平尾誠二を語る(8)スペースを突け! V7への師弟連係

藪木宏之(53)(元神戸製鋼スタンドオフ、日本ラグビー協会広報部長)

神戸製鋼の神戸製鉄所経理部で、社内電話が鳴った。1988年11月22日、火曜日。受話器を取った藪木宏之は、平尾誠二に、こう言われた。「きょう、早くグラウンドに来られるか?」

上司の許可を得て午後4時半頃、神戸市の埋め立て地にある灘浜グラウンドに着いた。22歳のラグビー部ルーキーだった藪木は、クラブハウスの2階にあった幹部部屋に、おずおずと足を踏み入れた。すると、待ち構えていた25歳の平尾主将から「着替えてグラウンドに出よか」と誘われた。

グラウンドでは「タッチキックを蹴れ」と指示された。2人きりのラグビー場に、楕円球の弾む音だけが響いた。

「平尾さんがパスをして、私が蹴る。それを10分くらい繰り返したら、『俺とあんまり変わらんな。分かった、エエわ』って、それだけ。どういう理由でキックをやったのかも、何が『俺と変わらない』のかも、分からない。何の説明もないから。でも、そこがあの人らしい。いつも突然なんです。何かをやる時、平尾さんの頭の中には、もう構想があるんですけど、表には出さない。後になってから、いろんなことが分かるんです」

藪木は、スクラムハーフとして山口県の大津高3年で全国大会4強入り。明治大に進んだが、同じポジションに同年代のライバルが多数集まっていて、大学4年間の公式戦出場はわずか2試合にとどまった。神戸製鋼でもベテランの萩本光威がレギュラーの座をがっちり握っており、その年のシーズン序盤は控え選手だった。

2人きりのキック練習の後、全体練習があった。週末に試合がある場合、火曜日はメンバー発表の日で、藪木はそれまでの試合と同様、萩本の控えとして名前を呼ばれた。

日本ラグビー協会には、1989年に日本代表がスコットランド代表を破った後で胴上げされる平尾誠二の写真が飾ってある。その前で、思い出を語る藪木宏之(2019年6月20日、込山駿撮影)

10番転向、滑り出し快調

キック練習の意味は、1週間後に明らかになった。

関西社会人リーグの大一番、トヨタ自動車戦を控えた火曜日。また同じように平尾からの電話が来た。「きょうも、早く来られるか」。クラブハウスの2階に上がると、今度は突然の通告を受けた。「今週のトヨタ戦、お前が10番で出ろ」

当時の神戸製鋼は、監督やヘッドコーチといった指導者がグラウンド外にはおらず、主将を中心に選手がチームを運営する体制だった。選手起用については、主将の平尾の意見がほぼ通った。

ラグビーのポジション図。野球やサッカーと違い、背番号の割り当ては選手ごとではなく、各ポジションに番号が決まっている

背番号9のスクラムハーフと背番号10のスタンドオフは「ハーフ団」と呼ばれ、ゲームメークの中心となる。ただ、試合での役割は大きく異なる。藪木は高校、大学、そして入社後も、9番一筋だった。スタンドオフが担う大切な役割のひとつに、陣地を挽回するタッチキックがあり、その能力を平尾は1週間前に試したのだった。藪木は大事な試合で、それまで平尾が背負っていた10番のジャージーを着ることになった。

「驚きましたけど、喜びが大きかったです。ポジションが変わることよりも、素晴らしいプレーヤーがたくさんいる神戸製鋼で、試合に出られる喜びの方が。大学でも、私はほとんど試合に出ていなかったですから」

背番号12のセンターに回った平尾からは、こんなアドバイスを受けた。「好きにやれ。前が空いていたら走ったらいいし、パスしたいと思ったらパスしてこい。あとは俺がなんとかする」。ごくシンプルな頼もしい言葉で、藪木の緊張感を吹き飛ばしてくれた。

