平尾誠二を語る(10)ノーベル賞医師、友の墓前で我を忘れて…

山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所長(57)

初めての対談で、山中伸弥(右)にラグビーボールをプレゼントする平尾誠二(2010年9月30日、京大iPS細胞研究所で)=岡村啓嗣撮影、「友情」(講談社)より

平尾誠二の墓はJR新神戸駅近くの広い霊園の中に立つ。今年の春、山中伸弥は妻と2人で足を運んだ。平尾が眠る場所は、事前に聞いていた。すぐに分かる、と高をくくっていたら、なかなか見つからなかった。急な坂道を上り下りし、長い時間探し歩いた。ようやくたどり着いた時、山中は完全に我を忘れた。

「あぁ、ここや――と思ったら、墓石に抱きついていたんです。自分でもびっくりしました。墓石に抱きつくなんて、生まれて初めてだし、たぶん最後だと思います。なんだか久しぶりに平尾さんと会えた感じがして、うれしくて」

平尾が眠る墓。左が正面で、右は、墓の背後から見渡す神戸の街

平尾自筆の「自由自在」という文字が刻まれた墓は、霊園の中でもとりわけ見晴らしのいい場所にある。神戸の街並みに連なり、ヨーロッパやアジアなどの港と定期航路で結ばれている神戸港も見渡せる。神戸製鋼のヒーローで、地元をこよなく愛する一方、ラグビーを通して常に世界を見ていた平尾にふさわしいロケーションといえるだろう。

「あれだけ神戸の街が一望できる場所は、なかなかありません。(平尾の妻の)恵子さんが一生懸命、探されたんだと思います。変な言い方ですが、彼を待っていたような所です」

墓が建立された今年1月には、家族や親しい友人らが集まって、納骨の会も催された。山中が墓参りしたのは、それから数か月がたってからのことだ。すぐにでも手を合わせに行きたかったところを自重した。

「僕が平尾さんと一緒に過ごしたのは、亡くなるまでの最後の数年だけなんです。まずお墓に行くべきは、彼と一緒にラグビーをやっていた仲間だと思いました。私はそういう皆さんが墓参りに行かれてからにしようと。それで、遅くなりました」

山中の慎み深い人柄と、相手やその周りの人を互いに思いやって築いた平尾との仲を象徴するような振る舞いだ。在りし日の平尾もまた、山中がノーベル生理学・医学賞を受賞した2012年、すぐに連絡するのは控え、大騒ぎが一段落した頃を見計らって祝いの言葉を贈っている。

2012年12月10日、ノーベル賞の授賞式への出発前、ストックホルムのホテルで妻の知佳さんと並んでほほ笑む山中

畑違いの同学年、初対談から意気投合

ラグビー界のレジェンド・平尾は1963年1月生まれ、医学研究のトップランナー・山中は62年9月生まれ。2人は40歳代後半だった2010年9月、平尾が10歳代だった頃から密着撮影してきた写真家で、書籍編集者の岡村啓嗣が企画した週刊誌の対談で、初めて顔を合わせた。この対談の内容は、平尾が世を去った約1年後に山中と平尾夫妻の共著として出版されたベストセラー「友情」(講談社)に詳しい。

神戸大の医学生時代にラグビー部員だった山中にとって、同じ学年の平尾はまさにヒーローだった。伏見工高や同志社大時代の平尾のプレーに胸躍らせ、あこがれを募らせて自身も楕円球を追うようになったと、楽しげに打ち明けている。「先生にそういう影響を与えたっていうのは大変光栄ですね。家に帰って自慢できるな」と笑った平尾も、山中が研究するiPS細胞(人工多能性幹細胞)について対談前に入念に調べてきたようで、研究を再生医療で実用化するうえでの課題などについて鋭い質問を連発した。大いに盛り上がった対談のテーマは、部下のしかり方や指導法、海外留学の意義、日本人が世界で活躍する方法まで、多岐にわたった。

2人は最初の対談から間を置かずに酒席を共にし、ゴルフに興じた。それからは1、2か月に一度会い、メールも頻繁にやりとりするように。やがては家族ぐるみで親しい間柄になった。互いに「素」のままで付き合え、尊敬し合える友ができたことを喜び、幸せを感じていた。それなのに――。

1990年1月、早稲田大との日本選手権でトライを決める平尾

神戸大医学部ラグビー部時代の山中(京大iPS細胞研究所提供)

闘病の分岐点「あの新薬を続けたかった」

2015年9月12日未明、平尾は自宅で吐血する。検査を受けると、その日のうちに胆管細胞がんが判明した。

平尾は翌日、山中に家族以外では最初に病状を打ち明け、治療の相談を持ちかけた。病院に駆けつけた山中は、CT(コンピュータ断層撮影)を見て、親友の深刻な病状にショックを受けた。がんは進行し、すでに肝臓の中に広がっていた。

