松尾雄治の告白(番外編)嘘つきリーダーを長嶋さんが救ってくれた

日本ラグビー史上最高の司令塔・松尾雄治(65)が監督兼選手として率いた新日鉄釜石は1985年1月15日、次代のスター平尾誠二(1963~2016年)を擁する同志社大の挑戦を31-17で退け、日本選手権7連覇の偉業を達成した。左足首の負傷を抱えて出場し、引退試合を飾った松尾は、チームメートに肩車され、国立競技場を埋めた観衆に両手でVサインを送った。ところが松尾は「あってはならない場面で、今でも恥ずかしい。嘘つきのラグビー人生は、あそこで終わり」と振り返る。胸中に秘めた苦悩と、手を差しのべてくれた長嶋茂雄・現巨人軍終身名誉監督(82)への感謝を、34年の時を経て打ち明ける。(文中敬称略、聞き手=読売新聞東京本社・込山駿、大阪本社・橋野薫)

1985年1月15日、新日鉄釜石がV7を達成したラグビー日本選手権後。仲間の肩車の上で、松尾雄治の胸中には「逃げ出したい」との思いがあったという

V7達成の引退試合、痛む心と左足

まだ僕は30歳だったけど、心身ともに、もうダメだった。リーダーとして失格だったし、あんなケガをした人間が試合に出ちゃいけない。あれから13年間、僕がラグビーの指導と全くかかわらなかったのは、同志社戦に出てしまったからだ。

直前の全国社会人大会で痛めた左足首は、とれてしまいそうなほど痛かった。とてもラグビーどころじゃなかった。試合当日は、入院先の病院から国立競技場に直行し、痛み止めの注射を何本も打って、結局フル出場した。でも、やっぱり全然走れなかった。無理だったんだ。

開始早々、同志社のフルバック・綾城(高志)君に走られ、ウィングの選手に先制トライをされた。あそこはスタンドオフの僕が綾城君に追いつかなきゃいけないのに、追いつけなかった。いつもなら入る位置からのドロップゴールも失敗。テーピングで固めて足首を伸ばせない左足で蹴ったって、そんなのダメに決まっていた。終盤は麻酔が切れて、痛みも感じた。

1985年の日本選手権で、ボールを持つ松尾。左足首の痛みに苦しみつつも、鮮やかなラストパスで決定的なトライを演出する妙技もみせた

僕には釜石でずっと大切にしてきた信念があった。

「調子の悪いベテランよりも、調子のいい若手で戦っていく。それが、釜石のラグビーだ」というもので、周りにもそう言い聞かせて、チームリーダーを務めてきた。明治大を出て新日鉄釜石に入ってから9年間、高卒で入ってくる選手がほとんどだったから、僕より年下が多かった。そんなチーム環境で、新人だろうが何だろうが、構わず起用した。みんなにチャンスがあるから「よっしゃー」という気分になって、頑張ってくれた。

同志社戦前の入院中、僕はベッドに寝たきりだった。新日鉄釜石には、どのポジションにも代わりの選手がいた。誰かが出られなくなったら、控えの選手を信頼して出すべきであって、それで負けるのは仕方ないことだというのが、僕の考えだった。

僕の後ろには、佐々木和寿という選手が控えていた。宮古工高から入って頑張ってきたスタンドオフで「オレが試合に出られなかったら、お前がやるんだぞ」と、何年も鍛えてきた。だから、ケガをした直後に「お前の晴れ舞台が来たぞ」と、本人に言い渡した。苦楽を共にしてきた主将の洞口孝治(1953~99年)にも、入院中に電話で「カズトシでいこう」と何度も伝えていた。

それなのに、最後の最後に「なんでオレが出ているんだよ」っていう話さ。自分が佐々木に、どう思われているかと想像すると、今でも本当に恥ずかしい。

肩車の上で「逃げ出したかった。僕は商業主義に屈した」

社会の熱気のようなものに押されて、出るべきではなかった試合に出ることになった。病院で、新日鉄本社の上層部と話をした。「何万人ものお客さんが、君を見に来るんだぞ」と説得された。それで僕は、リーダーとして、監督として貫いてきた哲学を曲げた。

試合前日、東京の国分寺にあった練習場に車いすで顔を出した時に「5分でも10分でもいいからグラウンドに立ってくれ」と洞口たちに頼まれていたし、当日打った麻酔が効いて痛くなくなったという理由もある。でも結局のところ、松尾のラグビーが、満員のファンの期待に応えるべきだという商業主義に負けたんだ。

しかも、試合に勝った後、僕は仲間に肩車までされている。

団体スポーツにおいて、一人が派手なことをしたり、得点を決めて威張ったりしては、絶対にいけない。僕は成城学園小の5年生でラグビーを始めた頃から、そう教え込まれてきた。それを守って生活し、プレーしてきた。それなのに、あの試合後は「松尾さん、きょうはもう派手に行っちゃってくださいよ」なんて仲間に言われたら、吹っ切れたように肩車されちゃった。ラグビーが自分だけのものだというような見え方になった。あってはならないことだった。