「実際にスタンドオフの位置に立って感じたのは『ラグビー場がこんなに広く、よく見えるんだ』ということ。フォワードの周りしか見ないスクラムハーフとは、見える景色がまったく違いました。これだけ広いフィールドを自由に走っていいんだったら、やれるんじゃないかという気になりましたね」

テストされたタッチキックをほとんど使わず、80分間伸び伸びと走り回った10番・藪木。43-18の快勝でデビュー戦を飾ると、その後も出場機会を得た。チームは関西社会人リーグを2位で終え、初優勝を目指す全国社会人大会に駒を進めた。

偉業の幕開け、語られなかった転向理由

このシーズンから主将に就いた平尾は、関西社会人リーグで、フォワードの中心選手だった大八木淳史や大西一平を、それまでと違うポジションで起用し、試行錯誤していた。藪木の10番も、その一環だろうとみなされていた。

しかし、全国大会前のミーティングで、平尾は周囲に宣言した。「今年は藪木と心中ですわ」

「その時まで『ほんとに(10番が)藪木でいいんか?』という雰囲気が、チーム内には確かにあったんです。平尾さんのあの言葉があったから、チームメートに納得してもらえました」

神戸製鋼は、大八木や林敏之といったフォワード陣が、行けるところまで突進を続けるパワーラグビーのチームだった。反面、その突進が止められた時の密集から、いいボールがバックスに回らないという欠点を抱えていた。ところが、フォワードとバックスをつなぐ10番のレギュラーが、名手・平尾から未経験者同然だった藪木へ代わった時から戦いぶりが一変した。

「フォワードの先輩方が、突っ込み過ぎずに『腹八分』みたいなところでとどめ、藪木にいいボールを出してやろうとしてくれました。スクラムハーフの萩本さんも、捕りやすいパスを放ってくれました。いわば『素人の藪木』が、チームにシナジー(相乗効果)をもたらし、一体感が生まれたんです。これが、平尾さんの考えには、最初からあったんじゃないですかね」

藪木も、先輩たちの心遣いに、プレーでこたえた。持ち前のスピードを生かし、自由自在に駆け回ってボールをつなぎ、神鋼に新風を吹き込んだ。

「萩本さんからは『お前のスタンドオフ、どこにいるのか分からへんのが、おもろいわ。それと、藪木―平尾の並びだとラインスピードが上がる。メチャメチャ速い』と言われました」

1989年1月の日本選手権で、大東大からトライを奪う神戸製鋼の平尾

このシーズン、神戸製鋼は全国社会人大会を初めて制し、続く日本選手権でも大東大を退けて初優勝する。これが、7年連続日本一という偉業の幕開けだった。

ところで、平尾はなぜ、藪木をスタンドオフに転向させたのだろう。

「ずっと理由を聞きたかったんですけど、ついに一度も説明がなかった。心構えや技術的な指導を受けた覚えもない。平尾さんは高校時代、スタンドオフだったし、神戸製鋼でも私が入るまで10番でした。普通、企業でも引き継ぎとかがあるじゃないですか。でも、一切ありませんでした。だから、私は平尾さんの10番としてのプレーをまねしたこともないんですけどね」

平尾は、松岡正剛・編集工学研究所長との対談を収めた『イメージとマネージ』という著書で、藪木本人には伝えなかったポジション変更の理由を、こう説明している。「練習のときの走り方を見ているうちに、思いついたんです」。松岡から「藪木はキックがあまりうまくない選手でしょ」と水を向けられると、「ヘタと言った方があたってます」とも言い放っている。

平尾にとって、2人きりのキック練習は、藪木のキック能力を試したというよりも、神鋼ラグビーからキックという攻め方を極力減らし、ボールをつなぐラグビーへと転換する決断のきっかけだったのではないだろうか。

史上最高、劇的すぎるV3

つなぐラグビーの真骨頂を、神戸製鋼が天下に示したのが、3連覇を決めた三洋電機との全国社会人大会決勝だ。1991年1月8日、東京・秩父宮ラグビー場。社会人ラグビーの試合では史上最高の名勝負と、今なおファンに語り継がれている。

