平尾誠二を語る(9)夜の神戸で衝撃の店「許されるのよ、彼だけは」

沢松奈生子(46)(元プロテニスプレーヤー、現解説者)

北野坂は、小粋な店が軒を並べる神戸の繁華街だ。坂道を上って高台に出れば、情緒豊かな異人館街が広がり、明治から昭和初期の洋風建築を今に伝える。平尾誠二と初めて一緒に食事した夜の待ち合わせ場所は、そんな坂の途中だった。沢松奈生子は、ウキウキしていた。

「さすが平尾さん、待ち合わせ場所からして格好いいんだからぁ」

ラグビー日本代表監督時代の平尾誠二(1997年5月撮影)と、平尾との思い出を語る元プロテニスプレーヤーの沢松奈生子(2019年6月撮影)

小粋な1軒目と待ち合わせ、そして…

1998年秋に25歳でプロテニス選手を引退してから、間もない頃だ。10代から年間200日以上も海外を転戦する多忙な日々を送ってきたうえ、実家は門限10時と厳しく、酒をほとんど飲めない体質でもある。夜の街を楽しむような経験がほとんどないまま、テニス一直線で成長してきた。10歳上の平尾の導きで「大人への階段を上る」くらいの気分で、沢松は北野坂を歩いた。

平尾のほかにテニスコーチら2~3人が一緒という顔ぶれで、沢松が紅一点だった。1軒目は、平尾が行きつけの店に予約を入れていた。

「フォークとナイフでカチャカチャ、みたいなお店だろうと想像していました。着いてみたら、アットホームでこぢんまりとした定食屋さんのようなところ。平尾さんに出すメニューは決まっている感じで、注文しなくてもおいしいものが次々と出てくるんです。お店の人たちも、ワイワイと私たちのテーブルへ話しに来ちゃう。まるで平尾さんの家にお邪魔しているみたいに、くつろいだ雰囲気でした」

なるほど大人の男性って、こういうお店に通うものなのか、などと感心しつつ、心楽しい食事を終えた。すると、ほどよく酒が回って上機嫌の平尾から「ナオちゃん、俺の知ってるエエ店が、この近くにあんねん」と、2軒目へのお誘い。門限には、まだ時間があった。全員、喜んでついて行くことに。粋人らしさを発揮した待ち合わせと1軒目の店選びで、平尾のセンスを誰もが信じきっていたが、自由奔放な遊び心の持ち主でもあることは知らなかっただろう。

2軒目の店は、すぐ近くのビルの地下にあった。階段を下りて扉を開けると、異質な空間が広がっていた。

「私の人生、最初で最後の『刺激的すぎるバー』だったんです。その後も含めて私、あの時ほどドキドキした経験ってないと思うなぁ」

あやしい空間でまじめなトーク「私、遊ばれた?」

店員は男女とも、体にぴったりした露出度の高いレザーの衣装を身につけ、仮面舞踏会の参加者がつけるようなマスクをしている。片手に、ある種の「道具」を持って、もう片方の手で飲み物やつまみを運んで客に出す。照明も、あやしい色を帯びている。そんな趣の店だ。

少なくとも沢松が記憶している限りでは、客と店員が一般常識から外れた行為をしたり、されたりするような場面はなかった。きわどいショーやステージ・パフォーマンスの類いも見なかった。

「それでも、夜の神戸の初心者だった私にとっては、あまりに敷居が高かった。目を白黒させて、もうパニック。えらいところに来ちゃったな、って思いましたよ」

「ただし、嫌な感じも全然しなかったんです。だって平尾さん、その店でもラグビーやテニスについて、ずーっとまじめな話をするんですよ。そういう格好をしているお店の人たちも交えて、『ラグビー日本代表は、こうしなきゃいけない』というようなことを、熱く語るんです。私はラグビーに詳しくないから、聞かされてもよく分かりませんでしたけど、話の内容と場所とのギャップは、面白くて仕方なかったですね」

兵庫県西宮市の実家に帰ると、親から「ラグビーの平尾さんと、どこへ行ってきたの?」と尋ねられ、門限10時のお嬢様は答えに窮した。「えーっと、ご飯食べさせてもらってね……。なんかその後、ちょっとお酒を飲んだ」などとごまかし、どうにかしのいだ。