「こんなにも進んでいるのかと、愕然としました。手術もできない状況で、医師によってはターミナルケア(終末医療)を勧める方もおられるくらいでした」

患者自身が気力を失ってしまいかねないケースとも思われたが、平尾は違った。あきらめることなく、がんに立ち向かった。

「彼は全然、動じなかった。全く、ひるむ様子がなかった。『しゃあないわ、先生』という感じで、元気だった時から何も変わらない平尾さんのままだった。いろんな治療をすると、副作用も起こりうるのですが、できることは一緒にやろうと。彼にもご家族にも『最後まで闘う』という選択肢しかなかった。そういう姿を見ていると、ここでゲームオーバーというのはありえないなと思いました」

平尾の闘病に寄り添った日々を振り返る山中(2019年7月、京大iPS細胞研究所で)

平尾は免疫療法に活路を見いだそうとした。体内の免疫力を高めることによって、がん細胞を排除する治療法である。これは、山中のアドバイスを受け入れての決断だった。がんの専門医ではないものの、医学に精通する山中が最先端の情報を集め、どんな治療が最善なのかを考え抜いて選んだ道だ。

「彼にはぜひ免疫療法をしてほしいと思いました。以前の免疫療法には科学的根拠が少ないものもあったのですが、ちょうどその頃、しっかりした根拠を持ち、一定の割合で効果がある免疫療法が登場したんです。ほかに手の施しようがないほどの末期がんから、劇的に回復する人がいたし、劇的な回復ではなくても、がんと『平和共存』できる人もいました」

まず、イギリスの製薬会社が開発した新薬を用いる免疫療法に取り組んだ。その薬は、皮膚や肺など一部のがんにしか投与が認められていなかったが、それ以外のがんにも「治験」という形でならば使える可能性があった。治験とは、新しい医薬品や医療機器の安全性と効果を確認し、国から承認を受けるために行う臨床試験だ。

山中は国内のある医師が治験を実施するという情報をつかみ、その対象患者として平尾をエントリーした。

「平尾さんは、数少ない治験の対象患者になれたんです。タイミング的には1、2か月早くても遅くてもだめだったと思います。ある意味で運が良かったから、治験をやってみることができました」

だが、治験は数回で打ち切りとなった。担当医が治験終了を平尾に告げた時には、山中も同席した。山中は今なお、残念で仕方ない。

「続けたかったんですよ。僕の目から見ると、平尾さんが受けた治験には一定の効果がありました。劇的な効果ではなかったんですが、平和共存しているんじゃないかと考えられました。あれだけがんが広がっているのに、それ以上悪くならないし、講演などの仕事を続けることができていましたから」

「ただ、治験には枠組みというものがあって、非常に厳密な決まりでやっています。平尾さんだから続けるとか、僕だから続けるとか、そういうことは一切ありえません。劇的な効果があった場合は治験を続けるけれども、それがなかったら終了と決まっていたんです。続けられたらどうなっていたか、分かりません。ラグビーでも何でも、『たられば』を言ったって仕方がない。でも、もしかしたら今回のワールドカップを、がんと平和共存したまま迎えられた可能性があったというのが……。僕の心残りです」

その後、治療は抗がん剤などに切り替わった。

真骨頂のひと言「先生、これ世界初なんか」

2016年の夏からは、1回目とは別の薬を使った免疫療法にもトライした。

免疫療法の治療薬としてよく知られるオプジーボだ。2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑・京大特別教授らの研究成果をもとに開発された。オプジーボも当時、治験が少しずつ始まっていて、平尾家はこれもぜひ受けたいと熱望した。ただし、1回目ではイギリスの会社が作った新薬を用いて2回目でオプジーボという組み合わせの治験は、山中が調べた限りでは前例がなく、副作用などのリスクが未知数だった。

「僕は平尾さんに『こういう順番で投与するのは、おそらく世界で初めてだと思う。だからどうなるか分からない』と、正直に説明しました。心配するかなと思ったら、あの反応には本当に驚きました」

「『そうか、先生。これ世界初なんか』って、ものすごくうれしそうにしたんです。隣におられた奥さんに『聞いたか。俺ら世界初のことやってるんやって』と、すごく楽しそうに言うんですよ。『コイツ、なんちゅうヤツや』と思って……。彼の生きざまだと思います。常識にとらわれない。そして、自分の命が大変な状態の時でさえ、周りには心配させないでおこうという思いやりがあった。特に、奥様に対して。それが決して演技している感じじゃなかった。あの場面は忘れられないです」

しかし、2回目の治験でも平尾の病状に劇的な回復はなく、2016年10月20日に闘病生活は終わりを告げた。その間際にも、山中は平尾の生きざまに激しく胸を打たれている。それは、当時アメリカに留学中の大学生だった平尾の長男・昂大(こうた)との親子関係にまつわる一幕だった。