神鋼は序盤から、トンガ生まれの日本代表フォワード、シナリ・ラトウらを擁する三洋のパワーに押し込まれた。後半40分を過ぎて12-16とリードされたうえ、自陣から抜け出せないという絶望的な状況に追い込まれた。

だがここで、神鋼陣内での密集から、藪木へとボールが渡る。藪木は少し前へ走って強烈なタックルを受けつつ、隣にいた味方選手ではなく、右サイドの誰もいない場所をめがけてパスをした。このボールが、芝生の上でワンバウンドする。

そこへ平尾が、スピードを落とさずに走り込んできた。どちらへ跳ねるか予測できないはずの楕円球が、平尾の胸にすっぽりと収まる。平尾は相手の位置を見極め、その手が届かないように弧を描くパスを右タッチライン際へ放った。これを捕球した快足ウイングのイアン・ウィリアムス(オーストラリア代表)が、約50メートルを突っ走る。ただ一人追いすがってきた三洋のワテソニ・ナモアを振り切り、中央まで回り込んで同点トライ。正面からのゴールキックは、フルバックの細川隆弘が丁寧に決めた。18―16となり、その瞬間にノーサイド。あまりにもドラマチックな、神戸製鋼の逆転勝利だった。

1991年1月の全国社会人大会決勝、神戸製鋼のウィリアムスが土壇場で決めた同点トライ。追いすがる三洋電機のナモアをかわした

ワンバウンドになったパスを、藪木はこう振り返る。

「私のミスパスです。ただ、私の右隣にいた藤崎(泰士)さんに対して相手防御がすごい勢いで出てきていたのと、藤崎さんの向こう側にスペースがあるのは、見えていました。だから、そこに投げたんです」

「神戸製鋼は、スペースにパスをして、そこに走り込む練習ばかりしていました。見つけたスペースに球を放って、ボールがつながらなかったら、放ったプレーヤーは悪くない。走り込んできていないプレーヤーが悪いんだと。前のシーズンに指導を受けたオーストラリア人コーチから『スパイス、スパイス!』と母国なまりで連呼されたのを取り入れて、我々はスペースに走り込む感覚を身につけていたんです」

ボールをつなぐラグビーを掲げるチームなら、展開ラグビーの伝統が根付く早稲田大学をはじめ、それまでの日本にも決して珍しくなかった。だが、捕りやすいところに投げて攻撃を続けるのではなく、人のいないスペースを突くことを掲げるラグビーは、極めて大胆で斬新だった。

藪木―平尾―ウィリアムスとつながった、あのパス回しこそ、平尾が統率した頃の神鋼ラグビーの思想を体現した連係にほかならない。

バスでの叱責、10番の転機

三洋電機戦の祝勝会を終え、東京駅へ向かうバスの中でのことだった。藪木は初めて平尾にきつく叱られた。

「いつものように、平尾さんの前の席に座っていたら、後ろから『藪木ちょっと、ここ座れ』と声が掛かりました。横に座ったその時まで、優勝したので褒められるのかな、と私は思っていたんです」

「ところが、『藪木、お前きょうの試合、最低やったなぁ』って、シビアな顔で始まりました。『お前が今日やっていた動きは全部、逆や。パスせなあかんとこで、キックを蹴る。蹴らなあかんところで、自分で走る。もう最低や』と言われました。あの人らしいのは、最後に『怒ってるわけちゃうで』とも言うんです。『いや、怒ってますやん』と思いましたけど」

藪木にも思い当たる点はあった。試合を通じて、確かにプレーの調子は悪かった。たとえば、ウィリアムスのトライの直前、藪木は自陣で、相手防御の裏に短いキックを蹴っている。これに味方は追いつけず、ボールが相手の手に渡り、タッチに蹴り出されてしまった。ここでノーサイドを迎え、敗れていてもおかしくない時間帯だった。

「その前の年までだったら、たぶん蹴っていないと思います。自分で持って走っていたかもしれない。自分で自分を戒める言い方をするなら、あれは『格好つけたキック』。あの試合は、そういうのが全部裏目に出ました」

