平尾誠二を語る(2)オオカミの目、自由な心

密着撮影を30年以上続けた写真家・岡村啓嗣(65)

1982年1月2日、ラグビーの大学選手権準決勝。連覇を狙った同志社大は、明治大と国立競技場で顔を合わせた。後半途中までリードしていた同志社大だったが、退場者を出してリズムを崩し、痛恨の逆転負けを喫してしまう。

1年生ながら、同志社大のスタンドオフとして出場していた平尾誠二は、ノーサイドの瞬間、頭を抱えて悔しがった。試合を撮影していた岡村啓嗣の目は、ファインダー越しに見た平尾の表情に、くぎ付けになった。思わず、こうつぶやいた。

「まるで、オオカミの目だな」

同志社大時代の平尾誠二。オオカミのような目をすることがあった=1983年4月、岡村啓嗣撮影 平尾誠二著「生きつづける言葉」(PHP研究所)より

岡村に鮮烈な印象を残した若きラガーマンは、すでにラグビー界で脚光を浴び始めていた。2年生になると日本代表に選ばれ、当時の最年少記録となる19歳4か月で初キャップを獲得。しかし、その4か月後、試合中に右ひざの骨を折る大けがを負う。このアクシデントが岡村に、再び平尾を撮る機会をもたらした。雑誌の依頼で、平尾のリハビリを3日間撮影することになったのだ。

接してみると、平尾はとても雄弁で、いろんな話を聞かせてくれた。たとえば、自分と同じスタンドオフのポジションで活躍する先輩選手たちのプレーを解説した。新日鉄釜石のスーパースター・松尾雄治を「ステップがうまいから、決して速くない足が速くみえる。タックルにはいかないけど、ディフェンスはうまい」と評した。早稲田大の人気者・本城和彦を「パスを出した後、さらに外側まで走り込んで再びボールを受けるくらいの運動量があれば、もっとすごい選手になる」と分析した。いずれも、極めて的確な指摘のように思われた。

「とても19歳とは思えない分析力や洞察力を持っていました。この男は革命児ではないかと思うほど、魅力的でした。その3日間で、スポーツに対する概念まで、私は変わってしまいました」

その撮影を機に、同志社大学ラグビー部が練習場としていた同志社高校の岩倉グラウンド(京都市左京区)へ、東京から足しげく通うようになる。

「当時の同志社大は毎週木曜日、ABマッチというのをやっていました。Bチーム(二軍)の選手は、自分のトイメン(同じポジションで向き合う相手選手)をつぶせば、Aチーム(一軍)に上がれる。だから、ものすごく激しい試合でした。Aの選手は『早稲田や明治よりもBが怖い』って言っていました。そこが(同志社大の)強さの秘密だったかな」

中華料理店で受けた申し込み「君の10年後を見たい」

ある日の練習撮影を終えた後、岡村は「夕飯をごちそうするよ」と誘って、平尾を京都・河原町にあった高級中華料理店に連れ出した。人物、ファッション、料理、紀行もの、スポーツ、商品宣伝など、幅広い分野の撮影をこなして売り出し中だった新進気鋭のカメラマンは、10歳年下の大学生に、こんな申し込みをした。

「君の10年後を見てみたい。しばらく追わせてくれないか」

腰を据えて1人の人間を撮り続けようと思い定めたのは、岡村にとって、この時が初めてだった。ちょっとプロポーズにも似た申し込みに対する、平尾の答えは――。

「返事はなかったような気がしますね。でも、ノーとは言わずに、ほほ笑んでいたような……。私としては『じゃあ、まあいいか』という感じで、彼との(深い)付き合いを始めました」

当初「10年」と言っていた密着取材は、死に至る病が発覚する直前まで30年以上も続いた。平尾を撮り始めて以降、岡村は人物写真専門の写真家となった。同じように被写体に長期間密着する手法を用いて、将棋の羽生善治やバレエの熊川哲也らを、現在も活写し続けている。

「私はいつも『10年後を見たくなるかどうか』を基準に、密着する被写体を選んできました。人物写真家としての価値観は、平尾を選んだあの時に決定づけられたような気がしています」

イギリス留学、そしてアマ規定違反

同志社大を史上初の大学選手権3連覇に導き、平尾は1985年に卒業した。ラグビーチームを持つ多くの企業から熱心に勧誘されていたにもかかわらず、選んだのはイギリス留学だった。ロンドン郊外の「リッチモンド」という名門クラブでプレーした。岡村は、平尾から当時の胸中を聞かされたことがある。