実は、この「刺激的過ぎるバー」に、平尾はしばしば人を同伴している。共通の友人と一緒に酒を酌み交わし、初対面で意気投合した有名な男性バレエダンサーも、連れて行かれたことが分かっている。気の合う年下に出会うと、この店に引っ張り込んでは反応を観察して楽しむ。どうやらそれは、平尾一流のお遊びだったらしい。

「あ、やっぱりそういうことなのか! 私、遊ばれたのか、平尾さんに。でも、いいの。この話、誰にも言ってはいけないことなんだと思って、20年以上も抱え込んできたけれども、こうして解禁できたから、思い残すことはない! さっきから『ナオちゃん、そんなこと人に言うなよぉ』って言われている気がして、上の方から平尾さんの圧を若干、感じるんですけどね」

沢松は天井を見上げて「アハハ」と笑った。

スクール・ウォーズと貴公子ラガー

1987年5月、日本代表合宿で軽快な動きをみせる平尾(中央)

1973年3月生まれの沢松は、小学校高学年で「スクール・ウォーズ」の洗礼を受けた世代に属する。80年代半ばに放送され、大ヒットしたテレビドラマ。荒れた学校に赴任してきた熱血教師が不良少年を更生させ、ラグビー部を高校日本一に導くまでを描いたストーリーは、平尾が主将を務めた当時の京都・伏見工高が全国高校大会で初優勝を飾るまでの実話が、下敷きになっている。

ドラマの中で、「平山誠」という主将が活躍している頃、平尾本人は同志社大の主力選手で、日本代表の次代を担うスターとしてファンの期待を一身に背負っていた。

「ラグビーといえば『スクール・ウォーズ』。汗かいて、泥臭くて、男の中の男っていうイメージ。大八木(淳史)さんみたいな大きい人が、ボールを持って走っている姿を思い浮かべるスポーツでした。それが、本物の平尾さんを目にした瞬間、『格好いい』に変わりました。平尾さんはトライを決めても、ウェアが乱れないんです。グチャグチャ、ドロドロになるようなことが全然ない。スポーツニュースで平尾さんが何秒か映るだけで、『ちょっと何、この格好いい人。なんで走っているの』って。その何秒かでラグビーのイメージが変わるくらいのインパクトがありました。汗の臭いがするにしても、平尾さんなら、さわやかな香りだろうと思っていました」

実際の平尾は、華麗で洗練されたランニングとパスだけを得意とする選手ではなかった。的確なタックルを決め、体を張るプレーをいとわない面もあった。そのあたりは端正なマスクの陰に隠れ、ラグビーファン以外の目にはつきにくかった。日本代表監督時代の1997年に出演した長寿テレビ番組「徹子の部屋」では「傷、多いんですよ。顔だけで65針くらい縫ってます」と打ち明けている。「アナタ、お顔に傷のない方ねえ」と持ちかけた黒柳徹子の感覚は、平尾だけは決してウェアが乱れないと言った沢松と、近いものがあるかもしれない。

いずれにせよ――。頭を打ったくらいなら、やかんの水をかけてもらって起きあがるし、血が出たってテープをひと巻きして戦線に戻る。そんな荒っぽいイメージだったラグビー界に、貴公子然とした平尾は1980年代、新風を吹き込んだ。その辺りの空気感を、沢松は少女時代、ビビッドに感じ取っていた。

全日本選手権を制した高校1年当時の沢松(1988年12月撮影)

シンポで実質初対面、イチローやヤワラちゃん交え

兵庫・夙川学院高の1年生時代にテニスの全日本選手権を制した後、報道機関が企画した対談などで、初めて本物の平尾と顔を合わせた。ただ、その頃に話した内容をはっきり覚えてはいない。神戸製鋼を日本一に導いたラグビー界の若きスターを前に、きっと緊張していたのだろう。

実質的な初対面は1995年11月、阪神大震災の被災児童を励ます目的で一流スポーツ選手が神戸市内のホールに集まったシンポジウムだ。平尾と沢松のほか、当時はオリックスで活躍していたイチロー、柔道の田村亮子(現・谷亮子)と、豪華な顔ぶれだった。