「平尾さんが闘病を始めてから、昂大君は時々日本に帰ってきては、また向こうに戻り、ということを繰り返していました。亡くなる前日、僕が出張から帰って病室を訪ねると、日本に来ていたはずの昂大君の姿がなかった。奥様に尋ねたら『先ほどアメリカに帰りました。男同士の固い握手をして、主人が帰らせました』と言うんです。僕はびっくりしました。あの時、平尾さんはまだ意識はありましたが、きょうあすに亡くなってもおかしくない状況だったんです。それなのに、握手して帰ったのか、帰らせたのかと」

「以前から、平尾さんは息子さんに『男っちゅうのは、親の死に目なんかより大切なもんがある』と言い切っていました。本当に悪い状態になっても、教育法をブレずに貫き通すんだなと。奥様もすごいし、昂大君もすごい。翌朝に亡くなりまして、昂大くんはまた、とんぼ返りで帰って来ました」

親友として、また一人の医師として、山中は平尾と家族に親身なアドバイスを送り続け、1年余りの闘病に最後まで寄り添った。2017年2月10日、平尾をしのぶ「感謝の集い」では、こんな弔辞をよんだ。

「きみと一緒に過ごせて最高に幸せでした。平尾さん、ありがとう。そして、きみの病気を治すことができなくて、本当にごめんなさい」

プライベートジェット貸し切り

初対談での明るい笑顔。2人の間にはいつも、笑いが絶えなかった=岡村啓嗣撮影、「友情」(講談社)より

闘病中にも、平尾と山中は対談の仕事をしたことがある。亡くなる8か月前の16年2月、神戸で開かれた会合で、主にラグビーとワールドカップのことを語り合った。仕事で対談したのは、これが最後になったけれども、それまで同様に明るく楽しく話が弾んだ。

この対談は、実現までの経緯も、山中にとって思い出深い。

「彼が、恩人のひとりから僕と対談してほしいと頼まれて『先生、こんな話あるけど、やりませんか』と誘ってくれました。一緒に仕事できる最後のチャンスかもしれないから、僕はすごくやりたかった。ただ、同じ日にアメリカで非常に大切な仕事があって、それは1年以上前から決まっていた。時差の関係で、神戸の対談の後で渡米しても、もしかしたら間に合うかなと、あらゆる航空会社の便を調べたんですが、間に合わなかった」

やむなくいったん対談を断ったが、その後、活路が開けた。

山中はある知人に思い当たった。プライベートジェットを持ち、定期的に神戸空港からサンフランシスコへ渡っているという人物だ。

「非常に重い病気にかかった友達と、最後に一緒に仕事をしたい。プライベートジェットで神戸空港から飛び立てば、アメリカでの仕事にも間に合うんです。もしかして、そのタイミングで渡米する予定はありませんか――と聞いてみました。そうしたら『分かりました。一緒に行きましょう』と言ってくださって」

一転して実現した平尾との対談を夕方に終え、その足で神戸空港へ。機内に足を踏み入れて、山中は驚いた。客室には誰もいなかったのだ。

「その飛行機に乗るのは、僕だけだったんです。僕だけのためにプライベートジェットを飛ばしてもらったおかげで、対談もアメリカでの仕事も両方、間に合いました。平尾さんが亡くなった後で、病気の友達というのが実は平尾さんだったと、その方に打ち明けたところ『そうだったんですか』と。世の中にはすごい方がおられますね。平尾さんの病状は一切口外しませんでしたが、神戸をたつ前に『重い病気というのは誰ですか』と聞かれたら正直に答えようと思っていたんです。でも、何も聞かれなかった」

平尾の声と自己ベスト

2018年11月の大阪マラソンで両手をあげてゴールする山中

一度だけ平尾とラグビーのパス交換を楽しんだ時に、山中は「先生、ヘタやな」と笑われてしまった。だが、マラソンの市民ランナーとしては「ホンマ、尊敬するわ」と一目置かれていたという。

山中は2017年2月19日に出場した京都マラソンで、54歳にして3時間27分45秒の自己ベストをマークした。走りながら、約4か月前に他界したはずの平尾の声が右耳のそばから聞こえてきた。

「ちょっとオーバーペースだなと思っていたんですが、途中から『いや先生、行ける、行ける』っていう声が聞こえてきました。声を信じて、そのままのペースで行ったら、本当に行けちゃって。自分では絶対に切れないと思っていた3時間30分を切ることができました。その前の大阪マラソンでは、平尾さんは出てきてくれなくて、途中でバテました。やっぱり生まれ育った京都には出てきてくれるんか、と思いましたね」

