平尾誠二を語る(7)失敗プロジェクトと銀のレガシー

高橋 銀太郎(35)(平尾プロジェクト1期生、元クボタ・スピアーズ副将)

新潟から1人で新幹線に乗って上京した12歳の少年は、集合時刻の2時間も前に、秩父宮ラグビー場に着いた。隣接する日本ラグビー協会の事務所に行き、職員に頼んで入り口の扉を開けてもらって、憧れのグラウンドに足を踏み入れた。1996年10月13日に行われた「平尾プロジェクト」の選考会。新潟・亀田町立亀田中の1年生だった高橋銀太郎は、最年少の参加者だった。

「ラグビー雑誌で、平尾プロジェクトがあるという記事を読んだのは、選考会の前の年、小学6年生の頃でした。選考会場の秩父宮は、日本ラグビーの聖地。それまでに試合を見に行ったことは何度かあったけど、グラウンドに立ったことはありませんでした。『秩父宮に入ってみたい』という一心で、父に『応募してもいいかな』と聞いてみました。ラグビー好きで平尾さんのファンだった父は『おう、やってみろよ』と。それで応募してみたんです」

平尾プロジェクト――。ミスターラグビーと呼ばれた平尾誠二が、選手生活の終わり頃、兼務していた日本代表強化委員という立場で発足させた育成事業だ。選考会前年のワールドカップ(W杯)での大敗をふまえ、長身や俊足など一芸に秀でた21歳以下の無名選手を発掘し、将来の日本代表に育てることが目的だった。第1回の選考会には80人が応募し、高橋ら44人が書類選考を通過。実技試験には、自衛官やソフトボール選手らラグビー未経験者を含む31人が参加した。

実技試験には当然、責任者たる平尾が登場。芝生の上に座った参加者たちに、プロジェクトの趣旨や試験の内容を説明した。スターの雰囲気に圧倒され、周りの参加者たちが身を硬くして話を聞く中、高橋は少年らしい行為に及ぶ。

「芝生をちぎって、ポケットに入れたんです。平尾さんが話している間、こっそりと、見つからないように。合格する自信なんて全くありませんでしたから、僕がここへ来る機会はもう二度とないだろうと思ったんですね。高校野球で、球児たちが甲子園の土を持って帰るような感覚じゃないでしょうか。意外にも、秩父宮にはその後何度も戻って来ることになりましたし、そもそも芝生をむしるのは良くないですけどね」

1996年11月23日、秩父宮ラグビー場での平尾プロジェクト第1回講習会で。12歳の最年少で参加した高橋銀太郎は、憧れの平尾誠二から指導を受けた

飛距離不足、帳消しの一言「10年後の僕を見て」

選考会の実技試験は、キッカー、ジャンパー、スプリンターに分けて実施された。高橋はキッカーで受験。プレースキックは、ハーフウェーライン上、中央の位置にボールを置いて、ゴールめがけて蹴るよう指示された。

「雲の上の存在だった平尾さんが、真横に立って見ているんです。当時はキックティーではなく、地面に砂を盛ってボールをセットしていました。すごく緊張して、蹴るまでに時間がかかってしまった。協会の人か誰かが、事前にボールをセットしておいてくれたらいいのに、と思いましたね」

合格基準は「飛距離50メートル以上」と設定されていた。

12歳の少年には、かなり高いハードルだ。しかも高橋は、小学3年からラグビースクールに通ったものの、中学にはラグビー部がなかったため、サッカー部員になっていた。受験時に地元で楕円球を扱う機会といえば、父がプレーしていた「新潟不惑」というおじさんたちがラグビーを楽しむチームの練習に加えてもらう程度。当時の新潟には、中学生が日常的にラグビーをプレーできる環境が、ほとんどなかった。

「30メートルくらいしか飛びませんでした。でも、平尾さんから『すごくきれいなフォームで、まっすぐ飛んだな』って言ってもらいました」

そんな実技試験が終わると、個人面談があった。平尾と、初めて1対1で言葉を交わした。

「緊張して、ほとんどしゃべれませんでした。ただ、応募者の中で一番幼かった僕に、平尾さんが『よく来てくれたな。こんなの大して緊張するところじゃないよ』と言ってくれたのは、覚えています。集合の2時間前に着いたことも『どれだけやる気なんだよ』と、いじられました」

