平尾誠二を語る (5・下)洋魂和才、ジャパンに息づく平尾イズム

土田雅人(56) サントリー酒類常務執行役員

平尾誠二は1997年2月、史上最年少の34歳で日本代表監督に就任した。2か月ほど前、現役最後の試合に出場したばかりだった。正式に引退を表明したのは98年1月のことで、その11か月前からジャパンの指揮官を務めていたわけだ。

日本のラグビー人気は当時、低迷期に入っていた。きっかけは、1995年のワールドカップ(W杯)でニュージーランド代表に喫した17-145という記録的大敗だ。さらに、強豪国が軒並みプロ選手を認めていく中で、アマチュアリズムに固執した日本の強化は、大きく立ち遅れていた。危機的状況にあって、日本ラグビー協会が引っ張り出したのが、高校、大学、社会人を通じて日本の頂点を極め続ける選手生活を送ってきた平尾だ。99年W杯と、さらにその先をも見据えた「切り札」の登場とされた。

汚いぞ――と言いつつ、監督とコーチの間柄に

難役を引き受けるにあたり、平尾は日本協会に条件をつけた。同志社大時代の同期生で、社会人ラグビーでは好敵手だった土田雅人を、コーチに迎えることだった。2人は大阪で会い、一対一で話し合った。

「平尾は『土田をヘッドコーチかフォワードコーチにしたい。これを代表監督のオファーを受ける条件として、日本協会と話をしている。だから、お前が受けないと、俺は監督をやらない』と。そういう汚いこと言ってきたわけですよ、アイツ」

土田はすでに、サントリーの監督を2シーズン務め、チームを日本選手権初優勝にも導いていた。ただ、熱心で前途有望なビジネスマンでもあり、「これからは仕事をしたいから、もう監督を辞めさせてくれ」とサントリー本社に申し入れ、ラグビーを離れることになったばかり。いかに平尾の求めでも、簡単には首を縦に振れない立場にあった。

「平尾に言ってやりました。『分かった。お前がここで土下座したら、俺はやるよ』ってね。そうしたら、土下座はしませんでしたけど、『頼む』と頭を下げたんです。それで、受けました。まあ、彼もプレーヤーからコーチの経験もなく、いきなり監督ですからね。さすがにちょっとかわいそうだな、という気持ちもありました」

こうして、土田は日本代表のフォワードコーチに就いた。平尾からは、ムードメーカーとしても期待されていたという。

「僕は平尾からずっと『お前には俺の持っていないものがある』と言われ続けてきたんです。『きつい練習をさせられても、試合できつい場面になっても、いつもお前は明るいし、周りをそういう雰囲気にする。それは俺にはできない』と。そんなことを言っておいて、一番きついことを僕にやらせるんです。試合中、僕はウォーターボーイ(選手たちへの水運び)をやりながら、平尾の指示を選手に伝えていました。サントリーでは監督だったのに、ジャパンではウォーターボーイ……。試合前のウォーミングアップも、初めの頃はスーツを着て見ていたけれども、途中からはトレーニングウェアを着て、一緒に動いて選手を盛り上げていました。まあ、そういう役回りなんでしょうね」

日本代表の練習後、ピッチ脇で談笑する平尾誠二監督(左)と土田雅人コーチ(中央)ら=1998年10月、シンガポールで

ジョセフにバショップ 「チェリーブラックス」?

日本代表を作り上げるにあたって、平尾は印象的な造語を掲げた。

「和魂洋才という言葉がありますよね。平尾は『洋魂和才』だと言ったんです。『日本代表に今、魂はない。でも、外国人はそれを持っている』と」

日本のラグビー界には長らく、日の丸を背負って国際試合を戦うよりも、むしろ所属チームでの国内リーグ戦などで活躍することを重視する風潮があった。無理もない側面もあった。代表のステータスが低いのに、テストマッチで負ければメディアにたたかれる。選ばれても割に合わない代表チームになっていた。

そんな状況下、平尾監督は、ニュージーランド出身のアンドリュー・マコーミックに主将を任せた。ニュージーランド代表「オールブラックス」の元メンバーだったジェイミー・ジョセフ(現・日本代表ヘッドコーチ=HC、監督に相当)やグレアム・バショップに桜のジャージーを着せた。「チェリーブラックス」と揶揄(やゆ)されても、指揮官はぶれずに外国人の精鋭を選んだ。土田は、こう語る。