なんでこんな「嘘つき松尾雄治」なんだろう――。そんな思いでいっぱいだった。本心では、早くあの場から逃げ出したかった。

元新日鉄釜石・佐々木和寿(55)の話「私の出る幕じゃなかった。あの日本選手権に対する私の思いは、その一言に尽きる。松尾さんのケガは普通なら出られないほどひどかったし、実際つらそうにプレーしていた。それでも、キレのある動きは随所に見せてくれたし、トライにつながったパスも、さすがだった。私はいつでも代わりに出る準備をしていたし、試合直後は出たかったなという気持ちもあった。でも、少し時間がたってから、気持ちの整理がついた。あの超満員の試合に当時の自分みたいな無名選手が出るべきではなかったし、松尾さんのフル出場でよかったんだと。そもそも、出られなかった原因は、力不足とほかのレギュラー陣からの信頼不足に他ならない。誰よりも走り、自らプレーをやってみせることで『北の鉄人』と呼ばれたチームを引っ張った松尾さんに、私は今も尊敬を通り越した思いを抱いている。もちろん、恨みなんて全然ない」

開口一番「よぉ、雄ちゃん」

1985年、エチオピアの難民キャンプを訪れた長嶋茂雄。この時期は世界中を巡り、スポーツ現場も精力的に視察した

「よぉ、雄ちゃん!」

あの時までほとんど面識がなかった僕に、いきなり「雄ちゃん」だからね。陽気なあいさつとともに、長嶋さんは国立競技場に登場した。僕が肩車から下りて、最後のインタビューを受けていた時だった。新聞記者やカメラマンが、みんな長嶋さんの方に行っちゃった。

「いやあ、すごいねえ。(観客席は)すごい人ですねえ」なんて感心しながら、取材を受けていた。松尾さんのプレーを見るために来られたんですか――と聞かれて「ハイ、ハイ、ハイ」。ラグビーはどうですか――という質問に「寒いですねえ、ラグビーは」と答えたのには、思わず笑った。1月15日にコートも着てこないんだから、それはまあ寒いよね。

「情熱さえあれば、永遠にラグビーと一緒にいられる」

長嶋さんはその日、チームの祝勝会場だった新日鉄の寮にも、改めて来てくれた。僕は車いすを下りて、和室でお迎えした。この時、ものすごくいい話をしてくれたんだ。

まずは「ケガしているみたいだけど、大丈夫かい」と聞かれた。「もうやめると思います」と正直に答えたら、「そうか」とうなずいて、そこからスポーツ選手の引退についての話になった。

「あのな、雄ちゃん。スポーツ選手にとって、引退っていうのは本当につらいことだし、嫌な思いも味わうよ。そういうことは、僕も経験してきたから、よーく分かる。だけどな、選手っていうのは、いつか必ず引退する。それでもな、雄ちゃんに情熱さえあればな、ラグビーに対する情熱さえあればな、いつまででもラグビーと一緒に生きていくことができるんだよ」

「テレビに出て、ラグビーの良さを語ったりすること、新聞に書いたりすること、講演をして一般の方にラグビーの良さを伝えること、子どもたちにグラウンドで教えること。現役の頃は、プレーすること一つだけでしょう? 現役をやめたらね、いっぱいあるんだ。いろんな角度でラグビーに接することができるんだよ」

そんなことを教えてくれた。そして「僕はこれから、スポーツ発展のために頑張るから、雄ちゃんも頑張ってくれよ。一緒にやろう」と誘ってくれたんだ。

以来、長嶋さんが巨人の監督に復帰を決めた頃(1992年10月)まで7年間以上、世界中のスポーツ選手を2人で訪ね歩いた。88年のソウルオリンピックは1か月以上、一緒にいた。スポーツキャスターとして、陸上競技の英雄カール・ルイス(アメリカ)の家だとか、本当にいろんなところへ行った。そういうテレビ番組の仕事の相棒に、長嶋さんは僕を選んでくれた。

何をするにも一緒だったから、いろんなことを長嶋さんに教えてもらった。野球しか知らないような人では、全然なかった。僕は新日鉄という会社にいたから、経済界のお偉いさんの話をよく聴いていたけど、そういう人たちが訓示するようなことも、ちゃんと知っている。「口約束っていうのは、約束なんだよ」と諭されたことがある。長嶋さんから聞くとは思わなかったけど、やっぱりすごい人なんだなと思った。「自分の体調が悪くても、それを表に出して人に会ってはダメだ。『おはようございます』『さようなら』と、スポーツ選手はみんなに明るく接していくんだ」という話にも、感銘を受けた。

ミスターを鑑に、W杯イヤーの奔走

引退試合から13年後、再びラグビー指導とかかわり始めた頃の松尾。警視庁ラグビー部の選手たちに指示を出す(1998年撮影)

引退した頃、僕は何よりも大切なラグビーやスポーツに対する情熱を、少しなくしてしまっていた。それを、長嶋さんが引っ張り出してくれた。

秋にラグビーのワールドカップ(W杯)日本大会が行われる今年、僕は講演やら、W杯の釜石開催を支援するNPO法人「スクラム釜石」の活動やらで、すごく忙しい。そうやって今、もう一度ラグビーとかかわっていられるのも、長嶋さんのおかげ。本当に、すごく影響を受けた。僕にとって、あの人は引退してからの鑑(かがみ)なんだ。(談)

松尾 雄治(まつお・ゆうじ)

1954年1月20日生まれ。父親の影響で幼少期からラグビーを始める。東京・目黒高3年で全国大会準優勝。明治大に進み、スクラムハーフで日本代表に選ばれたが、北島忠治監督の指示でスタンドオフに転向し、才能をさらに開花させた。4年で日本選手権優勝。新日鉄釜石では選手、主将、選手兼監督として、全国社会人大会と日本選手権で7連覇を達成した。日本代表キャップ24。

引退後はスポーツキャスター、運送会社の社長、成城大ラグビー部監督などを務めた。約6年前から東京都内の繁華街で会員制バーを経営するかたわら、講演やNPO法人「スクラム釜石」の活動にも精力的に取り組んでいる。

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