平尾誠二を語る(3)希代のリーダー対決、美しきノーサイド

松尾雄治(65) 元新日鉄釜石選手兼監督/元日本代表スタンドオフ

松尾雄治が左足で蹴ったドロップゴールは、ゴールをそれた。

1985年1月15日、国立競技場でのラグビー日本選手権は、3年連続で新日鉄釜石と同志社大の対戦となった。このシーズン、釜石は選手兼監督の松尾が率いて全国社会人大会7連覇を達成した。対する同志社大は主将代行の平尾誠二を軸に大学選手権3連覇を果たしていた。当時30歳の松尾は、挑戦者をこんなふうに見ていた。

「平尾を中心にできてきたチーム」

超満員の国立競技場、松尾は出るのか?

この一戦が例年の日本選手権以上に注目を集めた理由の一つが、松尾の左足首だ。全国社会人大会中に左足首を負傷、患部に病原菌が入って悪化し、同志社大戦を前に入院を余儀なくされた。本人は出ないつもりでいた。だが、主将の洞口孝治らに「5分でもいいからグラウンドに立ってくれ」と懇願され、さらに新日鉄の幹部からも出場するよう説得された。松尾は当日、入院先から直接、国立競技場に乗り込む。試合前に患部から膿(うみ)を吸い出す管を抜き、麻酔の注射を3本、4本と打って、枯れ芝のグラウンドに飛び出した。

「左足首がとれてしまいそうなほど痛かったのに、試合開始の頃には(麻酔が効いて)感覚が全くなくなっていた。『先生、試合中に足が折れちゃったらどうしよう』って医師に聞いたら、『大丈夫だ。感じないから』って」

希代のゲームメーカーによる直接対決。観客席は超満員に膨れあがっていた。前半は同志社大が展開力を発揮し、リードした。23分には平尾がステップで防御を引きつけ、ウィングの赤山泰規にパスを送ってトライを演出した。

松尾のドロップゴール失敗は、4点を追う28分だった。

「テーピングでグルグルに固定していた左足で蹴っても、そんなの無理に決まっていた。でも、あれは布石になっている」

松尾に触発されたのか、5分後には平尾が、右足でドロップゴールを狙う。ボールは約30メートル先のバーを越え、13-6とリードを広げた。松尾のお株を奪う、してやったりの追加点。クールな平尾が、珍しく右拳で小さくガッツポーズをつくった。このシーズン、チームがドロップゴールを狙ったのは、これが最初で最後だったと記憶している同志社大の選手もいる。平尾は、それほどまれなプレーを選んで、成功を収めた。

逆手に取ったドロップゴール合戦、駆け引きで引退の花道

左は1985年当時の松尾。右は同志社大2年生当時の平尾=岡村啓嗣撮影 平尾誠二著「生きつづける言葉」(PHP研究所)より

しかし松尾は、したたかな策を隠していた。

釜石が逆転し、15―13とわずかにリードして迎えた後半20分過ぎ。ゴール前5メートル、ほぼ中央の位置で、釜石はマイボールのスクラムを得る。ここから出たパスを受けた松尾は、ほんの一瞬動きを止めると、パスするでもキックするでもない、でも何かをたくらんでいるように感じさせるモーションを見せた。これに、同志社大の防御が戸惑う。松尾は外へ膨らむようなコースを走ると、相手のタックルを振りほどき、ウィングの永岡章に長いパスを送った。チームを勢いづけるトライが右隅に決まり、松尾が打った布石は成就した。最終スコアは新日鉄釜石31―17同志社大。ドロップゴール合戦では平尾に負けたが、駆け引きでは九つ年上の松尾が一日の長を示し、チームを勝利に導いた。

「(永岡のトライシーンは)僕はドロップゴールを蹴ると見せかけて、狙わなかった。『松尾がまた何かやってくるぞ』と相手が思ったところで、ロングパスを投げて裏をかいた」