思い起こせば、スタンドオフ転向から2年目まではトントン拍子。チームにしっかり貢献して優勝を重ね、自信をつけて臨んだ3年目だった。

「その自信が、いけなかったんでしょう。あの年は『スタンドオフ藪木』というのを、私自身が意識していたんです。キックも蹴らなくちゃいけないとか、こうしなきゃいけないっていうのが、少しずつ頭の中で出来ていた。それまでは『バックスの一人』という意識しかなかったんです。平尾さんも『バックスの中でラグビーのうまいやつを7人選んだうちの1人が藪木だった』と表現したことがありました。ポジションの概念がない、自由なラグビー。私もそのつもりでやっていたのに」

判断ミスを叱責された翌年、藪木は判断力を磨こうとするのではなく、まずは体を鍛え直した。体重が7~8キロ増え、持ち前の走力とスタミナに加え、瞬発力が大幅に上がった。

「体力的に弱いから、プレーの選択を間違っていた面があると思ったんです。スタンドオフの場合、攻撃を続けていくにつれて、自分の前に体の大きな相手フォワードが立ちはだかることが多くなる。そこを避けてパスしたりキックしたりしていたところが、自分にはあった。だから鍛えました」

弱点に直接アプローチするのではなく、弱点の原因を掘り下げたうえで、自己改革に取り組む。このあたりに、新たなポジションを与えても理由を示さず、自分で考えることを促してきた平尾流の育成方針が、藪木にしっかりと浸透していたことがうかがえる。V4を達成したこのシーズンから、藪木は全盛時を迎えた。神戸製鋼V7のほとんどの試合に出場し、中心選手として活躍した。

1992年1月の日本選手権、明治大から藪木がトライを奪う。この試合に勝って、神戸製鋼はV4を飾った

「創造的破壊」が生んだV7

3連覇の翌年度、藪木は海外エンジニアリング事業部に異動し、社業でも平尾の同僚になった。それ以来、平尾はオフィスとグラウンドの往復とも、藪木が運転する車の助手席に便乗するようになった。

片道約20分間。車内ではたわいない会話がほとんどだったが、一度だけラグビーの大切な話をしたことがある。4連覇を目指していたシーズンの最中。その年に加入した日本代表の堀越正巳と大ベテランの萩本がポジションを争っていたスクラムハーフの起用について、平尾から意見を求められた。

「例によって、何の前触れもなく……。グラウンドに着く手前、信号待ちの間に『藪木、お前、どっちがやりやすいねん』と来ました。『えっ』と聞き返したら『いや、ハギさんと堀越や』って。察しますよね、私だって。『これでスクラムハーフのレギュラーが決まるのかな』みたいなことを。『やりやすいのは、3年間一緒にやっていた萩本さんです。お互い、あうんの呼吸でいろんなことができます。ただ、神戸製鋼のラグビーが今後、よりアップテンポにスペースに展開していくには、堀越の速いパスと球さばきが必要になってくるんじゃないですか』と答えました。平尾さんは『分かった』と。それだけです」

その後、堀越が先発として定着した。神戸製鋼でも日本代表でも攻撃をテンポアップさせる役割を担った堀越は、チームを先導する存在になった。

1991年10月、関西社会人リーグの近鉄戦で、神戸製鋼の藪木(右)がトライ。並んで飛び込むのが堀越

神戸製鋼の黄金期を通じて、平尾はメンバーの固定化を嫌い、競争の原理でチームの活性化を求め続けた。萩本から堀越への転換だけではない。バックスに元木由記雄、吉田明、増保輝則という大学ラグビーのスター選手がそろって加入してきたV7のシーズンは、平尾自身がセンターからスタンドオフに戻ってポジションをあけ、藪木をスクラムハーフ堀越の控えに回した。藪木はチーム事情を受け入れ、シーズン終盤には堀越のけがで、日本選手権など大一番の出場機会を手にした。