最近の山中は、各方面からの要請もあって、2018年11月に大阪、19年2月には京都、3月には東京と、マラソンを立て続けに3本も走り、好記録で周囲を驚かせた。レースのたびに平尾の記憶を呼び覚まし、心中に響く声と語らいながら走るのが習慣になっている。

「2年前の京都は、頼みもしないのに……、いや頼みもしないのになんて言ったら大変失礼ですけど、平尾さんが出てきてくれて声が聞こえました。今は自分が苦しくなったら、闘病中の平尾さんを思い出すようにしています。こんなことには負けてられへんと思えますので。まあ、平尾さんに強制的にマラソンに出場してもらっているわけです」

平尾を心のよりどころにするのは、マラソンの時ばかりではない。つらいことや大問題が起きると、思い出すようにしているという。

昨年1月、京大iPS細胞研究所の研究者がアメリカの科学誌に発表したiPS細胞に関する研究論文に、捏造や改ざんが発覚した。不正があった論文の研究費には、研究所に集まった寄付金が使われていた。監督責任を問われて処分を受けた所長の山中は、さらに自身の給与相当分を研究所の基金に寄付することにした。

「こういうことがあると、『平尾さんやったら、どうするかな』と考えますね。大問題なんて、あんまり起こってほしくないですけれども。平尾さんの周りにはいろんな組織のトップの方々が集まっていました。彼だったらどうするかと考える人は、僕だけじゃないでしょう。彼に影響を受けた多くの人が、そう思うことがあるはずです」

友が夢見たW杯、スタジアムで観戦へ

山中の研究室には今も、平尾からプレゼントされたサイン入りのジャージーやボールが飾ってある

ラグビーW杯日本大会の開幕が、今月20日と目前に迫った。W杯の試合会場であり日本ラグビーの聖地の一つでもある東大阪市花園ラグビー場は昨年、平尾を「感動大使」に、山中を「応援大使」に任命した。

現在の日本代表は、平尾が監督を務めた1999年のW杯で選手として奮闘したジェイミー・ジョセフが、ヘッドコーチとして指揮を執っている。チームは7~8月、フィジー、トンガ、アメリカと骨のある相手に3連勝してパシフィック・ネーションズ杯で優勝するなど力をつけてきた。W杯では、8強による決勝トーナメント初進出へ、ファンの期待を背負って戦う。

「平尾さんは、ラグビーに関して非常に辛口でした。2015年の前回W杯で日本が南アフリカに勝った試合についても、『相手が油断していた。ジャパンの真価が問われるのは日本大会だ。いろんな国が本気で来るから』と言っていました。前回のW杯前、日本代表がどんなに厳しい練習をしていたかを彼は知っています。それだけ練習して、ようやくあそこまで行った。今回は世界を相手に、それ以上の成績が求められるわけですね。今の日本代表選手は期待に応えて努力をされてきたと思います。W杯では、その活躍を見届けようと思っています」

山中は平尾の家族と一緒に、スタジアムへ足を運んで観戦する予定だ。

「彼の闘病は、ちょうど4年前のW杯の頃からです。あれからもう4年もたつなんて、本当に信じられない。W杯はもちろんたくさんの人の努力があって日本で開催できるわけですけど、やはり彼の貢献は大きかったんじゃないかなと思っています。彼を尊敬しているラガーマンは、世界中にたくさんいますから。平尾さん、日本でのW杯を見たかったと思います。まあ、きっとどこかで見ていると思います」

(文中敬称略、読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやワールドカップ2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。

平尾誠二(ひらお・せいじ)

2015年9月8日、読売新聞のインタビューに答える平尾。この4日後、大病が判明した

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初(当時)の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。

同志社大2年の1982年、当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表キャップを獲得。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。

97年に日本代表監督就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。神戸製鋼ゼネラルマネジャー、日本ラグビー協会理事、日本サッカー協会理事、ラグビーW杯2019組織委員会理事なども歴任した。享年53歳。

山中伸弥(やまなか・しんや)

2019年4月、新元号に「令和」を選んだ有識者の懇談会に出席する山中

1962年9月4日生まれ。大阪府東大阪市出身。神戸大医学部卒。大阪市立大助手、奈良先端科学技術大学院大助教授、教授を経て、2004年から京都大教授。10年から同大学iPS細胞研究所長。07年から米サンフランシスコのグラッドストーン研究所上席研究員も務める。

iPS細胞を作製した業績で2012年、ノーベル生理学・医学賞を受賞。中学、高校では柔道、大学ではラグビーに打ち込み、10回以上骨折を経験。その度に整形外科の世話になり、大学卒業後は整形外科医を目指した。花園ラグビー場がある出身地の東大阪市名誉市民で、W杯の周知などを担う同市の「花園応援大使」を務める。インタビューの紙面版記事はこちら

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