「クールで硬派なラグビー選手という平尾さんのイメージが、あの日、変わりました。お会いして話すと、気さくで、とっつきにくさなんてどこにもない。『うわ、メチャクチャしゃべりやすい人じゃない!』と、感動しました。あの当時はイチローさん(沢松より1学年下の世代)もまだ若くて、シンポジウムみたいな機会には慣れていなかったようで、割と緊張されていた感じ。そんな雰囲気の中、楽屋であいさつを交わした時から、年長者だった平尾さんがみんなを和ませてくださったんです」

この日、競技の枠を超えた平尾と沢松の絆が生まれた。沢松の引退後は、平尾の大病がわかる8か月ほど前の2015年1月まで、イベントでの共演や私的な会食などを含め、2人は毎年のように会う機会を作り、親しく語らう間柄になった。

もっと考えてラグビーをしよう

「考えるラガーマン」は人脈が広かった。2010年3月、プロ野球の古田敦也(奥)や陸上競技の朝原宣治(手前)と共に文科省の会議に出席した平尾

神戸製鋼の親しいチームメートたちが相手だと、平尾はグラウンド外でほとんどラグビーを語らず、笑い話に興じていたと伝えられる。それなのに、ラグビーの知識がない沢松には、会うたびに独特の切り口で、ラグビーとスポーツを熱く論じた。

「基本的に『スポーツは考えるものだ』というのが、平尾さんの考え方でした。ラグビーの場合、自分が試合中に置かれている状況をちゃんと第三者的に分析して、どこにパスするべきか、どう動くべきかを考えられる人が、最終的には勝つんだと。『日本のラグビーは、もっと考えなくちゃいけない。もっともっと頭を使わなきゃいけない』。その意見には私、ものすごく共感しました。スポーツ選手って、脳みそまで筋肉というような昔のイメージとは違って、トップレベルになればなるほど、頭が良くないとできないものだと思うんです。その考えに、平尾さんとお会いしてから、自信を持てるようになりました」

テニスについても、平尾はきわめて雄弁で、しばしば鋭い分析を披露した。マシンガン・トークで鳴らす沢松が、主に聞き役に回った。

「そういう目線なのって首をかしげるような話もあれば、すごく的を射ていることもあるんです。『この選手、この前の試合では、コートのあっち側にボール集めて、負けたやろ。そしたら、次やる時までにはデータを取って、どの方向にどんな配分でボールを散らしたらいいのか、絶対に考えるべきやと俺は思う。そこに気がつかない選手はアカンねん』。そんな話をされたことがありました。面白いなぁと思いましたね」

鋭い観察「ナオちゃんは頭使ってる」

1992年6月、ウィンブルドン選手権でジェニファー・カプリアティと熱戦を演じる沢松奈生子

沢松のプレーも、きっちりリサーチされていた。現役時代、ひそかに心がけていたことを鮮やかに見抜かれ、舌を巻いたことがある。

テニスの試合では、開始前に5分間のウォーミングアップがあり、両選手が軽く打ち合う。この時間を、沢松は大切にした。自分の体をほぐし、その日のコート状態やボールの弾みを確かめるだけではない。感覚を研ぎ澄ませ、力を抜いたラリーの中にもかすかに表れる対戦相手の調子を把握することに努めた。このささやかな工夫で、体格がよくてパワフルな海外トップ選手たちとの勝負に、沢松はしばしば活路を見いだしてきた。

「試合前に相手のデータは、もちろん全て頭に入れています。どんなショットに特徴があるとか、サーブはどのコースに打つ割合が高いとか。けれども、相手選手も生き物だから、その日の調子までは、コートで顔を合わせてみないと分からない。『きょうはこのコースが調子いいな、ここは悪いな』という感触を、私はウォーミングアップでつかんでいました。そこに気づけるテニス関係者って、そうそういないものなんですよね。ところが、違う競技の平尾さんが、しっかり気づいていました。『ナオちゃんは、相手の特徴を試合の序盤につかんでいる。ちゃんと考えているやろ、あの5分で』って言われたんです」

