平尾誠二を語る(最終回)自由な父、ワールドカップ会場にいるんじゃないかな

長男・平尾昂大(25)

優しくほほ笑む平尾誠二(左、1995年撮影)と、平尾が31歳でもうけた長男の昂大(2019年9月2日撮影)

2015年のラグビー・ワールドカップ(W杯)イングランド大会で、日本が南アフリカを破った頃、平尾誠二はすでに病魔に侵されていた。

予定していた渡英はキャンセルせざるを得なかったが、9月19日に起きた「ブライトンの奇跡」と呼ばれるスポーツ史上屈指の番狂わせに勇気づけられ、「俺もこれから、ますます忙しくなるぞ」と、W杯日本大会への意欲をみなぎらせていたという。しかし、2016年10月、夢であり目標であった大会の開催を目にすることなく、この世を去った。

そして、2019年9月20日。長男の昂大(こうた)は、東京スタジアム(東京都調布市)の観客席にいた。日本が30―10でロシアを下したW杯日本大会の開幕戦を、父の親友でノーベル賞医師の山中伸弥と席を並べて観戦した。

「試合中、思わず辺りを見回してしまいました。観客席のどこかに、父が座っているんじゃないかな、と思えてならなかったから。いつものように、脚を組んで。山中先生も『なんだか平尾さんがいるみたいな気がするなぁ』とおっしゃったので、あぁ先生も思いは同じなのだと、顔を見合わせてうなずきました。もちろん、ついに日本で開かれたW杯を父に見せてあげたかったなというのが、本音ではありますけれども」

山中亮平の復活に感激

ワールドカップ日本大会の開幕戦に途中出場し、ボールを持って突っ走る山中亮平(2019年9月20日、東京スタジアムで)

日本代表戦を「よっしゃ!」「あぁ、もう!」などと声を上げて見守っていた父の分まで目に焼き付けようと、昂大は手に汗握ってグラウンドを見つめた。開幕戦の緊張からミスが相次いだ序盤は、やきもきしたが、前半の半ば以降に見せたトライの連続に、気持ちは盛り上がった。

最もうれしかったのは、山中亮平(神戸製鋼)が終盤に出場したことだ。巧みなステップと、よく伸びるキック。神戸製鋼のゼネラルマネジャー(GM)だった父が、この選手について話していたのを、昂大は覚えている。山中は神戸製鋼に入って間もなく、口ひげを生やすための育毛剤がドーピング違反になって2年間、プレーできない時期があった。

「あの頃、父は『アホやなぁホンマ、って思うけど、してしまったことはしゃあない。本人が一番つらい』と話していました。即戦力として期待していただけに、よほど悔しかったのか、電話でどなたかと対応を相談していた姿も記憶にあります。だから僕も、W杯で山中選手の雄姿を見ると、すごくテンションが上がりました。少し離れた席にいた母とも、一緒に喜び合いました」

外回りの営業マンの仕事で日焼けした顔をほころばせ、昂大は、こう続けた。

「満員のスタジアムにも、すごく感動しました。ラグビーファンとして、希望が湧いてくる光景でした。このW杯をきっかけに日本でラグビーが文化として根づくことを願っています。それが父の夢でした」

東京スタジアムでの開幕戦は、満員の熱気に満ちた(本紙ヘリから)

父と子のキャッチボール、思い出の散歩道

読売新聞オンラインのインタビューに答える平尾昂大(9月2日)=風間徹也撮影

昂大が物心ついた頃、平尾はすでに現役を引退して神戸製鋼の指導者になっていた。平日は練習場に、休日は試合会場に行くことがほとんど。父と息子が一緒に過ごす時間は短かった。

「家族そろって、というところに父がいないのは、当たり前でした。同年代と比べて、父親との接点は少なかったかもしれません。あまり教育熱心ではなかったような気がします」

最も古い父の記憶は、真夜中に帰宅して子供部屋のドアを開ける姿だ。

「パッと廊下の光が顔に当たって、目に入ってくるような感覚です。5秒間くらい開けて、僕の顔と寝ている姿を確認してくれる。そして、声も掛けずにドアを閉めるんです」

3、4歳の頃は、夏が来ると平尾に朝4時半頃起こされ、5つ年上の姉と一緒にカブトムシを捕りに出かけた。たくさん捕れると、自分や姉よりも父が一番喜んでいた。昂大は昆虫が苦手だが、喜ぶ父を見るのが好きだった。