試合後、松尾はチームメートに担がれ、国立競技場のファンの声援に手を振ってこたえた。これが松尾の引退試合になった。その夜、東京都内にあった新日鉄の寮で開かれた日本選手権7連覇の祝勝会を、同志社大の主力選手たちが訪れた。試合後は敵も味方もなく健闘をたたえ合う、ラグビーの「ノーサイド精神」を体現した一幕。その感動を語る時、松尾の声は今も弾む。

「平尾や大八木(淳史・元日本代表)たちが来てくれて『松尾さん、おめでとうございます』と。負けたチームの選手たちが、相手の祝勝会に出てくるなんて、それまでのラグビーでは起こらなかった。まさにノーサイド。びっくりしたし、そんな時代になったのかと思った。平尾は『松尾さんが試合に出てこないと思っていたから、油断してましたわ』なんて言っていましたね」

引退試合を日本選手権7連覇で飾り、仲間に担がれてVサインする松尾

出会った瞬間、気づかされた才能

松尾と平尾は1982年、ニュージーランド遠征を控えた日本代表候補の合宿で、初めて同じグラウンドでプレーした。松尾は、日本代表OBで平尾の恩師でもある山口良治・伏見工高監督(当時)から「お前以来の逸材だぞ」と聞かされていた。実際に大学2年生だった平尾を目にし、即座に山口の言葉通りだと感じた。

「いやぁ、本当にびっくりした。ボールの捕り方とか、キックの仕方、タイミング。パッと見て『こりゃすごいな』と。今の野球で言うなら、大谷(翔平=大リーグ・エンゼルス)君みたいなものじゃないかな。大谷君がボール投げたら、たぶん周りが『うぉっ』と、なるでしょ。僕ら(トップクラスの)スポーツ選手は、そういうことが一目で分かるものだからね」

練習や試合を重ねるうち、平尾の最大の長所が判断力にあるとも分かってきた。得点差、残り時間、グラウンドのどのエリアで攻防が展開されているかを、いつもきっちり頭に入れて、プレーを選択できる。松尾が司令塔の役割だと考えて磨いてきた能力を、平尾もまた、備えていた。

「チームを勝たせるため、その時に何が一番大切なのかを平尾は分かっていて、的確にプレーを選んだ。ラグビーに個人的な勝ち負けはないけど、いつか僕は彼に負けるというか、彼の作るチームに負けるのかなというふうに感じていた」

2人の違いは「平尾が自由なラグビーを求めたこと」

日本代表のテストマッチで整列する平尾(1986年3月)

「まつおゆうじ」と「ひらおせいじ」。字数が同じで音の響きも似ている2人。新日鉄釜石と神戸製鋼という赤いファーストジャージーを着る製鉄会社の社会人チームを、日本選手権7連覇に導いた実績は、名前以上にそっくりだ。「ミスターラグビー」という言葉からファンが連想するのも、2人のどちらかではないか。

共通項の多い2人は現役時代、顔を合わせる機会があると、互いのラグビー観を熱っぽく語り合った。たびたび、酒も酌み交わした。東京都内での日本代表合宿中、宿舎から六本木へと繰り出し、生バンドをバックに歌える店で羽目を外した夜もある。ただし、その翌日の試合で平尾が左ひざを骨折する大けがを負ったため、平尾が引退するまで、生バンドの件を松尾は内緒にしていた。スポーツ界にまだ、豪傑たちの気風が残っていた時代のエピソードといえるだろう。

語り合う中で松尾には、平尾のラグビー観が、自分と違うことも分かってきた。

「決定的な違いはね、平尾が理想のラグビーを追い求めたということ。彼の理想は『ボールを持った者が、自由奔放にいろんな判断をすればいい』というものだった。僕のラグビーには『この場面ではこういうプレーをしよう』という決まりごとがあって、全員が同じプレーを思い描いた。僕も若い頃、平尾のような考えを持ったことはあったけど、かなえられなかった。ボールを持つ個人の判断に全員がついていくようなラグビーは、個々の体力、技術が上がってこないとできない。平尾は『一人ひとりがもっと強くなって、いろんな判断ができないと、日本は世界のラグビーに勝てないんじゃないか』とも言っていた。彼は正しかったと思う」