「テニスのことで、他の人から『ナオちゃんはちゃんと頭使っている』なんて上から目線で言われたら、私は怒ると思います。夫に言われても、モノを投げつけちゃうかも。でも平尾さんだと、むしろ『えー、ホントですかぁ』って純粋にうれしくなってしまう……」

ルールをよく知らないラグビーの話を延々とされても、誰よりも考え抜いてきたテニスを上から目線で語られても、沢松はいつも平尾の話を喜んで聴いた。

「ついていけない世界のことばかり、延々と語ってしまう男性っていますよね。平尾さんだけは、それが許されるんです。だって、平尾さんだから。女性から見てもずるいなって思うくらい、立っているだけでも格好いいんですもん。ただ格好いいだけだとつまらないけど、クールさと熱さを併せ持っていて、人間的に厚みがある。だから、話のテーマよりも、平尾さんに興味があって話を聴き続けてしまうんです」

そもそも、初めての会食で「刺激的すぎるバー」に案内するようないたずらをやらかす男性は大抵、女性から愛想を尽かされるだろうし、トラブルになっても不思議はない。平尾という男性はやはり、特権的なスターだったということだろう。

共通する「生かされている」意識

国連防災世界会議プレ・シンポジウムのパネル討論で発言する平尾(2004年8月撮影)

阪神大震災を抜きに、兵庫ゆかりのアスリートである平尾と沢松の結びつきは語れない。

発生した1995年1月17日は、平尾にとって、神戸製鋼で日本選手権7連覇を達成した2日後だった。当時のチームメートによると、平尾は被災した朝、妻子と自宅にいた。家族の無事と家の状態を確認すると、親戚の無事を確かめに出かけ、がれきを動かして人を救出した。

沢松は震災の日、全豪オープン出場のため、オーストラリアのメルボルンにいた。生まれ育った西宮市の実家は全壊し、1階にあった自身の寝室もぺしゃんこになったが、家族は奇跡的に全員無事だった。

「全豪オープンがあの時になかったら、私は死んでいました。本当に拾った命だと思っています」

沢松はこの全豪で快進撃を演じ、被災地を勇気づけるヒロインになった。実家を案じて電話口で「帰国したい」と訴えた沢松を、往年の名選手でもある叔母の和子(ウィンブルドン選手権女子ダブルス優勝者)が「プロなら試合をしなさい。嫌なら泳いで帰ってきなさい」と一喝したエピソードは、テニス界の語りぐさだ。腹を決めてプレーを続けた沢松は、杉山愛、伊達公子、メアリージョー・フェルナンデス(米国)と手ごわいライバルを次々と撃破。準々決勝でアランチャ・サンチェス(スペイン)に惜敗したが、四大大会で自身の最高成績となるベスト8に食い込んだ。

「神戸の方々の力を感じながらプレーしました。最悪の体調でしたよ。寝ていないし、食べていない。自分の家族や、神戸にいるみなさんが食べるものもないっていう時、自分だけぜいたくな食事なんて当然できませんから。練習もできていない。それでも、コートに立ったら無の境地で、ボールしか見えない。パーンって、いいコースに打たれて、『あぁ、もう絶対にとれない』と思った時に、ふと神戸の人たちの声が聞こえてくるんです。『取れるよ!』。体が勝手に押される感じで、ラケットを出したら、それが決まっていました。ちょっと自分が怖いと思いました。あの声がなかったら、たぶん私の足は止まっていました」

雑念が消え、極限まで集中が高まり、最高のプレーができる状態を、近年は「ゾーンに入る」と表現する。沢松にとって、自身がゾーンに入ったと感じた経験は、人生で2回だけ。1回目が全豪での各試合で、2回目はモニカ・セレシュ(米国)と大熱戦を演じた引退試合だ。

「全豪オープンは、私にとって、ある意味で原点です。スポーツ選手として、ただ強くなればいい、勝てばいいっていうのではなく、自分たちがなんで今、スポーツをやらせてもらえているのか、できるのかを考えるきっかけになりましたから。人として、毎日を大事にして、いつ何があっても後悔しないように、自分に何ができるかを考えて生きたいと思うようにもなりました」