小中学校時代はよく、散歩のお伴をした。平尾は、歩くのが大好きだった。

平尾と昂大がボール遊びをした公園

「父が起き出す時刻は日によってまちまちでしたが、新聞を読んで朝食をとった後、庭でゴルフの素振りをする習慣がありました。僕は、2階の窓から素振りが始まるのを見て、散歩に行くスタンバイをします。門がガランと開く音がしたら、それが散歩に行く合図でした。父は歩きながら、いつも何かを考えている人だったので、歩いている間は話しかけないほうがいいかなと、僕は思っていました。だからあまり会話はありませんでした」

いつも同じ道、というのは平尾の流儀に反する。気の向くまま、日ごと、違うルートを歩いた。どこを通るにしても、近所の公園には必ず寄った。小学生時代は野球少年で、中学時代はバスケットボール部員だった昂大は、散歩にボールを持っていった。公園内のささやかな広場で、父とキャッチボールやパスの練習などを楽しんだ。

真っ黒チャーハンと夜のラーメン

時々、平尾は料理の腕をふるった。なかなかの腕前だったらしい。

「まず、僕に冷蔵庫の中身を調べて報告させます。そして『よし、全部冷蔵庫から出せ。俺が今から、うまいもん作ったる』と宣言して、作り始めるんです。小学生の頃に作ってもらったチャーハンは、忘れられません。何やらいろんなスパイスが入っていたらしく、真っ黒でした。『これが俺のスパイシー・チャーハンや!』なんて言いながら、テーブルにドンッと置く。あれが一番、おいしかったなぁ。ただ、作って食べるだけで、あちこち散らかしてそのままにするから、後片づけする母が大変なんですけれども」

中学3年生くらいになると、翌日が休みの午後11時か12時頃に「昂大、ラーメン行くか」と声が掛かった。行くのは、お気に入りだったとんこつラーメンの店。家から決して遠くはないが、歩いて行くのはちょっと無理な場所にある。平尾は運転免許を持っておらず、家族で当時、車の運転ができたのは一人だけだった。

「母に、店まで車で送り迎えしてもらっていました。僕らがラーメンを食べている間、母は車の中で待機しているんです。父は『これうまいなぁ、替え玉いくか?』と、満足そうに食べていました。実は僕、夜遅くに食べるのはあんまり好きじゃないのですが、父は替え玉をほとんど食べず、結局僕が食べることになりました」

父と子の、屈託のない笑顔が、目に浮かぶようだ。

父の叱責「人に迷惑をかけるな」

日本代表監督時代、スタンドで試合を見つめる平尾。左隣は親交のあったサッカーの岡田武史・元日本代表監督(1998年9月15日)

昂大が平尾から言い聞かされていたのは「人に迷惑をかけるな」と「話をするときは相手の目を見て話せ。聞くときは目を見て聞け」という、ごく基本的な教えだけだった。平尾は、自らの考えを押しつけることを嫌い、子どもたちの自主性と主体性を育もうとした。

「どのスポーツをしろとか、ラグビーをやれとか、勉強しろとか、そういうことを絶対に言わない父親でした。いつも『人から言われて物事をやっているようでは成長しない。好きなことをやったらエエよ』と言われていました」

ほとんど怒られた記憶はない。だが、小学6年生の時に一度だけ、烈火のごとく怒られたことがある。

「あの頃、野球をやっていたんですけど、勉強と両立するのが難しくなって、試合の朝に泣きながら『もう野球には行かない』と、母に訴えたんです。そうしたら父が『野球はチームスポーツや。お前が休めばチームに迷惑をかける。人に迷惑をかけるなと言ってきたやろ』と。お尻を蹴っ飛ばされました。あんなに父が怒るのは、初めてでした」

力でたしなめたのは、平尾なりの意図があってのことだったようだ。

「悪いことをしたら、たたいたらいい。その代わり、心は傷つけるな。身体の傷は治っても、心の傷はなかなか治らない。そう言っていました。母からは僕、よく叱られていましたよ。叱られた後で、父が母に『怒るの長いなぁ。そんなん、ひとことでエエねん』って言っていることもありましたね」

スターの息子、重荷にならず

日本ラグビー界きってのスター・平尾誠二の息子。そんな立場で少年時代を過ごすのは、なかなか大変そうに思える。周囲からの過度な期待に悩んだことはなかったのか。プレッシャーで息苦しくなるような時期を、経験してはこなかったのか。

