W杯日本大会を救った!ラグビー南ア戦大金星の秘話(番外編)鈴木寛の追想

今秋に迫ったラグビーの2019年ワールドカップ(W杯)は、日本で開かれなかったかもしれない――。ラグビーファンや関係者にとって、背筋が寒くなるようなシナリオが4年前、水面下で進行していた。メインスタジアムになるはずだった新国立競技場(東京)の完成が、建設計画を巡るゴタゴタでW杯に間に合わず、使えなくなったことを問題視され、南アフリカへの開催国変更案が検討されていたという。この大ピンチを見事に救ったのが、日本代表の演じた世紀の大番狂わせだ。ちょうどその頃にイギリスで開かれた前回W杯で、日本が南アフリカを破ったことで、開催国の変更案は影も形もなくなった。キックオフ直前まで、W杯関係者に対する謝罪と交渉に奔走した鈴木寛・元文部科学副大臣らが、当時の経緯を読売新聞オンラインの取材に明かした。(読売新聞オンライン・込山駿、橋野薫)

2015年W杯の南アフリカ戦で、ラインアウトのボールをとる日本代表のリーチマイケル主将。この試合の歴史的勝利には、W杯の日本開催を救う効果もあった(ロイター)

新国立の使用断念、統括団体が失望表明

2015年9月19日、イングランド南東部のリゾート地・ブライトン。鈴木氏は文部科学相補佐官として、また神奈川県参与として、足を踏み入れた。ラグビーの国際統括団体である「ワールドラグビー(WR)」幹部の怒りを静めるという、困難で重い使命を帯びていた。

約2か月前の7月17日、安倍晋三首相が苦渋の決断を発表した。新国立競技場(東京)でのラグビーW杯日本大会の開催は、断念せざるを得ない――。国際コンクール(コンペ)でいったん正式決定した新スタジアムのデザインは、工事費用の高騰などを理由に、白紙撤回された。新スタジアムは、建設計画が振り出しに戻って工期がずれ込んだため、2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでには完成するものの、19年秋のラグビーW杯には間に合わない見通しとなってしまった。

W杯日本大会では、新国立競技場が開幕戦と決勝の会場になるはずだった。日本政府の発表当日のうちに、WRから重い声明が出てきた。「新国立競技場が2019年ラグビーW杯に間に合わないという発表に、深く失望している。日本大会の組織委員会に詳細な説明を求めている」

日本側は、慌ただしく火消しに動いた。首相の〝断念〟から約2週間後には「決勝を横浜国際総合競技場で、開幕戦を東京スタジアムで行う」とする開催計画の変更案をWRに提示した。8月下旬の閣議後記者会見では、下村博文・文部科学相(当時)が「(大会運営面で)心配はないということを、政府側からしっかりと発信していく必要がある。新国立競技場での試合はなくなるが、政府も大会をバックアップして、必ず大成功するようにしっかりやっていくことを、WRの会長にお伝えしたい」と発言した。そのうえで、安倍首相がベルナール・ラパセWR会長(当時)宛ての親書をしたため、8月下旬にロンドンで開かれたWR理事会でラパセ会長の手元に届けられた。さらに下村文科相と決勝開催地の神奈川県知事も親書を用意し、15年9月に開幕するW杯イングランド大会でラパセ会長に渡すことになった。

使者を担ったのが、鈴木氏だ。安倍首相が改めてラパセ会長に向けて発した口頭のメッセージを託され、文科相と知事の親書も預かっていた。

スタジアム再建目的は、オリパラではなくラグビーだったのに

新国立競技場の工事現場。ラグビーW杯には間に合わず、使われないことになった

横浜国際総合競技場。新国立に代わり、ラグビーW杯の決勝会場になった

ラグビーW杯の日本開催は、2009年7月に決まった。南アフリカとイタリアを退けて開催権を獲得したもので、9回目にしてアジアでは初のW杯、ラグビーの長い伝統を持つ強豪国以外で開かれるのも初めてとなる。

新国立競技場のデザインを巡る国際コンペで、採用案がいったん決定したのは、12年11月のことだ。そして13年9月、東京が20年オリパラの開催地に決まる。それから約2年後の7月になって、新国立の採用案は白紙撤回されたのだった。一連の出来事の時系列を踏まえて、鈴木氏はこう説明する。

「国立競技場の建て直しは、当初から東京オリパラが目的だったと思われがちだが、ちょっと違う。なぜなら、建て直す計画が動き始めた時点で、ラグビーW杯2019は日本開催が決まっていたけれども、オリパラ2020の方は開催地が未定だった。つまり、国立競技場は『ラグビーW杯日本大会のために建て直すことになったスタジアム』にほかならない」

