平尾誠二を語る(4)哲学するラガーマン~スズカン教授の追想

政界や教育界で盟友だった鈴木寛・元文科副大臣(55)

「原点や本質、理由を問い続けた『哲学するラガーマン』。平尾さんから発せられるひと言ひと言が、私にとっては『目からウロコ』で、本当にその通りだなと思うんです。なんて頭のいい人だろうって。全部自分の経験から、練りに練り上げた言葉を使われます。会うたびに、時を忘れて話し込みました。人生で一番刺激を受けた人の一人です」

東大と慶大の両方で教授を務める「スズカン」こと鈴木寛(ひろし)・元文科副大臣(55)は、一つ年上の平尾誠二と30代前半で出会った。1996年頃のことで、当時は通産省(現・経済産業省)に勤めていた。平尾と『イメージとマネージ』を共著した編集工学研究所長の松岡正剛に紹介されたのをきっかけに、東大卒のエリート官僚はラグビー界のヒーローと「スポーツで日本を変えよう」との志を共有、スポーツ振興や次代を担う人材育成に心血を注いだ。

左は、書物を片手に語る平尾誠二(2003年8月撮影)。右はインタビューに答える鈴木寛(2019年2月撮影)

平尾語録に心酔

鈴木を心酔させたのは、どんな言葉だったのだろう。

「僕の中には『平尾語録』があるんです。その一つが『俺は選手っていう言葉は使わない』。選手って、選ばれた人でしょ。『俺はプレーヤーって言う』と。プレーヤーっていうのは、楽しむ人ですよね。一部の人が選ばれて、その人たちに必要以上のプレッシャーや責任を負わせるというスポーツのあり方や、そういう日本の側面を変えたい。スポーツはみんなが楽しんで、はつらつとやるものなのに、スポーツをやることによって重荷を背負っていくようなことになってしまう。『必死の形相でやるのは、スポーツではない』ということも、おっしゃっていました。平尾さんはラグビーからものを見ているんですけれども、そこに『日本人論』や『教育論』、『社会論』とか、そういうものが含まれていました」

語録から、もうひと言。

「プレーヤーにとって、特に日本のアスリートにとっては何が一番大事なのかというと、それは『判断力とコミュニケーション力だ』と。『逆に言うと、スポーツをやる意味というのは、それを養うところにあるんだ』とも話していました。かつてフィギュアスケートには、氷上に描かれた円などの図形に従って滑る規定(コンパルソリー)というのがありました。平尾さんは『日本のラグビーはメチャクチャきれい。ラグビーに規定があったら世界一だ」と言っていましたね。決められたことをきれいにやる能力や技術が高いから、相手がいない状況でのパス回しなんかは美しい。でも、ラグビーは相手とのインタラクション(相互作用)でやるスポーツで、状況に応じて局面が変わっていく。ラグビーにとって大切なことは、まず状況判断。ボールを持って走るのか、蹴るのか、モールを作るのか。それを高速に、的確に判断する。加えてチームメートとコミュニケーションを濃密にとって、状況判断や次の行動への展開のイメージを共有する。『自分はチームを作る時、ひたすら判断力とコミュニケーション力を磨くためのトレーニングをやる』と語っていました。平尾さんはそういうことを理路整然と、ものすごくコンセプシャル(概念)なレベルから具体的な作業のレベルまで、落とし込めていました」

新国立は「霞ヶ丘がエエに決まってる」

もうひとつ、鈴木が励まされた大切なひと言がある。

官僚から参院議員に転身していた鈴木は2011年9月までの2年間、文部科学副大臣を務めた。20年オリンピック・パラリンピックの東京招致計画で、メインスタジアムとする国立競技場の建て替えについての議論をリードした。

16年五輪の招致は、晴海方面にスタジアムを新設するという漠然とした計画でたたかい、それが東京の敗因の一つになったと指摘されていました。その反省を踏まえ、20年五輪の招致で私は文科省内の調整をして、具体的なメインスタジアム計画をまとめました。どこに建てるか、平尾さんに相談したら『そらお前、霞ヶ丘で造り直した方がエエに決まってるやんか』と。国立競技場は今ある場所で建て替えるべきだと、即答でした。都市計画決定を見直したり、反対派と調整を進めなくてはいけなかったりと、あの場所に建て直すためには、水面下で難しい話がいっぱいあったんです。だけど、『霞ヶ丘で造り直した方がエエ』という言葉に、後押しされました。あの言葉は、平尾さんらしい論理から出たものじゃありませんでしたね。霞ヶ丘の芝を踏んで戦い、満員のファンを誰よりも沸かせてきた人の体からというか、太ももから発せられたような力を感じました」

