平尾誠二を語る(6)平成きっての勝負師「与えれば与えられる」絆

将棋・羽生善治九段(48)

1995年2月、東京の代々木公園で語り合う平尾誠二(左)と羽生善治=平尾誠二著「生きつづける言葉」(PHP研究所)より、岡村啓嗣撮影

芝の上で楕円球を踊らせるラガーマンと、盤上で駒を操る棋士。平尾誠二と羽生善治は、それぞれの分野を代表する勝負師として、平成時代(1989年1月~2019年4月)に名を刻む。2人はかつて、戦いの場の違いを超えて交流し、刺激を与え合っていた。出会いは1991年4月、平尾が28歳、羽生は弱冠20歳だった。

「平尾さんの存在はもちろん、前から知っていました。直接お会いしてみると、イメージ通りダンディーというか、スマートな方だなと。ラグビー選手としてだけでなく、人としての総合的な魅力や強さを持っておられた。ユーモアもあり、関西人らしくオチをつけた楽しい話で、笑わせてくれました」

2人が10代だった頃から撮り続ける写真家の岡村啓嗣に引き合わされた夜は、東京・青山通り沿いのスペイン料理店でテーブルを囲んだ。2軒目のパブは、3人で貸し切り状態となり、平尾は「大阪で生まれた女」を、羽生は「マスカレード」をカラオケで熱唱した。

8歳下の羽生は、すっかり打ち解け、平尾にこんな意見を述べた。

「与えれば、与えられるんです――。そんな話をしたことは、覚えています」

手の内を隠さず、前へ進んだ方がいい

平尾は当時、ラグビー日本代表の中心選手だった。国内で圧倒的に強かった神戸製鋼で培った勝つノウハウや戦術を、よそのチームからも多数の選手が集まっている日本代表に、一切隠さず注ぎ込んでもいいものか。ジャパンの勝利よりも所属する社会人チームの成績を重視する気風が、ラグビー界に支配的だった時代らしい迷いだった。それを平尾は、羽生に打ち明けた。

ノウハウを出し惜しまないことを勧めた羽生の言葉は、将棋界での実体験に裏打ちされたものだった。

羽生はその頃、佐藤康光や森内俊之といった同世代の新鋭とともに、「島研」に参加していた。少し上の世代に属する初代竜王・島朗(あきら)の周りに集う研究会だ。ライバル同士が会をつくって腕を磨くのは、当時の将棋界では異例で、「手の内を明かしたら対戦時に不利になるのでは」と疑問を投げかけられてもいた。それでも、新しい戦術を探求する島研メンバーの姿勢はぶれず、後のスター棋士たちが続々と巣立った。

「将棋の世界は、戦術がどんどん刷新、更新されていく。経験則として、自分が見つけた『いい手』も、実は発表のタイミングに恵まれただけで、すでにほかの誰かが見つけているということが多い。手の内をクローズにしても、どうせすぐに誰かが知ったり、発見したりすることになる。思考の堂々巡りにも陥りがち。それならば、手の内をすべて公開して(将棋界全体で)前に進んだ方がいいじゃないかと。まあ、ラグビーは団体競技ですから、チーム事情などで、どうしても話せないところはたくさんあるでしょう。将棋とは世界の違いがあるのかな、と感じました」

将棋流の考え方を、平尾はどう受け止めたのか。実際に代表チームに神戸製鋼のノウハウを注いだのか。今となっては分からない。ただ、その約半年後の1991年10月、日本代表は第2回ワールドカップ(W杯)でジンバブエを52―8で下した。平尾がキャプテンを務めたチームが、日本ラグビーにW杯初勝利という貴重な結果を残した。

日本一の夜、ラグビー版「ひとり感想戦」

1991年1月、日本選手権3連覇を達成してインタビューに答える神戸製鋼の平尾。右は大八木淳史

平尾がチームリーダーとして統率した神戸製鋼の日本選手権7連覇は、1989~95年のことだ。毎年1月15日に行われていた日本選手権後の夜、平尾は個人的に親しい人たちを招いて、祝勝会を催していた。