2001年から12年間、鈴木氏は参院議員として、主に教育やスポーツの分野で行政に携わった。特に2011年9月までの2年間は、文部科学副大臣。ラグビーW杯開催が決定した前後は、WRとの交渉役として、日本政府が大会財政や制度面の整備などで踏み込んだ支援を行うことを保証してきた。オリパラ2020の東京招致活動にも携わった。「国立競技場を建て直すことになっているので、東京は充実したメインスタジアムを持つオリパラ開催地といえる」と胸を張ってアピールできたことが、東京の勝因の一つになったという認識も持っている。

それだけに、新国立競技場がラグビーW杯に間に合わなくなった事態を、鈴木氏は深刻に受け止めた。「私たちにとって痛恨事だった」。建設計画を巡る一連のゴタゴタが報じられるようになって以来、WRから日本政府には「スタジアムは大丈夫か」という問い合わせが、何度となく寄せられていた。そのことも、鈴木氏はよく把握していたとあって、いっそう胸が痛んだ。

「WRの問い合わせに、日本側はいつも『大丈夫だ』と回答してきた。決して、ウソをついていたわけではない。安倍首相と下村文科相が最後の最後に(断念を)決断したのであって、その瞬間まで建設計画の変更はなく、W杯に間に合わせるという方針のままだったわけだから。ただ、簡単には収まらないWR側の立場も、理解できた」

懸命の謝罪も、収束には至らず

ラグビーW杯日本大会での新国立競技場使用断念などを発表する安倍首相(右)と、15年10月に文科相退任の記者会見場を後にする下村氏

W杯イングランド大会には、森喜朗・日本ラグビー協会名誉会長(当時)や嶋津昭・W杯日本大会組織委事務総長らが先着し、WR側に対する謝罪と新たな開催計画の説明を始めていた。

そこへ加わった鈴木氏は、まず開幕戦当日、ロンドンのホテルでラパセ会長と面会する。安倍首相のメッセージを伝えるとともに、下村文科相と神奈川県知事の親書を手渡した。そして翌日、日本代表のW杯初戦だった南アフリカ戦の行われるブライトンに朝から移動し、WR幹部と日本側による断続的な交渉を試合開始直前まで手伝った。

鈴木氏によると、首相と文科相からのメッセージは、新国立がW杯に間に合わなくなったことを謝り、日本政府が大会に対して協力を惜しまないことをラパセ会長に約束するものだった。神奈川県知事も、決勝開催地がW杯成功のために最善を尽くすことを誓っていた。鈴木氏は、持参した2002年サッカーW杯日韓大会決勝の写真もWR側に見せ、横浜国際総合競技場がサッカーW杯のメインスタジアムだった歴史と格式を備えていることを力説。徒歩圏にある新横浜駅が東京から新幹線で20分弱と、交通の便がいいことも強調した。

しかし、どんなに言葉を尽くしても、メインスタジアムの変更に対するWR側の激怒を完全に静めるまでには至らなかったという。

「サッカーのW杯や五輪に次ぐ、世界3番目のスポーツイベントがラグビーW杯であり、そんなラグビーに対する敬意を日本人は欠いている――との意見がWR内には根強いと、ラパセ会長から伝えられた。こうなると私には『おっしゃる通りで、本当に申し訳ありません』と平謝りするしかなかった。日本―南ア戦の開始前までにラパセ会長が示した姿勢は『日本側の謝罪と新たな開催計画については了解した。来週に開くWR執行部の会合で情報を共有したうえで、日本開催の是非を再議決する必要がある』というものだった」

インタビューに答える鈴木寛・元文科副大臣

南アとWRの反会長派、水面下で開催権奪取を画策

政府の謝罪でも収まらないほど、新国立競技場の問題にWRが腹を立てた背景を、もう少し説明しておこう。

4年に1度のW杯は、WRにとって、4年分の活動費を確保する重要な資金源だ。決勝に、8万5000人収容で計画された新国立競技場が使えず、7万2000人収容の横浜国際が会場になると、チケット収入は大きく減少する。そもそも収益の見通しが立ちにくいアジアでのW杯開催に対しては、ラグビーの統括団体内に懐疑的な声が絶えなかった。ラグビー人気が低くても人口が多いアジアで19年大会を行い、競技の普及と将来の収入源としての発展に期待する代わりに、15年大会は競技人気が高くて大規模な競技場を持つイングランドで開いてきっちり稼ぐ。そんな狙いもあって、WRはラパセ会長主導の下、15年大会と19年大会の開催地を2大会まとめて決めた。こうした経緯をふまえれば、チケット収入が当初計画よりも減る見通しになったのは、日本開催にとっては手痛いマイナス要素と言えた。

加えて、ラグビー関係者によると、WR内では不穏な動きが活発化していた。

フランス人のラパセ会長は改革派の進歩的な人物で、大きな功績が二つある。一つはオリンピックへの7人制ラグビー導入実現で、もう一つが19年W杯をラグビー伝統国ではない日本に持ってきたことだ。これに対し、保守的な英語圏のラグビー大国から選出された理事たちが主なメンバーとなり、WR内には反ラパセ派が形成されていた。