工事が進められている新国立競技場(2018年大みそか撮影)

神戸復興の象徴、総合型スポーツクラブを設立

スポーツで日本を変えるという2人の志は、2000年3月に実を結んでいる。平尾が長くラグビーと生活の本拠とした街であり、鈴木のふるさとでもある神戸市に「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構(SCIX=シックス)」が誕生した。スポーツの分野では全国で初めて、非営利組織(NPO)として経済企画庁(当時)から認可を受けた。

神戸製鋼のゼネラルマネジャー(GM)になっていた平尾と鈴木が、力を合わせて設立。発起人には、元プロテニスプレーヤーの沢松奈生子さん、サッカーJリーグのヴィッセル神戸に所属していた永島昭浩さんら、兵庫県ゆかりのスポーツ選手が名を連ねる。地元を愛する心が、平尾と鈴木の原動力だった。

「設立に向けて動き始めたのは、1995年に起きた阪神大震災の傷痕が、まだ癒えていない頃でした。私たちは『どうやって神戸を立ち直らせるのか』ということを意識しました。復興を目指す神戸市民の精神的支柱だった平尾さんが理事長に就き、無名だった私を副理事長に選んでくれたんです。神戸には『神戸フットボールクラブ』(1970年、日本初の社団法人クラブとして誕生)という伝統もあります。震災復興にあたって原点に返り、スポーツクラブの文化を再興しようということも、考えの中にありました」

SCIXを設立した頃、一緒にラグビーを楽しんだ後で。左端が平尾で、右端が鈴木=鈴木寛氏提供

SCIXに息づく平尾イズム

SCIXは、神戸製鋼で培われたラグビーを軸に、スポーツを通じた地域社会の形成を目指す。年代、性別、競技レベルを問わずに参加できるラグビー部を運営し、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールの指導者を対象にセミナーなども開催している。「どこにボールを運べば味方が有利になるのか」といった空間認識能力を養うために考案した「スペースボール」を、兵庫県内で広める活動にも力を入れている。2017年時点で国内に3580あり、全国の市町村の80%以上に設置されている「総合型地域スポーツクラブ」の先駆けでもある。

「企業と地域が、いいものを持ち寄ってつくったスポーツクラブで、サポートする会社の業種も横断的。それまでは『学校体育』だった日本のスポーツ界に、誰もが楽しめるコミュニティーを作るという理念を持ち込みました。平尾さんは同志社大卒業後、イギリスに留学して、ラグビーの名門クラブチームで活躍されました。私も通産省時代、Jリーグ発足の仕事に携わり、ドイツなどのスポーツクラブ文化をサッカーの側から見た経験があります。それぞれがヨーロッパで感じたことを、日本でも実現しようとしました」

グラウンドに出て、SCIXのメンバーにラグビーを教える平尾

SCIXの理念を説く「概要」にはこんな一節がある。「より多くのスポーツ遊人たちとネットワークし、コミュニケーションとコラボレーションを不断に深めていく」。縦の強固なつながりではなく、緩やかな横のつながりを想定している。

「通産省にいた頃、日本は携帯電話、モバイル、電子商取引といったインターネット政策の黎明期(れいめいき)で、私はその担当でした。私たちは、それまでのピラミッド型、中央集権型の社会構造が、インターネットによる自立分散協調型、ネットワーク型の社会に変わるということを直感しました。監督が指示を出す野球などでは、チームが中央集権型になりがちですが、ラグビーはまさに自立分散協調型です。試合が始まったら、監督は観客席で見ているわけですから、指示は出せない。プレーヤーが自分たちで状況判断して、自分たちでコミュニケーションしてプレーする。その競技を修めた達人・平尾誠二の言葉は、新たな社会、新たな組織論について、クリアなイメージを授けてくれました。私はよく、ラグビーアナロジー(ラグビーとの類似性)で世の中を考えますが、そのほとんどは平尾さんから受けたインスピレーションに基づきます。ものを考える時のOS(基本ソフト)の非常に大事な要素を、平尾さんから授かったのです」