「平尾さんは『創造的破壊』という言葉で、毎年チームを壊して新しいチームを作ろうとしました。いつも『前の年の神戸製鋼に20点差で勝てるチーム』が目標でした。神戸製鋼を研究している相手チームは、前の年のビデオしか見られない。我々が『20点差以上』のチームを作ってしまえば、相手は勝てないんです」

平尾という希代のリーダーの下、常勝軍団は、意識の高さが他チームとはひと味違った。

カートさえ運転できないスター

ところで、V3を決めた名勝負でプレー選択が間違っていると散々に叱られた半年後、藪木には、おみやげ選びで平尾に褒められた楽しい思い出がある。

海外エンジニアリング事業部の社員として、平尾はリビアのプラントを担当し、藪木はイランを担当していた。1991年6月、藪木のイラン出張が決まった時、思い立ったように平尾がリクエストしてきた。

「『藪木、じゅうたん買うてきてくれ』と言い出したんです」

これは、手ごわい注文だった。平尾は、筋金入りのインテリア愛好家。同志社大を卒業してから神戸製鋼に入るまで、英国に1年間留学しているが、その主目的もラグビーではなくインテリア・デザインの勉強だった。現地で、下手なペルシャじゅうたんをつかまされたら、一体何を言われることやら――。藪木はしばらくの間、気合を入れて勉強した。専門書を読みふけり、ペルシャじゅうたん展にも足を運んだ。

「私は別にじゅうたんに興味ないんですけど、すっかり詳しくなっちゃいました。ノーツと呼ばれる裏側の縫い目の細かさによって、価値が変わるものなんですよね。希望された赤基調の色合いで、まあ、いい値のものを買ってきました。あの時ばかりは、平尾さんに褒められました。『なかなかエエやないか』って」

その後も平尾は、大好きなアンティークを扱う大阪南港にある大型倉庫へ、藪木の運転する車に乗って通い詰め、椅子やら机やらをせっせと買い込んだ。

日本選手権初優勝のトロフィーを抱え、破顔一笑の平尾(1989年1月)

灘浜グラウンドでの練習後も、平尾は藪木の運転で街に繰り出した。藪木は大抵、ライバルとの競争に勝つために居残って自主練習を続けたいと思っていたのだが、平尾の方はさっさとシャワーを浴びて身支度を調え、「藪ちゃん、飯行こか」と声をかけてくる。断る気にはならなかった。店の前で平尾を下ろし、藪木は車を寮に置いて、再び合流するのが常だった。

「そんなにおしゃれな店じゃなくて、ちょっと肉やらパスタやらを食べて、そこから飲みに行くみたいな感じでした。平尾さんはバーボンのソーダ割りが好きで、行きつけのバーに行くと『バーソちょうだい』って注文するんです。マスターを交えて、わいわいとアホな話ばっかり。そうやって飲んだ後、家に帰って一人で考えている時間に、一番いいアイデアが浮かんだそうです」

何かにつけて、平尾が藪木の車を自分の足にしていた理由は、至って単純。彼は、運転免許を持っていなかったのだ。なぜ取得しないのか、藪木は尋ねてみたことがある。

「路地に入ると、死角から人が出てきたり、車が出てきたりするんじゃないかと、勝手に想像してしまうそうです。『俺、それが怖いんや』って。だから運転しなかった。繊細で、想像力が豊かなんでしょうね」

運転といえば、オーストラリア遠征中、息抜きのゴルフを楽しんだ時の一幕も思い出される。

「『藪ちゃん、ちょっとカート運転させて』って言うから、代わったんですよ。そうしたら、平尾さんって、内輪差とかが全然分かってないものだから、やたらと変なところに乗り上げるんです。免許がなかったのは、単に運転の技術がなかったからなのかもしれません」