「ラグビー発祥の地で自分がどこまでできるのかを試したいのと、デザインを勉強したいから、イングランドに行ったのだと話していました。英国で思い切りやったらラグビーをやめよう、と思っていたフシもありました」

リッチモンドでは、毎週土曜日の午後に試合があった。チームの全体練習は火、木の週2回。他の日は自主練習だった。個人の課題はそれぞれ違う。筋力をつけたい者はウェートトレーニングをするし、走力が足りないと思う者は走りこむ。みんなが集まる練習はサインプレーなどのチェックに充て、わずかな時間に集中してチームとしての総合力を磨く。選手の個性を尊重し、「義務」ではなく「権利」としてラグビーに取り組む。そんな英国流に、平尾は大いに刺激された。

ところが――。1985年8月13日朝のことを、岡村はよく覚えている。

その前日、東京から大阪に向かった日本航空123便が、群馬・長野県境近くの御巣鷹山に墜落した。520人が犠牲になった航空史に残る大惨事だ。岡村は羽田空港で、各地から集まってきた遺族の撮影・取材をした。つらく切ない徹夜の仕事に、ひと区切りがついた朝、ラグビー日本代表メンバー発表の記事にも目を通しておかなくてはと、スポーツ新聞を買った。そこには、平尾が代表から外されるという記事が、大々的に掲載されていた。

留学直前にファッション誌の誌面に登場したことが「モデルとして起用されたのではないか、アマチュア規定違反の疑いがある」とされたのだった。平尾の着た服はメーカー名や価格が記されないなど、宣伝色を薄める配慮もなされていたが、当時のラグビー界は「アマチュアスポーツ最後の砦(とりで)」といわれるほど規定が厳格だった。平尾は一時、日本国内だけでなく海外でも、プレー資格を失った。

受けた汚名は、ラグビーで晴らす

密集で体を張る平尾。英国留学中、全身全霊でプレーしていた=1985年10月、岡村啓嗣撮影 平尾誠二著「生きつづける言葉」(PHP研究所)より

いてもたってもいられなくなった岡村は、平尾を追って英国へ渡った。現地で再会した時には、プレー資格はどうにか取り戻されていた。練習から日常生活まで張りつき、試合も3戦ほど撮った。その中にはオックスフォード大が、伝統のケンブリッジ大との定期戦を前に催す「メジャースタンレーマッチ」も含まれる。名門オ大の対戦相手を務めるのは、各国の代表級で編成された世界選抜チームだ。その一員に選ばれるほど、平尾は英国で大活躍していた。

「私が撮影した最初の試合で、彼は4トライを挙げました。タックルも本当にすさまじかった。試合後、リッチモンドから地下鉄で帰るんですけど、ホームまで行くと、平尾は疲れて立っていられず、座り込んで電車を待っていました。ものすごく真剣にラグビーに取り組んでいましたね」

留学を終えて帰国後、平尾は神戸製鋼に入社した。アマ規定違反の一件を受け、多くの企業が手のひらを返したように獲得に二の足を踏む中、神戸製鋼は熱意を込めて平尾を口説いたのだった。入社後の活躍ぶりは知れわたっている。主将に就いた88年度、全国社会人大会と日本選手権で初優勝すると、そこから連覇を7まで伸ばした。

「平尾は『ラグビーで受けた汚名はラグビーで晴らす』と、考えたんじゃないかと思います。皮肉なことではあるけれども、アマ規定違反の一件が、彼をラグビーに引き戻したのではないでしょうか」

岡村を介して広がる人脈、羽生との縁も

「羽生にらみ」と呼ばれた鋭いまなざしを、羽生善治は今でも時折みせる=2018年12月撮影

神戸製鋼入りした後も、岡村は折に触れて平尾の撮影を続けた。平尾の著書の刊行も、出版社との橋渡し役としてサポートした。さらには、仕事で知り合った様々な分野で活躍する人たちを紹介し、平尾の人脈を広げるのに一役買った。後に平尾の親友となって闘病を支える山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所所長との初対面の機会を、ノーベル生理学・医学賞の受賞以前に設定したのは、岡村だった。

平成を代表する将棋界のスーパースター・羽生善治と平尾の間を取り持ったのも、2人を密着撮影の対象としていた岡村だ。1991年のこと。平尾は28歳で、日本代表でも神戸製鋼でも中心選手として活躍していた。羽生は21歳で、棋王戦を制して自身2度目のタイトル獲得を果たしたばかりという時期だった。