一方、沿岸部にある神戸製鋼のラグビー練習場・灘浜グラウンドは、液状化などで使えなくなり、一時はグラウンド脇ががれき置き場になった。しばらくして、あちこちの高校のグラウンドを借りて練習を再開したチームを、平尾は「震災を言い訳にするな」と鼓舞した。そのシーズン、神戸製鋼の連覇は途絶えた。チームが日本一に返り咲いたのは、2000年。平尾はすでに引退し、ゼネラルマネジャー(GM)を務めていた。

「震災の後、『自分は生かされていると思うようになった』と、平尾さんがシンポジウムで話していたのを覚えています。被災した日の行動についても、うかがいました。スポーツのトップ選手って、毎日毎日が精いっぱいだから、自分の人生がどうとか、生きているのはあと何年だからどう生きようとか、特に考える機会がない人もいると思います。平尾さんは震災の時に『命っていうものは、いつなんどき、何があるかわからない。そうであれば、生きている間は、生かされている命を一生懸命生きよう』と思ったそうです」

震災を経て、2人は「命」に対してよく似た意識を抱くようになった。

引退試合を戦い終え、相手のセレシュに抱かれて泣く沢松(1998年9月)

被災地にたつ選手目線のW杯会場

間もなく始まるラグビーW杯の試合会場となる神戸市御崎公園球技場は、阪神大震災から復興する神戸を世界にアピールするシンボルとして、2002年のサッカーW杯日韓大会に合わせて建設された。神戸製鋼と大林組のジョイント・ベンチャーが設計、建設に携わった。

設計段階で、平尾は様々なアイデアを出した。ひとつは、グラウンドとスタンド最前列の段差をできるだけ低くしようという助言だ。選手が観客と握手をしたり、サインをしたりする試合後の交流を、容易にすることが目的だった。サッカーW杯の基準では、厳密なフーリガン対策が求められたために段差が2.5メートル必要とされていたが、神戸のスタジアムの段差は1.8メートルにとどめた。サッカーW杯の間だけ、仮設で0.7メートルかさ上げして対応した。

サッカーW杯の開幕前、沢松は完成直後のスタジアムを訪れた。平尾、そしてサッカーの三浦知良(当時はJリーグのヴィッセル神戸所属)との対談企画だった。めっぽう格好いいスポーツマン2人と一緒にグラウンドに立つという機会を楽しむとともに、被災地・神戸に誕生したフットボールの聖地の姿に深い感銘を受けた。

「アスリートは、観客席から見る景色ではなくて、ピッチから観客席を見ています。なので、実際にフィールドに立って初めて、そのスタジアムの良しあしを感じるんです。選手目線で見た時に『すごく開けている』とか『窮屈な感じがする』とかを感じて、そこから競技しやすい、しにくいっていうのを判断します。神戸はすごく開けていました。芝も、ウィンブルドンを超えたかもと思うくらい、美しくて。ここはプレーしやすいだろうなって、思ったことを覚えています」

「平尾さん、思い入れをすごく熱く語っていました。『俺が建てた』くらいの勢いでした。世界中のいろんなスタジアムを見に行って参考にしたという話でした。『ナオちゃん、ウィンブルドンと全米オープンの会場って違うやろ?』って、聞かれましたね。『国によってお客さんのカラーも違うから、全然違うスタジアムになるんや。神戸には神戸のスタジアムを造りたかった』って」

平尾も携わった神戸のスタジアムでは、ラグビーW杯で、4試合が行われることになっている。

「2015年1月のイベントでお会いした時も、W杯の話を一生懸命されていました。『ナオちゃん、見に来てや。日本でW杯をやるって、ホンマにすごいことやで』。それが最後になるとは、夢にも思っていなかったので、『ハイ、ハイ』っていう調子で聞いていたのが、悔やまれます」

都内に暮らす今も、兵庫に里帰りするたび、沢松は平尾を思い出す。

「変わってきた町並みを見ると、神戸の人たちが頑張って復興してきたんだと感じ、誇りに思います。自分たちが、何か小さくても力になれていたとしたら、スポーツ選手として一番良かったことだと思うんです。平尾さんが神戸製鋼に入って、神戸にいる時に大きな震災が起きた。そして今回、W杯が神戸に来る。なんだか、全てがつながっているような気がします」

