平尾誠二を語る(5・上)トライ取らせろ、じゃんけん負けろ~特異な勝負勘

土田雅人(56) サントリー酒類常務執行役員

10-6で、同志社大はリードしていた。だが、後半の半ば過ぎから、ほとんど自陣にくぎ付けだった。1985年1月6日、国立競技場で行われたラグビー大学選手権決勝の慶応大戦。4年生だったナンバー8の土田雅人は声を張り上げ、押され続けるフォワード陣を鼓舞していた。プレーが中断した時に、主将代行で同期生のセンター平尾誠二が近寄り、話しかけてきた。

「慶応にトライさせろ!」

土田は一瞬、耳を疑った。当時は1トライが4点。トライを許せば、同点に追いつかれてしまう。直後のゴールキックが決まれば、2点を勝ち越される。それなのに「トライをさせろ」とは?

1985年1月、国立競技場での大学選手権決勝で、グラウンドに飛びだす同志社大の平尾誠二(左手前)と土田雅人(右)ら。平尾の先制トライなどで慶応大に競り勝ち、3連覇を遂げた=岡村啓嗣撮影、平尾誠二著「生きつづける言葉」(PHP研究所)より

「最初は理解できなかった。でも、自分も間もなく『そうだな』と納得した。攻められ続けて、いらだつ味方が反則を繰り返す。しかも、満員の国立競技場がほとんど慶応コール。苦しくて、苦しくて、ちょっと耐えられなかった。だから、リセットしたかった。慶応のゴールキッカーの調子が良くなかったから、トライされても隅っこなら(直後のゴールキックが決まりにくい角度からになるので)、同点止まりだろうと。再開後はハーフウェーまで戻れるし、自陣から抜け出して攻めるには、ひとまずトライされるしかないと思った。でも、僕らがそんなことを思っていたというのに、慶応はトライを取れない。グラウンドの端でスクラムになった時、押し込んでスクラムトライをすればいいのに、それができないんですよね」

慶応の猛攻をしのいでいるうち、残り時間は2分となった。慶応はゴール前10メートル、右隅のスクラムからバックスに展開し、村井大次郎がゴール中央に飛び込んだ。同点トライで、この位置なら直後のゴールキックも簡単に入りそう。慶応勝利――と誰もが思った。しかし、レフェリーは村井に渡ったパスがスローフォワード(前方にパスを出す反則)だったとして、慶応のトライを認めなかった。命拾いした同志社は4点のリードを守り切り、史上初の大学選手権3連覇を達成した。

「大接戦の大詰めに、相手にトライを取らせようという発想をする選手を、平尾の他に僕は知らない。監督でも、そんな人はいないんじゃないかと思いますね」

土田は試合中、平尾の言葉を他の選手に伝えなかった。「言っても誰も理解できないし、リズムが崩れかねない」と感じたからだ。だが、土田には平尾の意図がのみ込めた。高校時代からいつも顔を突き合わせて話し合ってきた2人にしか踏み込めない領域が、そこには確かに存在した。

シャイなのに、オヤジ殺し

同志社大の練習場だった岩倉グラウンドでの試合出場選手へのジャージー授与式。平尾から受け取るのは、当時日本代表の大八木淳史。左端の赤いジャージー姿が土田=岡村啓嗣撮影

2人が出会ったのは、1980年夏、長野・菅平で行われた高校日本代表のメンバー選考合宿だった。京都・伏見工の平尾と秋田工の土田は、秋の2次合宿でも一緒に過ごした。

翌年1月、大阪・花園ラグビー場での全国高校大会準々決勝で、伏見工と秋田工は対戦した。伏見工が16-10で勝ち、土田の高校ラグビー生活は、平尾を中心とするチームとの試合で終わりを告げた。一方、平尾はこの一戦で左太ももを痛めたが、奮闘を続け、準決勝で岩手・黒沢尻工を、決勝で大阪工大高を破り、伏見工を全国初制覇に導いた。

「高校日本代表の合宿では、平尾がキャプテンで、僕が副キャプテンのような感じだったので、いろいろ話をするようになった。当時の平尾はシャイで、あまり話をしなかった。平尾に『どこの大学に行くんだ』って聞いたら、『同志社に行こうと思っている』と。僕は筑波大を狙っていた。でも、平尾が行くと言ったので、同志社が気になるようになって『一緒に行くか』と、志望を変えた。彼となら日本一を目指せる、という気持ちもあったと思う。同志社を受験する時は、平尾の京都の実家に1週間くらい泊めてもらった」

ちなみに平尾世代の高校日本代表は、伏見工の山口良治監督(当時)に率いられてオーストラリアに遠征し、7勝1敗の好成績を収めた。メンバーには平尾、土田とともに同志社大に進み、その後日本代表にも選ばれる東田哲也(大阪工大高)もいた。

「大学に入って平尾は非常に明るくなったけど、根本的にはシャイで、余計なことは言わない。言葉を大切にしてしゃべっているのが伝わった。一緒にいて面白いというか、こんな発想をするんだ、と感じることがよくあった。僕だけじゃなくて、大人たちも同じ魅力を感じていたのだろうと思う。18歳くらいなのに、平尾はいろんな大人と付き合いがあった。『オヤジ殺し』じゃないけど、恩師の山口先生から紹介された人たちと会話していた。大人の言葉を、全部吸収できていた。それを彼は自分の言葉にして話していた」