「この2人を引き合わせたらどうなるかなと。平尾が東京に来た時、私と3人で青山のスペイン料理店で食事しました。その後、3人でカラオケスナックにも行って、お客がほかにいなかったので、貸し切り状態で歌いました」

若き日の羽生は、この席で平尾の勝負哲学に触れた。一方の平尾も、葛藤を抱えていた時期だった。当時のラグビー界には「日本代表よりも所属チームでの活動を重視する」という考え方があった。日本一に君臨し続けていた神戸製鋼のノウハウを、主将を務める日本代表に、どこまで注入するべきなのか。神戸製鋼が国内の大会で不利になるようなことがあってはならないのではないか。

「そういう話の中で(平尾より7つ年下の)羽生さんが言ったんです。『平尾さん、与えれば与えられるんです』。羽生さんの真剣な目が、私には忘れられません」

2人の勝負師は、その後も対談などを重ね、交流を深めていく。彼らには、その表情にも共通点があると岡村は思っている。

「鋭い目ですね。平尾の目を、私はオオカミみたいだと思ったわけですが、羽生さんの目には、ものすごく殺気があります。当時は『羽生にらみ』という言葉も、よく使われましたよね。それに2人とも、すごくいい笑顔をするんです」

伏せた病、嘆く友「病院で何もできなかった……」

ファンやゆかりの人々が、平尾との別れを惜しんだ「感謝の集い」=2017年2月10日、神戸市内で撮影

月に1、2度ほど顔を合わせていた平尾と岡村が、最後に会ったのは2015年9月6日のことだ。しばらくして、岡村は仕事仲間から「平尾さん、ずいぶんやせていますよ。大丈夫でしょうか」という声を聞いた。

平尾本人に電話をかけてみると、元気な声で受け答えしてきた。ただ、再会の約束をしようとすると、やんわり断られてしまう。岡村は、健康状態の詳細について本人に直接問うのは控えようと考え、恵子夫人にメールを送って様子を尋ねた。しばらくすると「うちの主人は本当に運が強い人だと思います」などと記した短いメールが返ってきた。

「そのメールを見て、私は安心してしまったんです。やっぱりアイツは大丈夫だよなと。何かの病気にはかかったのかもしれないけど、もう大丈夫なんだろうと。今思うと、恵子夫人のメールは、山中先生が(治療方針などについて)いろいろと助けてくださっている、というような意味だったのかなと思うんですけど」

その後、平尾本人に「今度、飯でもどうだ?」というメールを何度か送った。だが、そのたびに「その日はダメなんです」という返信が来た。「今、京大病院に入院しているんです」と夫人から打ち明けられたのは、2016年の秋口のことだった。

岡村は京大病院へ駆けつけた。

「とりあえず行ってみようと。そして2、3時間、病院のロビーにいました。何もできないまま、ただずっと、そこにいました。もしかしたら恵子夫人や娘さんが通るかな、と思いながら、人の流れを眺めていました。私だって、自分が病気でやせ細っている姿で友人に会いたいとは、思わないかもしれない。平尾もそうなら、気持ちを尊重してあげるべきだと思ったんですね。何というか、私はすごく臆病でした」

平尾は2016年10月20日、胆管細胞がんで他界した。岡村が最後に顔を合わせたのは、大病が判明する一週間前のことだったと、後日わかった。

自由な渦の中心で

33年ぶりに訪れた同志社高の岩倉グラウンドで、平尾を撮影した日々を回想する岡村=2018年12月11日撮影

かつて砂煙が舞っていたグラウンドは、整然とした緑の人工芝に張り替えられていた。2018年12月、岡村は京都の岩倉グラウンドを33年ぶりに訪れた。比叡おろしの寒風に吹かれて同志社高校ラグビー部の練習を眺めつつ、このグラウンドで平尾の姿を追った日々に思いをはせた。

同志社大の練習が始まる前、平尾はよくチームメートと楕円球をパスしながら戯れていた。笑顔の絶えない、子どもたちがじゃれ合うようなウォーミングアップ。オオカミの目をした少年がこんな笑顔も見せるのか――と思っていると、いざ練習が始まればチーム一丸、とことん激しく鍛え抜く。そんなギャップも魅力的だった。