「和ませてもらったおかげで、僕は一言だけ、平尾さんに伝えることができました。『10年後の僕を見てください』。ラグビーができない環境にいる自分には、現在ではなく、未来をアピールするしかないだろうと考えたんです。後に『銀ちゃん、あの言葉は良かったぞ』って、平尾さんにも言ってもらえました」

選考会でむしった芝を、高橋は新聞の切り抜きなどとともに、青いファイルケースで保管している

しっかりしたアピールと意気込みで、キックの飛距離不足を吹き飛ばした。しばらくして、新潟の高橋家に、平尾プロジェクト1期生の「特別枠」での合格通知が届く。「本当にウチの息子が合格しちゃったのか」と、両親は驚きを通り越して笑い出した。

秩父宮でむしった芝、合格通知、亡き父が熱心に集めてくれていた当時の新聞や雑誌の切り抜き。思い出の品々を、高橋は青いファイルケースにまとめて、今も大切に保管している。

グースステップ in 菅平

1期生を集めた講習会は、実技試験の約1か月後に始まった。高橋以外の合格者は、身長2メートルを超える大学生ら5人。その後しばらく、講習会は2、3か月に1度ほどのペースで実施された。

平尾から直接教わることもあれば、日本代表や高校日本代表などの合宿に特別参加して練習を見学したうえで、そのチームの指導者から教わることもあった。次の講習会までにやるべき練習メニューを渡されたことはない。集まった時に習ったことを持ち帰って、それぞれが自由に自分を磨けばいい、という指導スタイルだった。

平尾に受けた技術指導で、高橋が今も覚えている場面がある。グースステップだ。1991年の第2回ワールドカップ(W杯)で優勝した豪州代表の名選手デビッド・キャンピージが得意とした、足を振り上げて相手を幻惑するステップである。1997年7月、長野県の菅平高原。約半年前に日本代表の監督に就任していた平尾は、ジャパンの代表候補合宿にプロジェクト生を呼び寄せ、チーム練習が終わった後のグラウンドに集合させた。

「『グースステップやるぞ』って、グラウンドの端っこで手本を見せてくれました。平尾さんがやると、格好いい。まず、たたずまいが格好いい。動くと、それがまた格好いい。『ちょっとまねできねえな』って思いながら、見ていましたね。ほかの受講生も、ボーッと見とれていました。平尾さんは『そんなに見るなよ』みたいな感じで、なんか恥ずかしそうでしたけど」

「平尾さんが教えてくれるのは、基礎的なことではなく、面白いプレーや楽しいと思えることばかりでした。世界のトップ選手がやるステップを踏めるようになったら、楽しいって思うじゃないですか。グースステップは、芝生の上にコーンを置いて『右足で踏んだら、振り上げて、下ろす位置は――』というふうに教わりました。ただ、僕にはできませんでしたね。大人になって、やってみたことがあったんですけど、後でビデオを見たら、全然使えていませんでした……」

この菅平合宿では、当時の日本代表選手たちに、何かと面倒をみてもらった楽しい思い出もある。特に当時25歳でバックスの中心選手だった元木由記雄は、キックやパスの基本技術をグラウンドで手取り足取り指導するばかりか、夜になると「銀ちゃん、行こうか。うまいもの食わせてやるよ」と、宿舎から連れ出してくれた。元木や増保輝則ら、平尾ジャパンの主力メンバーたちが一杯酌み交わしてラグビーを語り合う傍らで、高橋少年は話に耳をそばだてつつ、ジュースを飲んでモリモリ食べた。

1998年夏、菅平での日本代表合宿で、平尾監督(中央)が元木(左端)らを指導。前年の代表候補合宿には、プロジェクト生たちも特別参加していた

金言「逆にプラスだ、いろんなスポーツを経験できる」

合宿参加や講習会のほか、高橋は学期末になると、平尾の面談も受けていた。

「学校の通知表を平尾さんに見せて、話をするんです。体育は一番上の評価だったので、それは褒められました。勉強のことを厳しく注意されるわけでは、全然ないんですけれども『数学とかの勉強も面白いぞ。やっておけば、いろんなことに通じるよ』という話は、してもらいました。僕としては、お父さんと話しているような感覚でした」