外すか使うか同期の主力、練習場脇で激論

左奥に比叡山を望む岩倉グラウンドで、学生時代に思いをはせる土田。「今、白いフェンスがある向こう側の辺りで、よく平尾と話し込みました」=2019年3月8日撮影

当時の同志社大は同志社高の岩倉グラウンド(京都市左京区)が練習場だった。部員が住む寮を出ると、道を1本挟んでグラウンドの出入り口があった。入ったところにベンチがあり、毎日の練習後、そこが2人の青空会議の場になった。

「4年生になると、次の試合に出るメンバーも、ゲームプランも、ほぼ僕ら2人が練習後に話し合って決めていた。部長の岡仁詩(ひとし)先生から『こういう選手もあるんじゃないか』という話はあったけど、最後は『お前らで決めてみい』と任せてくれていた。メンバーを決める時は、平尾と意見が違うこともありましたね」

青空会議が最も過熱したのは、シーズンの総決算となる大学選手権と、その優勝校が社会人王者に挑戦する日本選手権のメンバー編成だった。焦点は、東田の起用について。本調子ならば得点源として活躍するバックスの主力だが、そのシーズンはひざを傷め、回復途上にあった。

「平尾が『大学選手権では試合に出さない』って言い出した。東田よりも1学年下の清水剛志がいいと。ここ一発でトライを取れる良さがあるし、日本選手権で社会人を相手にした時のディフェンス面でも戦力になると言っていた。ちょっとびっくりしましたね。私は『いや、4年生で最後だし、(東田を)出そうよ』と。そこは激論しました。東田と僕と平尾は、一緒に飯を食いに行っていたし、飲みにも行くんです。でも、(平尾は東田を)外すんです」

結局、清水が大学選手権に出場。続いて、この年のチームがずっと目標にしていた「打倒・新日鉄釜石」をかけた日本選手権にも先発し、先制トライを挙げた。力及ばず、釜石に7連覇を許した試合ではある。だが、「清水にはトライを取れる良さがある」という平尾の読みは的中した。何かを予言するような平尾の慧眼(けいがん)。物事の見え方が違うのだろうか。

「国を代表するような選手なら、試合中に目の前のことは、よく見えています。でも平尾の場合は、ドローンじゃないけど、常に上空から見ているように感じられるんですよ。ラグビーでは攻撃を続けると、相手の防御が真ん中に寄ってくるので、必ず外が空いてくる。平尾の目に何がどう映っていたのかは分からないけれど、どのスペースが空いているかが、いつも分かっていた。しかも、立体的に見えていたようで、それらをよく覚えていました。この場面はこうだったと、試合の状況を全てではないけど、かなりの部分まで。ビデオがあまり発達していない時代だったのにね」

同志社大ラグビー部の同期3人組。(左から)平尾、東田、土田=土田さん提供

お前はもう、負けている~試合前の宣告

大学卒業後。土田はサントリーへ、平尾はイギリス留学を経て神戸製鋼に入り、社会人ラグビーではライバルとして戦った。後にV7を達成する神鋼の2連覇がかかった全国社会人大会決勝で、2人は両チームのキャプテンとして顔を合わせる。1990年1月8日、舞台は大阪・花園ラグビー場。土田の脳裏に焼きついて離れないのは、試合前に1対1で演じた「勝負」だ。

キックオフを取るか、陣地を選ぶか、今のようにコイントスではなく、レフェリーの前で両キャプテンがじゃんけんをして決めていた。かつての盟友の手の内を、土田は手に取るように分かっているつもりだった。

「平尾は試合前、グーしか出さない。アイツ、そういうところもあるんですよ。それで、僕もグーを出し続けた。ずーっと、あいこばっかり。とうとう、レフェリーから『いい加減にせえよ』って言われたんです。次のじゃんけんで、僕がパーを出して勝った。そうしたら、アイツが『これでお前、(きょうの試合には)負けたな』って、ニコッと笑って言いやがったんです。いやぁ、それを言うかよ、試合前に、と思いましたねえ」

土田がグーを出し続ける戦術を変えたからか、目の前の勝ちに飛びついたからか、意地を貫き通さなかったからか、はたまた2人だけの勝負に介入してきたレフェリーという他人の忠告に従ったからなのか。とにかく平尾は、どこかに土田の弱さを見いだしたのだろう。土田にとっては憎ったらしい予言通り、試合は神鋼が28-15で勝った。

「あの時、じゃんけんに勝って、僕はどうしたんだったかなあ。風上を取ったのか、キックオフを取ったのか、もう覚えていませんよ。後で『あの時、ずっとグーを出し続けたらどうなったかな』と平尾に尋ねたことがあります。『それやったらお前、負けろよ』と言われた。『パーで勝つなよ』と」