羽生は92年以降、その席の常連だった。会場は、東京・西新宿の京王プラザホテル45階にあった夜景の美しい名門バー「ポールスター」(2016年に閉店)。大学選手権優勝チームの挑戦を退けた、その日のゲームを振り返る平尾の言葉を、玉木正之や二宮清純といったジャーナリストらと一緒に聴いた。見事な解説に、羽生は毎年、舌を巻いた。

「ラグビーって、瞬間的にいろんなことが起こるものなのに、すごく幅広い視野で見ていて、さらにそれを正確に覚えているんです。自分の動きだけでなく、相手の動き、勝負の流れ、審判の笛、その日の風向きなんかも含めて。こういうプレーが何分にあって、こうだった、グラウンド上でこんなことを考えていたなどと、試合を解説してくれたんです。将棋で言うと『感想戦』ですけど、あそこまで全部の手を見通せている存在は平尾さんしかいませんから、『ひとり感想戦』みたいでした」

ラグビーを、詳しく明快に語る秘けつは、どこにあるのか。羽生は、ちょっと拍子抜けするような説明を平尾から聞かされたのを思い出す。

「自分はすごく目がいいんだ、って。視力がいいという単純な意味に聞こえました。『目がいいから遠くが見えるし、何が起こっているのかも分かる』と。でもね、あれはただ目がいいっていうだけじゃないですよ。それにプラスして、分析力とか視野の広さ。本質的な目の良さがあるから、全部が見えるんじゃないかなと思いました」

それにしても、膨大な棋譜と手筋を頭に入れ、盤上の指し手の全てを対局後に再現・検証できるのが棋士であり、その頂点に立つのが羽生ではないか。平尾の「ひとり感想戦」に、そこまで驚いたのはなぜだろう。将棋とラグビーの性質の違いに関係があると、羽生は説く。

「将棋の盤上には、基本的に偶然性がない。お互いに全部の情報が出ている戦いで、相手が持ち駒を何枚持っているかなどもわかる。だから、たとえば5手先までを構想すると、それが必然の手順ならば、必ずそうなるわけです。でもラグビーって、ボールを5回触ったり、動かしたりした時にどうなっているか、分からないじゃないですか。偶然性と不確実性の中でのゲームコントロールという、すごく難しい職人芸が、平尾さんのやっていたこと。きめ細かく説明しようとすると、言語化するのが難しいと思うんです」

畑違いの勝負師に、羽生は一目も二目も置いていた。数え切れない対局を経験し、将棋の歴史に通じ、各界との交友関係を広げた現在の羽生から見ても、平尾は特別な才能の持ち主と思えるという。

「棋士には、平尾さんみたいなタイプは、いないです。古今東西、自分が知る限り、いない。プレーヤーも、マネジャーも、キャプテンもできる、器用でマルチな人。偶然性があって何が起こるか分からないラグビーで、いろんなことを楽しまれていました。そういう人が、将棋界に入ってくるかも、疑問ですね。将棋はすごく専門的で、何かに特化していかないと仕方がない側面のある世界ですから。ほかの世界を探しても、平尾さんのようにマルチにやって全部スキルが高い人って、なかなかいませんよ」

1994年1月の日本選手権は、神戸製鋼が33―19で明大を下した。平尾(倒れている2人の右側)は試合後、羽生らとの祝勝会を開く。トライを決めたウィリアムス(手前左)は、91年の三洋電機との名勝負でも大活躍した

大逆転劇! 羽生マジック並み

1990年代の羽生は、多忙なスケジュールの合間を縫い、東京・秩父宮ラグビー場にたびたび足を運んで、観客席から試合を見た。

「今はどっちの方が押しているという程度に、ざっくりと見る感じですね。戦術的なこと、特にモールか何かの密集の中で起きていることなんか、全く分からないですから。ただ、現場に行くと選手たちの叫び声が聞こえる。スクラムを組む時なんかも、いろいろしゃべっているじゃないですか。それを聞いているのは面白いです」