ラグビー選手はラグビーだけやっていればいい、という考えを、平尾は持たせたくなかったのだろう。面談や講習会で平尾と話す機会があると、高橋は何度となく「いろんなことをやりなさい」と言い聞かされた。とりわけ深く胸に刻まれたのは、地元の新潟に中学生がラグビーをする環境が全くないことを嘆いた時の返答だ。

「平尾さんは『いいじゃないか。いろんなことができる。ラグビーができない環境だからこそ、できることがあるだろう』と、言ってくれたんです。『みんながラグビーに夢中な時に、お前はバスケだとかサッカーだとかいろんなスポーツをやれる。それでラグビーに戻ってきた時には、お前の方がいっぱい経験を持っているんだぞ』って。僕には、ラグビーをやっている子たちに後れをとっているというマイナスイメージがあったんです。それを全部、プラスにひっくり返されちゃいました。すごい人だな、と思いましたね」

付け加えると、京都生まれで神戸に暮らす関西人は、金言を授けただけでは決して、会話を終えようとしなかった。

「まじめに『いろんなことをやってみろ』という話をした後で、『恋愛もな』みたいに、ちょっと笑わせるオチを一言つけるんです。『それはダメなんじゃないですか、平尾さん』みたいな感じで終わる会話ばっかりでしたね」

何の知らせもなく、指導終了

講習会で平尾を中心に、横一列に並んだ平尾プロジェクト1期生の6人

日本ラグビー協会に保管されている平尾プロジェクトの事業報告書によると、選考会は1997年7月にも行われ、第2期生として7人の中高生が合格した。プロジェクト生は計13人に増えた。96、97年度には講習会や代表合宿派遣といった指導が計12回、実施されている。

だが、1998年1月の大学選手権と社会人選手権の準決勝観戦を最後に、記録はプツリと途絶えてしまう。97年度限りで事業は終了したのか、それとも中断したのか。13人は平尾プロジェクトを「修了した」と言っていいのか。そして98年度は、どうして指導を行わないのか。そうした記述が、事業報告書には見当たらない。

高橋は振り返る。

「中学3年の頃(98年度)には、プロジェクトは自然消滅していました。終わったという知らせもないまま、『終わったんじゃないかな』みたいな感じで、誰に聞いても分かりません。プロジェクトの責任者の一人だった先生に聞いても、『途中でなぁ』とかなんとか、言葉を濁すんです」

活動内容も、ただ現場に送り込まれるだけで満足な指導を受けられない合宿派遣や観戦が、回を重ねるごとに多くなったとも感じていた。プロジェクト生の一人として、こんな思いを抱いている。

「もっと、日本協会に、ちゃんとやってほしかったですね。平尾プロジェクトが何を目的にしてやっていたのか、僕にはあまり意図が分からなかった。日本代表を育成するのが目的だったのなら、そこまでのプロセスを作ってほしかったと、すごく思います。大きな声では言えませんが……、やっぱり失敗だったんじゃないですかね」

師弟の結びつきは消えず

ボールを持って、力強く走る東農大二高時代の高橋(2001年11月撮影)

プロジェクトは消滅しても、平尾と高橋の交流は続いた。

高橋は中学卒業後、新潟を飛び出して群馬の強豪・東農大二高に進み、本格的にラグビーを始める。入学すると、「平尾誠二に見込まれた逸材」という周囲の視線にさらされた。まだ自分がどんなタイプの選手なのかも見当がつかないうちに、先輩から「メチャクチャうまいんだろうな」という目で見られた。そのプレッシャーは大きかった。

「その悩みも、平尾さんに打ち明けたことがあります。『それでいいじゃん、別に。名前が売れているんだから。これから実力をつけて、名前に追いつけばいい』って。すごくポジティブに励ましてくれました」