サインの機知に、うなる先輩「日本語の方がいい」

2019年1月18日、松尾は都内で営む会員制バーで取材に応じ、平尾の思い出を語った

1983年10月、日本代表は敵地でのテストマッチで、ウェールズ代表を追い詰めた。24―29で惜敗したが、全員が走りに走ってボールをつなぐ日本の展開ラグビーに、「赤い竜」と呼ばれる強豪がたじたじになった。松尾は背番号10のスタンドオフ、平尾は12のセンターで出場していた。

松尾が思い出し笑いするのは、試合の数日前にグラウンドで交わしたやり取りだ。

「平尾が『松尾さん、サインは日本語の方がいいんじゃないですか』と言ってきた。相手は日本語が分からないんだからと。『あー、そうだ! もっと早く言えよ』っていう話だよね」

日本では、連係プレーのサインを「Aの1」や「Bの2」といった具合に、アルファベットと数字を組み合わせることが多かった。松尾が慣れ親しみ、国際試合でも何の疑いもなく用いてきた流儀だ。

「サインを日本語にしてから、いきなり連係がやりやすくなった。『平尾の横にナオさん(フルバックの谷藤尚之)』とか『オレから小林(センターの小林日出夫)、そこに平尾が回って』とか、その方がみんな分かりやすい。『Aってなんだっけ』なんて考えることもないから」

迎えた試合の後半、松尾はスクラムの場面で「千田左(ちだひだり)」と叫んだ。これを受け、右フランカーの千田美智仁(新日鉄釜石)が、スクラムを組んだ後で右側から左側へひっそりと移動。スクラムからボールを拾い上げた千田は、そのまま左に持ち出すと、約35メートルを独走してトライを奪った。国内での試合だったら、簡単に手の内がばれて通用しないはずの日本語のサインプレーが、きれいに決まった。

松尾の戦術眼と、平尾の柔軟な発想が結びつき、貴重なトライを引き出した。日本代表屈指の名勝負として、この試合は今も語り継がれている。

W杯釜石開催実現にも、スター共演で一役

2011年5月、スクラム釜石の記者会見でマイクを握る松尾

2012年9月、神戸製鋼と新日鉄釜石のOBが対戦したチャリティー試合で快走する平尾(東京・秩父宮ラグビー場で)

2人を結びつけるもうひとつのキーワードが「震災復興」だ。1995年の阪神大震災では神戸が、2011年の東日本大震災では釜石が壊滅的な被害を受けた。松尾は振り返る。

「神戸も震災でひどい被害を受けたでしょう。練習グラウンドから水が湧き出してグチャグチャになってしまって。釜石も震災後、見たことがないほど、ひどい状態になった。それにしても、新日鉄釜石と神戸製鋼は、誰が決めたのかっていうくらいそっくり。なにも震災に遭うところまで……」

東日本大震災からわずか4か月後。松尾は神戸入りし、神戸製鋼のゼネラルマネジャー(GM)を務めていた平尾とのトークショーに出演した。会場は16年前の被災から復興した神戸製鋼の練習場・灘浜グラウンドで、開催日は7月18日だった。その日の早朝、サッカーの日本女子代表「なでしこジャパン」がドイツでのワールドカップで初優勝したニュースが、日本にもたらされた。震災以来ずっと重苦しい空気に包まれていた日本列島が久々の明るい話題に沸き返り、人々を勇気づけるスポーツの力を、国民は再認識した。

そんな日に、松尾は「ラグビーW杯の釜石開催」という威勢のいいアイデアを、タイミングよくぶち上げた。これに、平尾もすかさず共鳴した。震災後にW杯の釜石開催を、影響力のある有名人が公衆の前で披露したのは、この時が初めてかそれに近いケースだったとみられる。ラグビーライターの大友信彦が著した「釜石の夢~被災地でワールドカップを」(講談社文庫)から、2人の発言を引く。

松尾「これはまだ夢みたいな話なんだけど、僕らが『スクラム釜石』という支援組織を立ち上げて、今呼びかけているのが、2019年W杯の試合を釜石に持ってこよう! という運動なんです。津波に襲われて、釜石の町は今メチャメチャで、見るに堪えない状態ですが、これから復興に向かっていくシンボルとして、ワールドカップの試合を開催したい(以下略)」