平尾の出場した神戸製鋼の試合で、今も内容をはっきり覚えているのは、出会う前の91年1月8日にテレビ観戦した三洋電機戦だ。全国社会人大会3連覇を飾った決勝。劣勢だった神戸製鋼だが、イアン・ウィリアムスが後半ロスタイムに独走して同点トライを決める。細川隆弘が勝ち越しのゴールキックを蹴り込んで、大逆転劇を完結させた。

「ウィリアムスのトライですね。最後にゴールキックを決めて、ホイッスル。将棋には結構、逆転劇が多いのですが、ラグビーでもこんなことがあるんだなと。平尾さんによると、終始押されていた中で、唯一の可能性、勝つパターンを見いだそうとしていたそうです。三洋電機が勝って当然という試合でしたけど、一縷(いちる)の望みというか、ベストを尽くしてチャンスを待つ試合運びが、素晴らしいと思いました」

相手に傾いていた流れを一変させる絶妙の一手で数々の大一番を勝ち抜き、「羽生マジック」とうたわれてきた羽生の将棋と、通じるものがある勝ち方だったのかもしれない。

大勝負の盤上、傍らで平尾誠二は…

1995年、東京・赤坂プリンスホテルで行われた将棋の名人戦。羽生善治(左)と森下卓の勝負を、平尾(右端)が間近で観戦した=岡村啓嗣撮影

平尾が羽生の将棋を観戦したこともあった。1995年の名人戦。赤坂プリンスホテルでの森下卓八段との対局だ。将棋盤の脇に腰を下ろした平尾は、羽生の戦いを静かに見つめた。

「長い時間、見ていたんですよね。タイトル戦って、開始直後や休憩時間明けなどに、いろんな方が観戦に来られます。でも、静かで声も出せない感じなので、23分で退席される方が多い。平尾さんは10分くらい、いました。ほかの観戦者と違うな、と思った記憶があります」

羽生が決してラグビーに詳しくないのと同じように、平尾も戦術や勝負の分岐点が分かるほどの将棋通ではない。時間をかけて、一体何を観察したのか。平尾らとの対談を収めた羽生の著書「簡単に、単純に考える」(PHP研究所、2001年初版)から、この一幕を振り返った平尾の発言を引用する。

「一対一で勝負しているときに、羽生くんが何を考えているのか、目線をどこに合わせているのかに興味がありましたね。盤をぐっとにらんで読みを進めて、次に首を傾けてまた読みを深めている。それを見て、ああ、別の角度から状況の検討をしているなと思った。意外だったのは、対局している二人が実にマイペースで、お茶を飲んだり部屋を出ていったり……。もっと火花が散るような激しい緊張感の中で戦っているのかと思っていました」

羽生は今、こう話す。

「名人戦は持ち時間が9時間ずつと、かなり長丁場の対局です。『マックスの集中を続けるのは難しいので、ある程度のテンションは保ちつつ、それが長く持続できるような感じでやっているんです』というようなことを、答えた覚えがあります。平尾さんは『将棋を詳しくは分からないけれども、なんとなくこんな感じの流れではなかったですか』みたいなことも、おっしゃいました。それがすごく正確で、的を射ているんです。状況を見る点では、ラグビーも同じ。さすがでした」

与えれば与えられるという言葉は、羽生と平尾の間柄にも、そのまま当てはまりそうだ。2人は2000年代の初めまで、たびたび酒を酌み交わし、雑誌や書籍などでの対談も重ねた。

データと感覚、そして独創性

羽生(左)が谷川を破り、七冠を達成した1996年2月の王将戦。取り囲むカメラの数がフィーバーぶりを物語る

平成時代は、将棋もラグビーも、データの活用が大いに進んだ。

公式戦の棋譜は1995年頃からデータベース化され、棋士がパソコンで検索できるようになった。羽生はパソコンを駆使した研究の先駆者で、過去のデータを自身の将棋に生かしてきた。平尾は97年に日本代表監督に就くと、「テクニカル部門」を新設し、ビデオ分析で相手の攻撃パターンを割り出した。ただ、2人は対談などのたび、データを合理的に分類・整理する分析力には限界があるとの意見で一致した。そして、難局を打開するには「直感力」や「洞察力」を養うことが不可欠だと、口をそろえた。羽生は今、こう説明する。