今年1月、沢松は会合の席で、黄金に輝く本物のワールドカップを目の当たりにした。その場面を脳裏によみがえらせた時、沢松の目に涙があふれた。

「カップと一緒に写真を撮らせてもらいました。『あぁ、平尾さんがここにいたら、喜ぶんやろうな』と思いながら。そうやって、ところどころで思い出しちゃうんです。あぁ、またお会いしたい……。平尾さんと知り合っていなかったら、私がW杯に興味を持つことはなかったでしょう。だから、代わりにはならないけれども、平尾さんの分までW杯をしっかり見届けたいと思います」

平尾との思い出をよみがえらせ、インタビュー中に涙ぐむ沢松

平尾カメレオンと内助の功

ラグビー、テニス、震災……。様々な話を聴いてきた沢松は、平尾のことを「カメレオンみたい」とも表現する。

「ものすごく真面目だったのか、それとも天才的なアスリートだったのか、すごく努力をしてあそこまで積み上げた人なのか。すべての可能性を、考え得るんですよ。それがつかめない。いろいろ想像できる。どれだけお会いしても、結局答えが出なかった。そのまま逝ってしまったんです」

「格好いいだけじゃないってことですよ。トータルして、彼の魅力なんだと思います。おそらく出てこないでしょうね、こんな人は。全アスリートを通して考えても、ほかに出会ったことがない。イチローさんだって、(松岡)修造さんだって、自分の色がありますけど、どれが平尾さんの色なのか分からないようなカメレオン人間はいない。一体どれが本当の平尾誠二なのか、最後までつかめませんでした」

そして、平尾がカメレオンでいられたのは、内助の功が一因だと、沢松は考えている。

「亡くなったと聞いて、突然お宅へ伺うのも迷惑になるかもしれないので、お花を送りました。そうしたら、奥様から直筆のお手紙をいただいたんです。亡くなって間がなかったので、本当にお忙しかったでしょうし、たくさんの方が弔問に来られた中で、手紙を書く時間を割いてくださったことに感動しました。『仲良くしてもらって、ありがとうございました。家で沢松さんの話をしていました』と、書いてくださいました。平尾さんが選んだ方ってどういう女性なんだろうって、すごく興味があったんです。奥様には、まだお会いしたことがありません。でも、平尾さんが立派な社会人、立派なアスリートでいられたのは、奥様あってのことだったんだなと、あのお手紙で腑に落ちました」

(文中敬称略、読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやワールドカップ2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。

平尾 誠二(ひらお・せいじ)

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初(当時)の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。

同志社大2年の1982年、当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表キャップを獲得。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。

97年に日本代表監督就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。神戸製鋼ゼネラルマネジャー、日本ラグビー協会理事、日本サッカー協会理事、ラグビーW杯2019組織委員会理事なども歴任した。

2016年10月20日、胆管細胞がんのため、53歳の若さで亡くなった。

沢松 奈生子(さわまつ・なおこ)

1973年3月23日生まれ。テニス一家に生まれ、5~10歳をドイツで過ごす。兵庫・夙川学院高1年だった1988年、全日本テニス選手権女子シングルスに初出場し、優勝。神戸松蔭女子大入学と同時にプロ転向した。シングルスの世界ランキングで自己最高は14位。四大大会の最高成績は、全豪ベスト8、ウィンブルドン、全仏4回戦進出、全米3回戦進出。ツアー通算シングル4勝。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪代表。98年に引退した。2000年に平尾が設立してNPO法人の理事長に就いた総合型地域スポーツクラブ「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構」(SCIX)には、発起人として協力した。現在は、テニス解説者、コメンテーターとして活躍している。

叔母の和子は1975年ウィンブルドン選手権女子ダブルスで優勝。母の順子は、和子との姉妹ペアで70年にベスト8入りした。父の忠幸もウィンブルドンに出場したテニス選手だった。

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・連載「平尾誠二を語る」一覧
・神戸ラグビー物語
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