もしも土田がチョキを出して勝ちを譲る姿を見たら、また違う試合展開を感じ取っていたということなのか。ともあれ、当時26歳だった平尾誠二が、勝負に対する信念の一端を披露したじゃんけんには違いない。

打倒・親友、ついに成就

土田は選手時代、平尾の神戸製鋼に、結局一度も勝てなかった。けれども、神鋼の日本選手権連覇を7でストップしたのは、33歳の青年監督に立場を変えた土田が指揮したサントリーだ。

神戸製鋼V8の夢が消えた1996年1月の全国社会人大会決勝トーナメント1回戦。平尾の突破を、サントリーの清宮克幸がタックルで阻む

1996年1月28日、秩父宮ラグビー場での全国社会人大会決勝トーナメント1回戦。平尾も出場したこの試合は、20-20の引き分け。しかし、次戦に駒を進めたのは、トライ数で2-1と上回ったサントリーだった。神鋼は1回戦で姿を消し、新日鉄釜石を上回る8連覇の夢を絶たれた。

この年のサントリーは、東日本社会人大会で三洋電機、東芝府中、NECに敗れ、全国社会人大会の予選リーグでもトヨタ自動車に完敗していた。絶好調とは言いがたかったし、快進撃を演じていたわけでもなかった。

「でも僕は、全国社会人大会の決勝トーナメント1回戦の相手が神鋼に決まった瞬間に思ったんです。『神鋼はたぶん決勝を見ている。うちは1回戦で神鋼に勝てば、それでいい』と。神鋼戦のために合宿をして、戦略を考えて、やれることを全部やった。その結果、たまたま引き分けてトライ数で上回り、先に進めた。3点負けていた終盤、ラストワンプレーで今泉清(元日本代表)がキックを蹴った。『ああ、終わったな』と思ったら、ボールがこっち側に戻ってきた。その後、神鋼の反則があって、同点のペナルティーゴールを入れることができた。ずーっと平尾に勝ったことがなかったから、アイツが現役で出ている神鋼を止めたかった。それはもう、うれしかったですよ」

土田にとって、監督1年目のシーズンでもあった。実は開幕前、平尾に相談を持ちかけてもいた。

「日本のラグビーにプロの監督なんてなかった時代。僕は現役引退後、会社の仕事で生きていこうと考えて、しばらくチームを離れていた。だから、佐治信忠副社長(現・会長)から監督就任を命じられたものの、チーム事情がよくわからなかった。そこで、平尾に『サントリーのキャプテンを誰にしたらいいだろうか』と、意見を聞きに行った。彼はまだ神戸製鋼のプレーヤーだったので、ほかのチームの事情も分かっていると思って。サントリーは清宮克幸(後に監督として、早稲田大やヤマハ発動機を優勝に導く)が、ずっとキャプテンをやっていたけど、なかなか勝てずにいた。平尾は『永友洋司(元日本代表選手、現・キヤノン監督)が面白いんじゃないか。明るいし』と推してきた。『でも、まだ大学を出て2年目だぞ』と僕は反論したけど、『いや、年数は関係ない』と言われた。そんなことを、すし屋で話したのが、ついこの間のようです」

神鋼戦で同点ペナルティーゴールを決めたのは、平尾に推薦されて主将に就いた永友だった。

神鋼の8連覇を阻むペナルティーゴールを蹴り込むサントリーの永友

現役ラストマッチでも対戦、深まる絆

サントリーは、打倒・神鋼を果たした勢いに乗って全国社会人大会の決勝に進出、三洋電機と27-27で引き分け、両者初優勝となった。ここでもトライ数で4-3と上回り、日本選手権に進出して明治大を下し、初の日本一を勝ち取った。翌シーズンも選手・平尾と監督・土田は対戦する。全国社会人大会の予選リーグでぶつかり、17-17でまたしても引き分けた。平尾は前半途中に負傷退場し、これが現役最後の試合となった。

それから間もなく、平尾は34歳の若さで日本代表の監督に就任する。切っても切れない土田との絆は、その後もますます、深まっていく。(敬称略。読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやワールドカップ2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。

平尾 誠二(ひらお・せいじ)

現役引退を表明した1998年の記者会見で

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初(当時)の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。

同志社大2年の1982年、当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表キャップを獲得。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。引退後は、97年に日本代表監督就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。

2016年10月20日、胆管細胞がんのため、53歳の若さで亡くなった。

土田 雅人(つちだ・まさと)

1962年10月21日、秋田市生まれ。秋田工でラグビーを始め、3年で高校日本代表に選出される。同志社大に進み、2~4年で大学選手権3連覇を達成。85年、サントリーに入社し、89年度は主将として全国社会人大会準優勝。95年度は監督就任1年目で、日本選手権初優勝に導く。日本代表フォワードコーチを経て2000年、サントリー監督に復帰、日本選手権2連覇を果たした。03年にサントリー監督を退き、その後はゼネラルマネジャー、強化本部長としてチーム強化にあたった。15年、日本ラグビー協会理事に就任。現役時代のポジションはナンバー8。日本代表キャップ1。本業では、サントリーフーズ社長、サントリービバレッジソリューション社長を経て、4月からサントリー酒類常務執行役員。

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