「本当にラグビーが好きで、ラグビーのために体を張って、代表のジャージーに恥じない、逃げないプレーをする選手。それは当時、日本人よりも外国人だった。彼らの持つ魂を、桜のジャージーに注入してもらって、そこに日本らしいラグビー、日本らしい文化を入れていこう。それが、僕らの狙いだった。マコーミックをキャプテンにした時は『どうして外国人なんだ』と、マスコミから批判された。けれども、マコーミックだったり、ジョセフだったりの力が、チームにはやはり必要だったんです」

ちなみに、その国の国籍がなくても代表選手になれるのは、ラグビーというスポーツの特色でもある。その国で①自身が生まれた②両親と祖父母のうち1人が生まれた③3年(2020年末以降は5年)以上にわたって継続的に居住している――という3条件のいずれかを満たせば、代表資格を得られる。ラグビー発祥国であるイギリスには昔から海外移住者が多く、英国人に移住先の国で代表に選ばれる道を開こうと、こうした制度が生まれたとされる。日本代表のW杯出場チームをみても、外国出身者は1987年の第1回大会から常に加わっていた。南アフリカから大金星を挙げた2015年の前回W杯に出場したチームも、登録メンバー31人のうち10人を外国出身者が占めた。今年のW杯日本大会でも、名前がカタカナの選手が何人もピッチを駆けるのは確実だ。数多く選び始めたのは平尾ジャパンだが、その方針にルール違反や道義的な問題は全くない。

マコーミック主将と平尾監督が並んだ記者会見(1998年10月)

ホワイトボードに示したチーム像

そんなメンバーを、平尾と土田は、どう導いたのか。相手チームの戦術や技量をビデオ映像で綿密に分析して試合に臨む側面が、当時はよく脚光を浴びた。だが、さらに大切な信念があったと、土田は考えている。

「相手がどういう戦い方をしてこようが、日本代表はこういうラグビーをするんだというイメージを、平尾は持っていた。ミーティングでは、イメージに合ったトライなどの映像を流し、得点の取り方や戦略を示した。そして、ホワイトボード上に、キーワードやイメージ図を書いてみせた。的確で、外国人選手にも分かりやすい説明だった。目指すチーム像を、はっきりと徹底的に伝えたうえで、選手をグラウンドに送り込んだ」

チームは1999年の初夏、「エプソンカップ・パシフィックリム」という国際大会で初優勝を飾る。サモア、トンガ、カナダ、米国を次々と破った。戦術の基盤としていたのが「リズムとテンポ」だ。フォワードが連続してラックを作り、そこから素早くボールを出す。バックスが多彩なパスで防御を突破し、トライにつなげる。その年の秋にW杯を控え、平尾が進めてきた強化策が一つの結果を出した。ところが――。

パシフィックリムの日本代表戦を観客席から見守る平尾監督(中央)。左端は土田コーチ=1997年5月、大阪・花園ラグビー場で

W杯の壁、テストマッチの自信砕ける

その年の10月、イギリスのウェールズを主会場とするW杯を迎えた。ファンや関係者の期待を一身に背負って乗り込んだ大勝負で、平尾ジャパンは、世界の壁にぶち当たった。

3日、サモアとの初戦。前半、フルバックの松田努(東芝府中)が左肩にけがをして退場したところから、チームの生命線であるリズムが狂った。激しい雨と風の中、日本のパス回しはスピードに乗れず、ミスから逆襲を浴びる。試合を通じて、日本は一つもトライを奪えず、相手には5トライを許した。9-43。5か月前のパシフィックリムで破ったサモアに、完敗を喫した。

「初戦が大事だった。残念ながら、日本は(先発の)15人までは良かったけれども、交代選手の層が薄かった。W杯では、登録メンバー30人の誰が出ても変わらないチームが勝つ。それを痛感した」

続くウェールズ戦は、エースの大畑大介(神戸製鋼)がタッチライン際を走って2人を振り切る美しいトライを決めるなど、見せ場もあった。だが、地元の強豪との実力差は大きく、結局9トライを許して敗れた。最後の試合もノートライでアルゼンチンに屈し、平尾監督と土田コーチのW杯は3戦全敗に終わった。

「パシフィックリムの時点で、チーム作りは(100点満点で)80点くらいまで進んだと思ったし、W杯への手応えも感じていた。けれども、テストマッチとW杯は違った。まだW杯を戦う力はなかった。サモアなんかは、パシフィックリムでやった時の選手たちとは違う、一つレベルが上のメンバーが出てきた。世界ではプロ化も始まっていて、日本とは力の差があった。相手が強かった」

W杯サモア戦、タックルを受ける日本の松田(1999年10月)

W杯ウェールズ戦で快走する日本の大畑。一矢を報いたトライは当時、現地でも注目された(1999年10月)