「データは大事ですが、全てではありません。それはあくまで過去のことで、実際にやっている対局や試合は、初めて出会う場面です。事前に考えたことよりも、その時の雰囲気、流れ、自分自身が感じ取ったものを、大切にするべき。その場に応じた瞬間的な対応の方が、データよりも比重が大きいんです。そこに対局や試合の面白さ、難しさがあり、将棋とラグビーの共通点なのかなと思いますね」

データに頼りきることなく、研ぎ澄まされた感性と瞬時の判断で局面を打開していく。その能力を磨いた先に、勝負師たちの個性が表れる。

「平尾さんは、ただ普通にラグビーをやって勝てばいいということではなく、アイデアや独創性を、すごく大切にしていた。団体競技なので、一人一人の個性をいかに生かすかという点も、よく考えていた。言葉に普遍性があって、組織やチームをまとめるうえでの発言は、色あせない。さらに、勝負の世界でやっていくうえで、自分の信念を貫くことと周りに協調することとの、微妙なさじ加減みたいなものも、バランスがいいなと思った。自分にない考え方とか発想があったので、すごく刺激を受けた」

「私には、平尾さんほど強い思いがあったわけではないけど、自分なりにいろんなことをやってみようとは思っていた。将棋には、400年の長い歴史の中で作り上げられてきた『定跡』というセオリーがある。それはそれでいいけれども、このやり方が『本筋』だというのも、ちょっと違うんじゃないか。ルール上、指せる手はいっぱいある。王道とか本筋って言われている以外のものにも、実は優れたものや、まだ発見されていないものがたくさん潜んでいるんじゃないかなと」

個性や独創的なアイデアを大切にして、将棋とラグビーを変革していく志。そこにおいて、2人は通じ合い、響き合った。

令和元年のワールドカップ

 

大正生まれの大山康晴・十五世名人と羽生の1991年1月の対局

羽生(左)を破った2018年2月の対局を振り返る平成生まれのホープ藤井聡太

平尾が率いる神戸製鋼の日本選手権7連覇は、元号が昭和から平成に変わった直後に始まった偉業だった。指導者や神戸製鋼のゼネラルマネジャー、日本協会理事といった立場でも、平尾は最後までラグビーに尽くした。一方の羽生は平成元年に初タイトルとなる竜王を獲得してから、実に99期という史上最多のタイトル数を積み上げてきた。2人が輝いた平成時代は間もなく終わり、令和元年の日本ではラグビーのW杯が開催される。

「どんどん新しい才能が出てくるのは、ラグビーも将棋も同じ。私は明治生まれから大正、昭和、平成生まれの棋士まで、ひと通り対戦しているんです。令和生まれとは、どうかな。あと十数年、かかるかな」

平尾は令和生まれとの遭遇を果たせなかった。羽生はおそらく、大ベテランとして相まみえることになる。かつて平尾と築いたような「与えれば与えられる」関係を、孫のような世代の才能との間にも育み、羽生善治という棋士像をさらに更新していくのではないか。(読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやW杯2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。

平尾 誠二(ひらお・せいじ)

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。同志社大2年の1982年に当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表入り。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。97年に日本代表監督に就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。神戸製鋼ゼネラルマネジャー、日本ラグビー協会理事、日本サッカー協会理事、ラグビーW杯2019組織委員会理事なども歴任。2016年10月20日、胆管細胞がんのため、53歳の若さで亡くなった。

羽生善治(左、2019年4月)と平尾誠二(1989年1月)

羽生 善治(はぶ・よしはる)

1970年9月27日生まれ。小学2年から八王子将棋クラブに通い、6年で奨励会に入会。中学3年で四段。1989年、当時史上最年少の19歳で初タイトルとなる竜王を獲得。96年、王将を奪取し、史上初の七冠を達成。2017年には竜王通算7期を達成し、前人未到の永世七冠となる。18年、大山康晴十五世名人に次ぐ2人目の通算1400勝に到達。同年に将棋界では初めて国民栄誉賞を授与された。七大タイトル通算99期。18年の竜王戦で敗れ、27年ぶりで無冠になった。現在は九段を名乗る。

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