高校時代は、主にスタンドオフとフルバックという2つのポジションでプレー。左腕を3度骨折して落ち込んだ時期もあったが、大阪・花園ラグビー場で年末年始に行われる全国高校選手権に2大会出場することができた。花園での最高成績はベスト16だったが、埼玉県で開催される春の全国選抜大会では3年時に8強まで勝ち進んでいる。高校時代はラグビー選手としての節目を迎えると、平尾に電話で報告していた。

選手生命のピンチ、よみがえる師の教え

トップリーグのクボタで活躍した高橋(中央)

早稲田大に進学して1年生の時、高橋に選手生命の危機が訪れた。

19歳以下(U19)日本代表のセレクション合宿で負った、左すねの開放骨折だ。骨の洗浄の手術、骨を外から固める手術、中から固める手術と、次から次へと計7度もの手術を受けた。「ここまで足をぐちゃぐちゃにされたら、もうラグビーはできないだろうな」と、絶望感に襲われた。

どうにか気持ちをつなぎとめてリハビリに耐え、大学2年生の秋頃から、練習に復帰できた。だが、以前のような走りのスピードが戻らない。そのうえ、強豪・早大には、高橋が狙うポジションに強力なライバルがいた。スタンドオフには啓光学園(現常翔啓光学園)時代にチームを高校日本一に導いた曽我部佳憲。フルバックには後に日本代表としてW杯で大活躍する五郎丸歩。試合に出場する自分の姿を、なかなか思い描けない状況だった。

悶々とする高橋の脳裏によみがえってきたのは、平尾の教えだ。いろんなことをやりなさい――。改めて心のよりどころとしてプレーするうち、少しずつ活路が見えてきた。

「いろんなポジションをやろうという気持ちが芽生えました。スクラムハーフ以外、バックスの全ポジションをやりました。誰が抜けても入れる位置にいて、チームに絡んでいこうとしたんです。自分のスピードが戻らない分、仲間を生かすプレーに目覚めることもできました」

献身性とさまざまなポジションをこなせる強みは、早大のカリスマ監督・清宮克幸にも認められた。4年生のシーズンは、途中出場などで、ほとんどの公式戦に出場し、大学選手権優勝に貢献できた。

「1年生でケガをした時は、平尾さんに合わせる顔がない気がして、連絡できませんでした。このまま、ラグビーからフェードアウトしていこうかなとも思っていたんです。でも、4年生で早大の試合に出始めた頃、平尾さんとラグビー場で顔を合わせ、話す機会があって『よく戻ってきたな。ラグビー、やめていなかったんだな』と言われました。僕からはお知らせしなかったのに、骨折したことを知っていて、そっと気にかけてくれていたんです。すごくうれしかったですね」

早大を2006年に卒業後は、トップリーグのクボタ・スピアーズで活躍した。12~15年には副将を務めるなど、ここでも多くのポジションをこなせる長所を生かしてチームを支えた。

平尾がゼネラルマネジャー(GM)などを務めていた強豪・神戸製鋼とも、たびたび対戦した。一泡吹かせて恩返し、という場面はなかなか作れなかったものの、試合会場で顔を合わせるたびに、いつも明るい笑顔で接してもらった。

「『銀ちゃんも、もう社会人か』『クボタに入ったな。敵だな』って、お会いするたびに、平尾さんから言われましたね。『調子どうだ』とか『ケガしてないか』と、気にかけてもいただきました。プレーについてのアドバイス? いや、それはありませんでしたよ。『敵』なんで」

「僕にきっかけを与えてくれたのは、プロジェクトでの平尾さんとの出会いです。それがなかったら、そのまま新潟にいたかもわからない。僕の視野を広げてくれた恩師。おかげさまで、2016年に引退するまで、ケガのどん底も優勝の喜びも知っている、いいラグビー人生を送ることができました」

歯科医、議員、カメラマン…輝ける人材の宝庫

クボタ東京本社でインタビューに答える高橋(2019年5月10日)

将来の日本代表育成を目的に掲げていた平尾プロジェクトだが、代表までたどり着いた選手は、高橋を含めて一人もいない。ただ、様々な分野で活躍する人材を輩出している。

ラグビーの分析担当、歯科医師、元アナウンサーの東京都議会議員、NHK・大河ドラマのカメラマン……。ひょっとすると平尾は、ラグビーで力を発揮できそうな選手を選んだのではなく、各界で活躍できるユニークな人材を見抜いて合格させ、ラグビー体験を通じて彼らの人間性を磨こうとしていたのではないか、などとも想像したくなってしまう。高橋は、こう言う。