それぞれに日本を担う才能を育む

人材育成。それは、鈴木が若い頃に思い定めたライフワークだ。通産官僚時代に山口県へ出向していた2年間、萩市にある松下村塾にたびたび足を運んだ。吉田松陰が開いた松下村塾は、幕末から明治時代の日本を先導した伊藤博文や高杉晋作、山県有朋らを輩出したことで知られる。

「山口にいた頃、松下村塾には20回くらい行きました。東京から離れた辺境で2年くらいしかやっていなかった、とても小さな塾が日本をつくった。無限の力を持っている若者を育てるというのは、すごいことだと実感し、東京に戻ってから1995年、通産官僚の傍ら「すずかんゼミ」をつくりました。若い人を集めて、塾というか、ひたすら語り明かすということを始めました」

平尾も日本ラグビー協会強化委員だった1996年、「平尾プロジェクト」を始めた。ラグビー未経験者を含め、将来の日本代表の発掘、育成を目指した。

「平尾さんとは、若者育成について話すことが多かったですね。私がすずかんゼミでやっていたのも、分野は違えど、日本代表を作るということでした。『平尾さんはラグビーの日本を担う人材を作ろうとしている。我々も、ITや教育の世界で日本代表を目指そう』と、私はゼミの参加者たちに説いたものです。そこからIT、ベンチャー、後に日本を代表する会社の社長、ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)など、多士済々な人材が育ってくれました」

盟友の政界転身も強力にサポート

2007年の参院選で、選挙運動に励む鈴木。再選を果たした

鈴木は2001年、参院選に立候補した。だが、30代の若い野党系新人には、後援会長がなかなか見つからなかった。そこへ助け舟を出したのが、人脈の広い平尾だった。

「ファッション業界で『BA-TSU』というブランドを設立し、表参道を拠点に一世を風靡(ふうび)した松本瑠樹さんと、平尾さんは家族ぐるみで仲良くされていました。『スズカンっていう僕の親友が、東京から参院選に出ることになったんです』と、私を紹介してくれました。松本さんに後援会長を引き受けていただけたおかげで、私は原宿駅前のおしゃれなスペースを、選挙事務所として借りられた。候補者の私以外、事務所内にネクタイをした人が1人もいないという、それまでの常識とは違う選挙戦を展開した末に、初当選できたんです」

W杯をきっかけに、見つめ直してもらいたい

平尾不在のワールドカップ(W杯)日本大会は、9月に開幕する。平尾の後押しを受け、鈴木が尽力した国立競技場の建て替えは、残念ながらW杯に間に合わなかった。

「そもそも日本がW杯を招致できたのは、日本のラグビーが世界で、それなりの存在感を示してきた上に、成り立っています。そんな歴史に、プレーヤーとしての、あるいは指導者としての平尾誠二の足跡は欠かせません。これをもう一度、みなさんに共有してほしい。さらに言うと、平尾さんはラグビーにとどまる人ではなく、ラグビーを通じて日本を変えていきたいと考えていました。哲学しながら行動するリーダーのあり方も、平尾さんに学ぶべきでしょう。平尾さんが何をしたのか、何をしたかったのかを、みんなが考えて行動に移すこと。そのきっかけになるW杯になってほしいし、そのための準備を私も続けていきたいと思います。ラグビーボールひとつで、みんながひとつになる体験を多くの人にしてほしいという思いも、平尾さんは持っていたはずですから」

(地の文は敬称略。読売新聞大阪本社・橋野薫、東京本社・込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやワールドカップ2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。

平尾 誠二(ひらお・せいじ)

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初(当時)の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。

同志社大2年の1982年、当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表キャップを獲得。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。引退後は、97年に日本代表監督就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。

2016年10月20日、胆管細胞がんのため、53歳の若さで亡くなった。

鈴木寛(すずき・ひろし)

1964年2月5日、兵庫県生まれ。東大教授、慶大教授、日本サッカー協会理事。灘中、灘高、東大を卒業して1986年、通産省(当時)に入省。資源エネルギー庁、国土庁、山口県庁、機械情報産業局などで勤務。 慶大SFC助教授を経て2001年の参院選で初当選。07年、2度目の当選を果たす。在任中、文部科学副大臣を2期務め、超党派スポーツ振興議連幹事長、東京オリンピック・パラリンピック招致議連事務局長などを歴任した。15~18年、文部科学大臣補佐官を4期務めた。

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