公私ともに間近で接してきた藪木が、いつも平尾に感じていたのは、意外と抜けたところも多い人間味だ。

「いつも私の車で移動するのに、あの人、車にはガソリン代がかかることが、あんまり分かっていなかったんじゃないですかね。出してもらったことがない。ラグビーの遠征に出れば、同じ部屋になることがほとんどなんですけど、私が平尾さんの洗濯物をきれいにたたんで、スーツケースを整理していました。次の遠征先に行くと、またクチャクチャにしてしまうから、また整理するんです。でも『ありがとう』と言われることはありません。車にしたって洗濯物にしたって、私は世話をしているという意識なんて全然なかったし、平尾さんもやってもらっているという意識がなかったのでしょう。そういうところが、お互いに居心地がよかったんじゃないですか」

肩のこらない、気遣い無用の関係は、2人がそれぞれ現役を退いた後も続いた。藪木が神戸製鋼の東京広報部に異動する2005年頃までずっと、車の助手席は、半ば平尾の指定席だった。

明かされた病状、悲しみの京都

読売新聞のインタビューに応じ、平尾誠二との思い出を語る藪木(2019年6月20日)

平尾は2016年10月20日、胆管細胞がんと約1年間闘った末に亡くなった。ごく限られた親しい人にしか、本当の病状は明かさなかったが、藪木には早い段階で告白していた。

「平尾さんが自宅で吐血したのは、2015年9月12日でした。その2日後に、私は電話で聞かされました。電話口で、明るく言うんですよ。『おう藪木、俺、血吐いてなぁ』っていうふうに始まりました。胃潰瘍かなと、私は勝手に想像しながら『血を吐くって、どういうことなんですか』と尋ねました。笑いながら『藪ちゃん、深刻なんや』と。『深刻って何ですか?』、『がんや。いろいろ聞かれるやろから、お前にだけは本当のこと言うとくけど、他には絶対言うな』」

自分の身に何かあった場合は、公私ともに仲が良く、神戸製鋼の広報マンという立場にもあった藪木に問い合わせが集中することを、平尾は予期していたのだろう。案の定、平尾の痩せた姿を、テレビ画面やイベント出演時などに見た人たちが、相次いで探りを入れてきた。藪木は自分の判断で、「胃潰瘍で物が食べられないみたいです」と対応した。

平尾は闘病中の2016年2月、東京まで足を運び、日本ラグビー協会の理事会に出席する。終了後、「お茶でも飲もか」と藪木を誘った。熱心に語ったのは、自身の病状のことではない。神戸製鋼と日本ラグビー協会の広報担当兼務を1年間経験し、次年度からの日本協会出向を受けるかどうか迷っていた藪木への、力強いアドバイスだった。

「世界を相手に仕事をしろ、と。ワールドカップについて『こんなの一生、日本に来ないで』と、平尾さんは言いました。そして、自分の著書『求心力』を渡して、『お前がラグビー協会の求心力になれ』と励ましてくれました」

翌月、神戸製鋼の神戸本社で会ったのが、結果的に最後の顔合わせになった。その時は、こう告げられた。

「『これから本格的に治療に入るから、しばらく俺はどこにも出ない。問い合わせがあったら、頼むわ』と、念を押されたんです。その後、1度だけ電話がかかってきました。『もう大丈夫や』っていう感じだったんです。私は、その『大丈夫や』という言葉を信じていて……」

亡くなる直前、関係者を通じて、病状の悪化を伝えられた。見舞いに行くつもりでいたが、間に合わなかった。

「10月19日の夜、平尾さんの病院に行く夢を見たんです。元気よくベッドから起き上がって『おう、藪木』って、握手してくれました。翌朝の出勤途中に電話が鳴って、亡くなったと聞かされました」

上の空でその日の仕事を片付けた後、京都に向かった。

「最寄りの駅から、平尾さんがいるところに向け、京都市役所の前を通って鴨川の方へ歩いていきました。その場所がだんだん近づいてくると、あれは一体何だろうな……。試合の緊張感も到底追いつかないくらい、今までにないほど心臓の鼓動が激しくなった。歩けないくらいでしたけど、とにかく会うしかないと思い直して、足を止めませんでした。身内が亡くなった時にも感じたことがない気持ちでした。現実を受け入れたくなかったんでしょうね」