「スポーツ界にはいろんな才能を持った人材がいて、その人たちを集めればチームとして成り立たせることができると、教えてもらった気がします。ラグビーしかできないのではなくて、バランスのいい人間、いろんな才能を持った人間は、いい人材として活躍していくというイメージです。(人選そのものが)枠にとらわれないで何でもやれという、平尾さんのメッセージだったのかな」

高橋は引退後もクボタの社員として、東京・京橋のオフィスで働いている。現在の部署では、ポンプやバルブなど、水にかかわる製品を途上国に普及させる事業を担当。平尾に授かったポジティブな精神は、高橋に根付き、ビジネスマンとしての力も生んでいる。

「入社して10年間ラグビーをやってきたので、なかなか仕事が追いつかない。ビジネスの経験が少ないのが、弱みだと思っています。でも、10年間やれなかった分、新しい見方ができるとか、柔軟な発想でいろんなことに取り組めるとか、前向きにもとらえられます。弱みは決してマイナスではなくて、プラスにもなる。これは、平尾さんから教えてもらったことです」

一芸に秀でた人材を集めた平尾プロジェクトの根本には「弱みの克服よりも強みを生かせ」という思想があったが、それに通じることを高橋は、平尾以外に影響を受けた指導者からも教わってきた。早大時代の清宮監督。クボタでは元豪州代表のナンバー8、トウタイ・ケフだ。

「清宮さんは『弱みなんてどうでもいい。ラグビーは15人もいるんだから、誰かがカバーすればいいだろ』。ケフからも『タックルの弱みを克服する時間があったら、キックや司令塔としてのプレーなど、強みを伸ばしてチームのためになれ』と言われました」

最近は、仕事で訪れるミャンマーや故郷の新潟で、子どもたちにラグビーを教える機会もしばしば。そんな時、高橋は平尾たち恩師の言葉を継承している。

「『ポジティブにとらえようよ』と言っています。『いろんなことをやりなさい』とも。日本は弱みを克服する文化で、100点の能力と20点の能力があったら、20点の方を上げる努力をしようとする思考じゃないですか。でも僕は『100点の方を伸ばしたらいいよ』と、子どもたちに伝えています」

平尾プロジェクト自体は、目的を果たせずに終わった。しかし、偶然かもしれないが、レガシー(遺産)として多様な人材を世に送り出した実績は認められていい。高橋のように、平尾から授かった思想を次世代に受け継ぐ受講生も育んだ。他競技から人材を集める手法は現在、7人制ラグビーを始め、様々な競技で活用され、定着してきた。23年前、平尾が目指したことは、時代の先を行きすぎていたのかもしれない。(本文中敬称略。読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやW杯2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。

明るく笑う平尾(1995年撮影)

平尾 誠二(ひらお・せいじ)

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手としてチームを史上初(当時)の大学選手権3連覇に導いた。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼へ。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。同志社大2年の1982年に当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表入り。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。97年に日本代表監督就任、99年のW杯は監督として日本代表を率いた。神戸製鋼ゼネラルマネジャー、日本ラグビー協会理事、日本サッカー協会理事、ラグビーW杯2019組織委員会理事なども歴任。2016年10月20日、胆管細胞がんのため、53歳の若さで亡くなった。

高橋 銀太郎(たかはし・ぎんたろう)

1984年2月3日生まれ。新潟・亀田小3年でラグビーを始める。亀田中1年で平尾プロジェクト1期生に合格。群馬・東農大二高を経て早大へ。4年で全国大学選手権優勝、続く日本選手権ではトヨタ自動車を破って4強入り。2006年、クボタ入社。バックスの全ポジションをこなす万能型の選手として活躍し、12~15年は副将を務めた。16年に現役引退。身長体重は、平尾プロジェクト合格時が1メートル50、45キロで、クボタ時代が1メートル74、82キロ。現在は環境海外推進部営業グループ担当課長。一女の父。

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