そんなWR内の力学と新国立競技場の問題に、南アフリカがつけ込もうとした。19年W杯の開催権を日本から横取りする「プランB」を水面下で画策し、反ラパセ派の理事たちにメールを送ったのだ。その内容は「W杯の決勝スタジアムが変更されるのは、WR執行部の失態ともいえる」などと現体制への批判を強めたうえで、「我々にはW杯を開催する用意がある」とアピールするものだったとされる。南アはW杯招致活動で、11年大会をニュージーランドに、19年大会を日本に持って行かれて、悔しさを募らせていた。南アのラグビー界には、プランBの号令が、自国の政府から掛かっていたとも言われている。

南アの動きで、WR内にはラパセ降ろしの風が吹き荒れ、W杯日本開催は大ピンチに陥った。プランBについては当時、各国で断片的に報道されてもいた。あまり詳しく報道されなかった日本でも、ラグビー界の幹部は深刻な情勢を把握し、危機感を強めていた。

ジャパンが快挙、不穏な動きは雲散霧消

森喜朗・元首相(左)と嶋津昭・W杯日本大会組織委事務総長

そんな空気の中で、英国時間の9月19日16時45分、日本―南アフリカの開始を告げるホイッスルが鳴り響いた。VIP席についた鈴木氏の周りでは、日本ラグビー協会の森名誉会長や岡村正会長、日本大会組織委の嶋津事務総長らも試合を見守った。ラパセ会長らWRの幹部はもちろん、対戦相手だった南アフリカ協会の幹部も顔をそろえていた。

「ひょっとしたら2019年W杯は、この人たちに持って行かれてしまうのかも、などと心配しながら、ハーフタイムに私は南ア協会の幹部らと会話をした。非常に、きまずい観戦環境だった。そんな中で、日本代表が、あの戦いを演じてくれた」

誰もが南アフリカの勝利を疑わない顔合わせだった。それまでのW杯7大会のうち2大会を制した優勝候補の南アフリカに対し、日本は通算で1勝だけという弱小国。しかし、いざ試合が始まると、日本はスピードに乗った攻撃と五郎丸歩の正確なキックで得点を重ねる。屈強な南アに一歩も引かず、白熱の大接戦になった。

3点を追う終了間際、日本は相手ゴール前左寄りで反則を受け、決まれば同点となるペナルティーゴール(PG)を蹴る権利を得た。ところが、リーチマイケル主将はPGではなくスクラムで試合を再開させるプレーを選択、強気にトライを狙いにいく。ここから、息の合った粘り強い連続攻撃で右に左に相手防御を揺さぶり続け、最後は途中出場のカーン・ヘスケスが左隅に飛び込んで逆転トライを決めた。日本34―32南アフリカ。ノーサイドと同時に、スタジアムは興奮のるつぼと化した。

ラグビー関係者によると、ラパセ会長は大変な喜びようで、森名誉会長や嶋津事務総長らと、観客席で握手や抱擁を繰り返した。日本ラグビー界幹部の携帯は、世界中のラグビー関係者からの祝福が殺到して、鳴りっぱなし。対照的に、南ア協会の幹部たちは言葉を失ったまま、スタジアムを逃げるように立ち去った。南ア協会のリーダーから森名誉会長に、ノーサイド精神に反した振る舞いをわびるメールが届いたという後日談もある。「あなたと握手もせずに帰ってしまった。取り乱して、申し訳なかった」と。

この試合を境に、WR内ではラパセ降ろしの風がピタリと吹きやみ、19年W杯の開催権横取りを狙った南アの動きも静まった。鈴木氏は、感慨深げに振り返る。

「試合翌日、WR幹部を含む世界ラグビー界の雰囲気は、ガラッと変わっていた。『まあ、日本開催でいこうか』という流れになった。翌週に開かれたWRの会合で、日本開催は無事に再議決された。いろんな意味で、本当に大きな勝利だった」

世界スポーツ史上屈指の大番狂わせとしてセンセーショナルに報じられ、語り継がれている南アフリカ戦。W杯の開催地変更を狙う動きを雲散霧消させた意味でも、きわめて価値の大きな勝利だ。こんな側面にも、そろそろスポットライトが当たってもいい。

W杯イングランド大会の閉幕後、WRのラパセ会長が、安倍首相に日本―南ア戦の使用球をプレゼントした(2015年11月、首相官邸で)

鈴木寛(すずき・ひろし)

1964年2月5日、兵庫県生まれ。東大教授、慶大教授、日本サッカー協会理事。東大を卒業して1986年、通産省(当時)に入省。資源エネルギー庁、機械情報産業局などで勤務。 慶大SFC助教授を経て2001年の参院選で初当選。07年、2度目の当選を果たす。在任中、文部科学副大臣を2期務め、超党派スポーツ振興議連幹事長、東京オリンピック・パラリンピック招致議連事務局長などを歴任した。15~18年、文部科学大臣補佐官を4期務めた。早世したレジェンド・平尾誠二氏(1963~2016年)と親交があるなど、ラグビー界とも縁深い。

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