百年の計、道半ばの辞任

悔しいW杯を最後に、土田は日本代表コーチを退いた。そこで任務に区切りをつけると以前から決め、日本ラグビー協会や周囲に意思を伝えてあった。ただ、平尾には監督続投を勧めた。平尾自身も敗退直後に「3試合を通して課題が明確になり、ようやくスタート台に立ったところ。ここから始まるのかなという感じがする」と前向きな言葉を発していた。

「監督を引き受けた時に、平尾は『百年の計でやります』と言っていた。だから、僕は『それを守って、ぜひ監督を続けろよ』という話だけしました」

日本協会からも続投要請があり、平尾は引き続き代表を指揮した。だが、チームはその後も不振にあえぐ。W杯1年後の2000年秋、平尾ジャパンはアイルランドに遠征した。03年のW杯を見据えてチームの若返りを図ろうとした遠征だったが、テストマッチで9-78と大敗するなど、0勝3敗に終わってしまう。帰国後、平尾は監督辞任を表明した。

けがなどで代表を辞退する選手が相次ぎ、思うようなメンバー編成で臨めなかった遠征で負けが込んだのを機に身を引くのは、不本意でもあったはず。しかし、平尾は「世界は大きくて速くなっている。日本が突く『すき間』がなくなっている」と、悔しさを押し殺して淡々と語った。土田は惜しむ。

「平尾監督で、次のW杯も戦ってほしかった。W杯のプレッシャーと闘い、W杯で勝つラグビーには、経験が必要。2015年W杯で日本のHCだったエディー・ジョーンズ(現・イングランド代表HC)なんか、19年のW杯が指導者として4度目になりますからね」

トップリーグの種まき

日本選手権で神戸製鋼を下し、連覇を果たしたサントリーの土田監督(中央)=2002年2月、東京・秩父宮ラグビー場で

戦績こそ、ふるわなかった平尾ジャパン。しかし、日本ラグビーに多くの貴重な財産や教訓を残し、国内の社会人ラグビーの環境を大きく進化させる種もまいた。

「トップリーグ構想を作ったのは平尾です。実力の伯仲したチーム同士がぶつかる厳しい試合の数が足りないうちは、世界で勝てないからです。私も日本代表コーチに就任した時、選手の力の差が所属チームによってあまりに大きいことに驚いた。仕方なく、代表の練習を体力作りから始めた。でも、それは(本来なら所属チームでやるべきことで)スタート地点が違う。当時の社会人ラグビーは、東日本や関西のリーグ戦のあと、全国大会があるだけ。きつくて質の高い練習を日頃からしていたチームも、サントリーとか東芝府中とか神戸製鋼くらいで、下位チームはそうではなかった。平尾と僕は『トップ級のチームが毎年最低10試合か12試合する。これをやらないと強くならない』と日本協会に掛け合ったんです」

日本協会は、2002年に日本代表選手とのプロ契約を始め、翌2003年にトップリーグを開設した。強化策の結果がすぐさま表れるほどW杯は甘くなかったが、15年大会で南アフリカなどから3勝を挙げ、ようやく日本は世界レベルに近づいてきた。

一方、土田は代表コーチを離れた後の2000年、サントリーの監督に復帰。前シーズンの全国社会人大会で神戸製鋼に17-73と大敗するほど低迷していたチームを、就任1年目で日本選手権優勝に導くと、翌シーズンも連覇を飾った。代表で接した平尾の指導を自分なりに消化し、3シーズンの指揮に生かしていたという。

「以前サントリーを率いた時のような、相手を研究して試合ごとに戦い方を変えるチームを、僕は二度と作らないと誓った。平尾から教えられた通り、目指すチーム像を決めて、分かりやすく選手に伝えた。ただ、サントリーは若いチームだったから、ラグビーの型を決めた。攻撃のサインプレーは、1次攻撃から4次、5次くらいまで決めていた。平尾ジャパンは確か1次、2次までだった。『相手防御を崩した後は、自分たちで自由に、トライのとり方を考えればいい』というスタンスの平尾だったら、先の先まで細かく決める点については、ちょっと嫌がるかもしれないなと思いながらやっていましたけどね」

現代表の指揮官も「2人で選んだ」

試合後の記者会見でマイクを握る日本代表のジェイミー・ジョセフHCとリーチ・マイケル主将(2018年10月、大阪・花園ラグビー場で)

2019年1月、神戸市内に平尾の墓が建った。墓参りと、平尾の長男・昂大(こうた)さんと一杯酌み交わすため、土田は3月に関西を訪れた。その足で、同志社大時代の練習場だった岩倉グラウンド(京都市左京区)に33年ぶりで足を踏み入れ、平尾との思い出を振り返った。