平尾「釜石でワールドカップの試合があったら、僕も絶対に見に行きたいですよ。(中略)釜石が中心になって、仙台なんかともプロジェクトを組んで、東北全体から『復興の狼煙(のろし)』をあげたらエエと思うなあ」

スクラム釜石は、新日鉄釜石のOBたちで結成した被災地支援のNPO法人で、松尾は「キャプテン」という立場にある。トークショーは、スクラム釜石がW杯の開催要望書をつくって釜石市長に提出してから、わずか5日後に開催された。松尾は今、トークショーでの発言意図を、こう説明する。

「大勢の人がいる前だから、そういうホラも吹くわね。あの頃、本当にW杯を釜石でやれると、僕は思っていなかった。夢の夢、そのまた夢の物語だった。W杯なんて、国立競技場と花園ラグビー場の2か所でやると思っていたくらいだから。ただ、神戸はその頃、もう震災から復興していた。たわごとかもしれないけど、釜石も復興しなきゃいけないという意味で、W杯の話をした」

思いよ届け、復興のスタジアムへ

釜石鵜住居復興スタジアムのこけら落としでは、新日鉄釜石と神戸製鋼のOB戦が行われた(2018年8月撮影)

ところが、その後の展開は、松尾の想像を上回る。平尾とともに、あの日のトークショーで語り合った夢物語が、着々と実現へ向かっている。

2015年3月、釜石市は神戸市などとともに、W杯日本大会の12開催都市のひとつに選ばれた。津波で全壊した小学校と、隣接する中学校の跡地に「釜石鵜住居復興スタジアム」が新設され、2試合が行われることになった。スタンドは常設が約6000席で、本大会では仮設の約1万席を用意する。2017年に釜石で起きた山火事で焼け残ったスギを使ったベンチや、旧国立競技場のいすなどを再利用。W杯の釜石開催は、震災復興とともに、大きな競技場を持たない小さな都市でも世界的なスポーツイベントを開催できることをアピールする機会となりそうだ。

しかし――。ともにまばゆく輝いた現役時代から心を通わせ、震災復興でも活動をともにした後輩は、2016年に帰らぬ人となった。松尾の胸中には、こんな思いが去来する。

「W杯に平尾がいないのは、本当に残念。日本のスポーツ界は、大切な人材を失ってしまった。ただ、平尾だけじゃなく、日本ラグビー界のために死ぬ気で頑張ってくれた先輩たちは、たくさんいる。そういう人たちも、平尾と一緒に釜石開催を喜んでくれるんじゃないかな」

「絶対に見に行きたい」という希望は、かなわなかった。でも、平尾の思いはこの秋、釜石にも届くはずだ。(文中敬称略。読売新聞大阪本社・橋野薫、東京本社・込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやワールドカップ2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。

平尾 誠二(ひらお・せいじ)

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初(当時)の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。

同志社大2年の1982年、当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表キャップを獲得。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。引退後は、97年に日本代表監督就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。

2016年10月20日、胆管細胞がんのため、53歳の若さで亡くなった。

2012年9月のチャリティー試合後、握手する平尾(右)と松尾

松尾 雄治(まつお・ゆうじ)

1954年1月20日生まれ。立教大ラグビー部出身の父親の影響で幼少期からラグビーを始める。東京・目黒高3年で全国大会準優勝。明治大に進み、スクラムハーフで日本代表に選ばれたが、北島忠治監督の指示でスタンドオフに転向し、才能をさらに開花させた。4年で日本選手権優勝。新日鉄釜石では選手、主将、選手兼監督として、全国社会人大会と日本選手権で7連覇を達成した。日本代表キャップ24。

引退後はスポーツキャスター、運送会社の社長、成城大ラグビー部監督などを務めた。約6年前から東京都内の繁華街で会員制バーを経営するかたわら、講演やNPO法人「スクラム釜石」の活動にも精力的に取り組んでいる。

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