授かった「根性」 いざW杯へ

2018年夏、釜石鵜住居復興スタジアムの完成記念OB戦で、神戸製鋼の仲間や新日鉄釜石の元名選手たちとラグビーを楽しむ藪木(中央)=笠井智大撮影

2016年11月5日、日本代表のアルゼンチン戦は平尾の「追悼試合」。2018年6月16日、日本代表のイタリア戦は「メモリアルマッチ」。日本協会の広報部長として、藪木はたびたび、平尾誠二にささげるイベントを切り盛りしてきた。そして今、平尾が恋い焦がれた日本開催のワールドカップ(W杯)の開幕が、秒読み段階まで近づいてきた。

広報部長席には、平尾の写真が立ててある。記者会見場には、大きなパネルも。その姿がいつも目に入る職場で、藪木はきょうも、世界を相手に仕事をしている。

「私にとって、生きる見本なんです。平尾さんにはなれないですけど、ずっと背中を見てきましたから。まずは、人の話をよく聞くこと。先輩も後輩も関係なく、いろんな人の話を本当に最後まで聞く人でした。私の話もよく聞いてくれました。相手が話し終わると『そうかぁ。まあ、そやけどなぁ』っていう口癖から、平尾さんならではの、いろいろな考えを話し始めるんです」

「よくおっしゃっていた言葉があります。『藪木、根性や。最後は根性や』。意外に響くかもしれませんね」

ラグビーをクールに考え抜き、洗練されたプレーで、格好良く勝利を重ねてきたイメージのある平尾と、根性という泥臭い言葉は、ちょっと結びつきにくい。だが、藪木はこう説明する。

「平尾さんのいう根性は、80分間、最後まで一瞬たりとも切らさない闘争心と集中力です。それがラグビーにとっての『根性』だと。その根性で、病気とも最後まで闘いました」

2011年W杯の日本開催招致委員会メンバーとして、記者会見であいさつする平尾。右端は森喜朗・元首相。この大会は招致できなかったが、その経験が19年大会の招致成功につながった(2004年10月18日)

このところ、呪文のように唱えられている「ワールドカップの成功」とは、何だろう。藪木は、こうとらえている。

「ラグビーという競技が日本でポピュラーな競技になって、注目される国になる。今年のワールドカップが成功と呼ばれるためには、日本代表の強化やレベルアップを超越して、そこまでいかなくちゃいけない。ラグビーの認知度が高まり、日本の生活文化に溶け込み、融合していくようなことを、やり続けないといけない。もちろんW杯後も、継続しなくちゃいけない。そうしないと、平尾さんには褒めてもらえないと思います」

2人の関係は、上から押さえつけようとはしないが、ここぞという時には箴言(しんげん)を授ける師匠と弟子だ。もちろん先輩と後輩、上司と部下でもあった。平尾が兄、藪木が弟のようにも見える。濃密で魅力的な間柄は死によって分かたれたが、兄の思いは弟へ、しっかりと引き継がれている。(文中敬称略、読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやワールドカップ2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。

平尾 誠二(ひらお・せいじ)

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。

同志社大2年の1982年、当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表キャップを獲得。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。

97年、日本代表監督に就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。神戸製鋼ゼネラルマネジャー、日本ラグビー協会理事、日本サッカー協会理事、ラグビーW杯2019組織委員会理事なども歴任。享年53歳。

1990年12月、神戸製鋼の平尾がマツダ戦でトライ

藪木 宏之(やぶき・ひろゆき)

1966年3月12日生まれ。山口県の大津高に入学してラグビーを始め、3年時の全国大会で4強入り。ノーシードながら、準々決勝で優勝候補の大阪工大高(現常翔学園)を17-13で破った。明大では、1学年下の主将を務めた安東文明らが同じポジションにひしめき、公式戦の出場機会が少なかった。1988年、神戸製鋼入り。88年度から始まったV1~V6はスタンドオフとして、V7は主にスクラムハーフとしてチームの日本一に貢献した。現役引退後は神戸製鋼の広報部員などを務め、2016年4月から日本ラグビー協会に出向して広報部長を務める。

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