギリス人ジャーナリスト、リッチ・フリーマンさんは、この平成の大金星が「日本ラグビーを救った」と評する。

この頃は、2019年のラグビーワールドカップ日本大会で開幕戦と決勝戦を行うはずだった新国立競技場の建設が開幕に間に合わないことが明らかになった時期だった。さらに、スーパーラグビーへの参入が決まったサンウルブズは選手集めが難航していた。ラグビーワールドカップという世界的イベントの開催国として、当事者能力を疑われかねない失態が続き、統括団体「ワールドラグビー」の日本に対する不満が募っていた。

そうした中での南アフリカ戦勝利だった。日本に対する逆風は「ブライトンの奇跡を受けて、きれいに消えた」とフリーマンさんは評する。

平成の節目を飾った神戸製鋼

同書が選んだ「平成ベストフィフティーン」には、リーチ主将や五郎丸選手をはじめ、この時の日本代表メンバーから9人が並ぶ。ほかには、14番ウィングに「世界のトライ王」大畑大介さんが挙がる。大畑さんのテストマッチでのトライ通算「69」は、今も破られない世界最多記録だ。そして12番センターは故・平尾誠二さんだ。

大畑さんと平尾さんの2人が所属した神戸製鋼は平成の始まりと終わりに足跡を残した。平成になったばかりの1989年1月10日、第41回全国社会人大会決勝で東芝府中を破り、初めて日本一の座につき、新日鉄釜石と並ぶ大会7連覇へ歩み始めた。

表彰式には入団3年目で主将に就任した平尾さんが臨んだ。月日は過ぎて2018年12月15日、神戸製鋼は平成最後の日本選手権で18季ぶりに優勝し、名門復活を遂げた。この時の表彰式で、前川鐘平主将は右手に優勝杯、左手に平尾さんの遺影を掲げていたことも記憶に残る。

平成ラグビーの顔

ヤマハ発動機での思い出を語る清宮監督(今年1月29日、東京都内で)

平尾さんと並ぶ平成ラグビー史の顔と言えば、清宮克幸さんがいる。大学4年の年に平成が始まり、今年1月にトップリーグ監督を退いた。その30年間、「すべてのステージで存在感を示し続けた」と同書はたたえる。

1989年度に早稲田大学の主将として大学選手権で優勝。卒業後にサントリーに入社、3期目に主将となり、1995年度に神戸製鋼の連覇を7で止めた。その後、早大監督として大学選手権で3度優勝、サントリー監督としてトップリーグ優勝(2007年度)、ヤマハ発動機のチーム強化で監督に就任し、2014年度に日本選手権優勝を果たした。

早大主将に就任した年には、外国人コーチの先駆けで、後にオールブラックスコーチになるグレアム・ヘンリーさんの指導を仰いだ。ヤマハでは「レスリング」を練習に取り入れるなど「進取の精神」で取り組み、結果を出してきた。

大学ラグビーとトップリーグを知り尽くし、「見たいものを、見たい人が満足できるものにしていく努力をするのが大事」と、同書のインタビューに答えている。

清宮さんは現在、静岡県のラグビーワールドカップ会場となるエコパスタジアムで、女性と子どもに特化したスポーツクラブの代表理事を務める。令和の時代に何を生み出すのか、これからも清宮さんから目が離せない。

【もっと知りたい人のために】
「日本ラグビーヒーロー列伝―歴史に残る日本ラグビー名選手」(ベースボール・マガジン社)に、1970年から2015年のヒーロー41人が並ぶ。日本人初のラグビー殿堂入りした坂田好弘さん、トンガ出身で日本で活躍する外国出身選手の先駆けとなったシナリ・ラトゥさんなど名選手をたどりつつ、日本のラグビー史をひもといている。

プロフィル】稲沢 裕子(いなざわ・ゆうこ)
1982年読売新聞東京本社入社。社会部、生活部、経済部記者、ヨミウリ・オンライン編集担当から女性向けサイト「大手小町」編集長。調査研究本部主任研究員を経て、2018年4月から昭和女子大学特命教授。2013年6月、日本ラグビーフットボール協会の女性初の理事に就任。

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