「当時の同志社は、体育会としては進歩的で、自由なラグビーが浸透していました。ほかのラグビー部は(練習前に)もう少し張り詰めた雰囲気があっただろうと思いますね」

同志社大を率いていたのは、部長の岡仁詩(ひとし)(1929~2007年)だった。岡は、選手の能力を最も発揮させる戦い方を模索し、型にとらわれないプレースタイルを確立した指導者だ。平尾をはじめ、林敏之、大八木淳史ら個性的な選手を擁し、1980、82、83、84年度の大学選手権を制した。岡が薫陶を受けたのは、星名秦。星名は南満州鉄道(満鉄)で「特急あじあ号」の設計に携わり、戦後に同志社大の工学部長、学長などを務めた人物だ。星名の「ラグビーは型にはまってはいけない。何でもできるスポーツだ」という教えを、岡は後進に伝え続けた。

同志社大時代に岡の自由なラグビーを学び、留学先のイギリスでさらなる自由なプレー環境に身を置き、自分を磨いた平尾。その後も、何ものにもとらわれない思考で、ラグビー界に新風を吹き込んだ。

ニュージーランドで子どもとラグビーを楽しみ、明るく笑う平尾。岡村はたびたび海外まで同行して撮影した=1984年8月、岡村啓嗣撮影 平尾誠二著「生きつづける言葉」(PHP研究所)より

神戸製鋼で主将に就任すると、チーム練習を週3日に減らす。日本代表監督時代は、ニュージーランド出身のアンドリュー・マコーミックを主将に指名した。次世代育成のプロジェクトも立ち上げた。もしも平尾が健在なら、9回目の開催にして初めて強豪国以外で開催されるワールドカップ(W杯)の日本大会に、今までにない斬新なアイデアを持ち込んだかもしれない。

「彼のキーワードは『自由』です。ラグビーボールは自由の象徴だと話していました。ボールを獲得すれば自分たちに攻撃権があり、自由にラグビーができると。彼が協会の中枢にいれば、いろんな動きが生まれたと思います。W杯で日本にどれだけラグビー文化を残せるか、あるいはラグビーから何を生み出すことができるか。そういうことを考えるのが、すごく得意な人間だったので……。そういう意味でも、亡くなったのはすごく残念です」

岡村は最近、「共進化」という言葉があることを知った。

「もともとは生物学の用語ですが、互いに適応し合うことにより、周りも引き連れられるようにレベルが上がっていくという現象を指す言葉です。伏見工高、同志社大、神戸製鋼で日本一になり、日本代表ではスコットランドを破る快挙を成し遂げた。いずれも、平尾が渦の中心にいたと思うんです」

平尾について行こう、彼を中心にした渦に巻き込まれようと、周りの選手に思わせたものは何だったのだろう。

「人間としての温かみ、心をつかむ言葉、そして緊張感ですね。練習中の写真を撮っていると、時々、すごい剣幕で怒っているんですよ。レンズ越しに見ていても『おぉ、こわ』ってつぶやくくらいですよ。そういう緊張感の中でやっていますから、選手も当然レベルアップしますよね」

渦は、速度が違う二つの流れが合わさった時に生まれる。平尾は、まとわりつくしがらみから自由になることを希求する一方、必要に応じて張り詰めたムードを作り出した。二つの流れが大きな渦になり、数々の栄光をもたらした。

(読売新聞大阪本社・橋野薫、文中敬称略)

ラグビーW杯日本大会の開催が近づいてきた。今日の日本ラグビーに大きな影響を及ぼした「ミスターラグビー」こと、平尾誠二(1963~2016年)の軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫ってみたい。

岡村 啓嗣(おかむら・ひろつぐ)

平尾を撮影した自作を前に、インタビューに答える岡村啓嗣=2018年12月11日撮影

1953年1月17日生まれ。写真家、出版プロデューサー。立教大学卒。東京写真専門学校卒。著書に「同志社フィフティーン」など。主に人物写真を撮影し、羽生善治、熊川哲也らを10代の頃から追い、数多くの写真を発表してきた。2018年、平尾を撮影した35年間の写真と言葉をまとめた「生きつづける言葉――情と知で動かす」を発行した。

平尾 誠二(ひらお・せいじ)

インタビューに答える平尾誠二=2015年9月8日撮影

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初(当時)の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。

日本代表キャップ35。ワールドカップには第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のワールドカップ初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。97年に日本代表監督に就任。99年のワールドカップでは監督として日本代表を率いた。2016年10月20日、53歳の若さで亡くなった。

《あわせて読みたい》

平尾誠二を語る(1)山口良治・元京都市立伏見工高ラグビー部監督

平尾さんと遂げた復活 神鋼ラグビーV

 

<<
記事一覧へ戻る