代表監督を離れた後の平尾は、神戸製鋼のゼネラルマネジャー(GM)を長く続け、ラグビーW杯日本大会の組織委員会理事にも名を連ねた。2015年6月、日本ラグビー協会の理事に就任。すでにサントリーで系列会社の社長になっていた土田を、またしても誘ってきた。

「アイツが『俺は日本協会の理事をやる。お前もやれ』と声をかけてきた。『いや、俺は仕事で忙しい。無理だ』と言ったんだけど、結局やることになった」

そろって理事に就いてから、わずか3か月後、平尾の大病が判明した。W杯イングランド大会の開幕直前のことで、この大会で日本が挙げた3勝を、平尾は現地で見られなかった。それでも、毎月開かれる日本協会の理事会には、しばらく出席を続けた。

「理事会で会うたびに、彼、どんどんやせていくんです。16年の3月頃に『家族と旅に出るわ』と言って、しばらく音信不通になりました。そこからは、いろんなリハビリがありました。僕も彼の部屋へ行ったり、一緒に鹿児島へ治療に行ったりしました」

協会理事として、平尾が携わった最後の大仕事が、日本代表指揮官の人選だった。エディー・ジョーンズ前HCが、W杯イングランド大会後は続投しないと大会前に表明したため、後任選びが早い時期から本格化したのだ。土田は、こう言い切る。

「ジェイミー・ジョセフをHCに決めたのは、僕と平尾です。平尾と僕と、あと何人かを入れて、次の指揮官を話し合った。『日本のことをよく理解している』というのを必須条件として、僕らはリストアップしていった。やはりトニー・ブラウン(元パナソニック)は、コーチとして必要だという意見で一致した。そして、ジョセフは僕たちが率いた日本代表でも、サニックス(福岡県宗像市)でもプレーした。指導者として2人は、ハイランダーズ(ニュージーランド)をともに率いて、スーパーラグビー(南半球などの強豪クラブがそろうリーグ戦)で優勝している。いろんなことを考えて決めました」

日本代表は今、9月に開幕する地元開催のW杯で初の決勝トーナメント進出を目標としている。キックで相手の陣形を崩し、鋭い出足でボールを奪い、素早く展開する攻めを磨いている。昨年6月にはイタリアに快勝し、11月には敵地でのイングランド戦で前半をリードする健闘を見せ、ファンの期待は高まっている。

自身が人選に携わったジョセフHCが指揮し、ニュージーランド出身で日本国籍を取得したリーチ・マイケル(東芝)がキャプテンを務める。まさに洋魂和才を体現するチームの状況を、平尾は気にかけ続けていたという。

「平尾に会うと必ず『ジョセフやブラウンはどうや?』『あの選手はどうなっている?』という話になった。あんな病気をしているのに、神鋼だけじゃなくて日本のラグビーを、最後まですごく気にしていた」

もう一度、ジャパンの監督にしたかった…

ラグビーファンが根強く抱いていた希望を実現できなかったことが、土田は残念でならない。

「もう一度、平尾に代表監督をやってほしかった。コーチングを知っているし、日本サッカー協会でも理事をやったりして、いろんなマネジメントも知っている。ラグビー協会では、平尾がトップリーグ担当理事で、僕は日本代表の強化担当理事だった。だから最後に、言ってやったんです。『お前を代表監督にできるのは、俺だけだ。権限を発動するぞ』って。できなかったですけどね」

もしも土田が権限を使っていたら、平尾はきっと「お前がコーチを引き受けるなら、俺はやる」と返したに違いない。(文中敬称略。読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやワールドカップ2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。

平尾 誠二(ひらお・せいじ)

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初(当時)の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。

同志社大2年の1982年、当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表キャップを獲得。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。引退後は、97年に日本代表監督就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。

2016年10月20日、胆管細胞がんのため、53歳の若さで亡くなった。

学生時代の平尾(左)と土田=土田雅人さん提供

土田 雅人(つちだ・まさと)

1962年10月21日、秋田市生まれ。秋田工でラグビーを始め、3年で高校日本代表に選出される。同志社大に進み、2~4年で大学選手権3連覇を達成。85年、サントリーに入社し、89年度は主将として全国社会人大会準優勝。95年度は監督就任1年目で、日本選手権初優勝に導く。日本代表フォワードコーチを経て2000年、サントリー監督に復帰、日本選手権2連覇を果たした。03年にサントリー監督を退き、その後はゼネラルマネジャー、強化本部長としてチーム強化にあたった。15年、日本ラグビー協会理事に就任。現役時代のポジションはナンバー8。日本代表キャップ1。本業では、サントリーフーズ社長、サントリービバレッジソリューション社長を経て4月からサントリー酒類常務執行役員。

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