そんな問いに、あっさり答えられるのが、伸び伸びと育った昂大の持ち味だ。

「父は目立つのが嫌いな人で、それほどテレビに出ていたわけでもありませんからね。僕の周りには、父を知らない友達も多かったですよ。何よりも僕自身が、子どもの頃は父のすごさを分かっていませんでした。だから、平尾誠二の息子っていわれても『ん? だから何なの』っていう感じでした」

SCIXでラグビーを指導する平尾(右端)

もちろん、プレッシャーを感じた時期が、なかったわけではない。高校1年生の夏からアメリカへ留学する前、2か月間だけ、ラグビーをプレーした時のことだ。父が創設した総合型地域スポーツクラブ「SCIX(シックス)」に通った。他の競技ならともかく、父と同じスポーツとなれば……。

「運動神経がいいのだろうと、周りから変に期待されるんじゃないか。そんな不安を、通い始める前はすごく感じました。でも、行ってみたら、SCIXの指導者のみなさんが温かく迎えてくれて、その後も何かと気を使ってくれました。深く悩むようなことはなく、楽しくプレーできました。『ラグビーをやれ』とは言われなかったけど、僕がSCIXでラグビーをしたことを、父はうれしがっていたようです。母の前でとても喜んでいたと聞いています」

アメリカ留学と秘伝のステップ

昂大がアメリカへ交換留学に出たのは、高校1年生の8月からだ。自身もイギリスへの留学経験を持つ平尾から「若い時に異国の文化を学ぶのはいいことだ。行ってきなさい」と、背中を押された。

当初の予定では、高校卒業後に日本へ帰ってくるはずだった。しかし、大学もアメリカに残って選びたいという気持ちになった。昂大は結局、10代から20代にかけての計7年ほどを、家族と離れてアメリカで過ごした。ファイナンスを中心とする経済系の学問に励み、ラクロス、バスケ、レスリングなど様々なスポーツを楽しんだ。

一度だけ、昂大は平尾から、ラグビーの技術を伝授されことがある。

「留学中に一時帰国した時、内側に切り込んで相手を抜き去るステップのコツを、教わりました。現役時代の映像を見ると、父が得意としていたテクニックですよね。『こんなふうに、脚を残す感じにするのがコツや。そうしたら、相手が動く。そこで最後に脚を上げるのが大事やねん』と、実演しながら説明してくれました。なるほどな、と思いましたよ。でもね、僕はアメリカではラグビーをする機会がなかったんです。もう少し早く教えてくれたら良かったのに、と思いましたね」

父に教わったステップの再現を試みる昂大

涙の電話「親の死に目に会えると思うな」

平尾に胆管細胞がんが見つかったのは、2015年9月。昂大は米国の大学に留学中だった。夏休みを日本で過ごし、アメリカに戻ったばかりのタイミングで、スマートフォンに「いつ日本に帰って来る?」というメッセージが、母から届いた。

「ついこの前まで日本にいたのに、おかしな内容やなと思ったんです。その時に想像したのは、祖父か祖母が病気になったのではないかと。それが最悪のことだと予想したんです。まさか父が、がんとは。さらに母から『もう年内もたないと言われた』という連絡もありました。悪夢を見ているとしか思えなかった。夢、夢、絶対に夢だから、きっと目が覚めると」

その後、9月のうちに国際電話で話をした。平尾は当時、周囲の多くに病状を隠したまま、仕事を続けていた。通話した時は、妻の運転する車に同乗して神戸製鋼の練習に行く途中だった。

「母に電話したら、隣に父もいたんです。代わってもらったら『男は親の死に目に会えると思うな。だから帰ってくるな』と言うわけです。僕は泣きながら『仕事はもういいから、治療に専念してくれ』って頼みました。そうしたら『俺は死なん。心配するな』って。その時、父も涙を隠して声を詰まらせていたようですが『このことは昂大には言うな』って母にくぎを刺したようです」

敗戦に腹をたてられるほど元気だったのに

東大阪市花園ラグビー場のミュージアムには、平尾の遺品が展示されたコーナーがある

翌月、昂大は事前に連絡せず、帰国した。

「サプライズで帰ったら、父が喜んで、免疫力も上がるかなと思って。会ってみたら、やせてはいましたけど、元気そうでした。『なんで帰ってきた?』って、ポカンとしていました。『飛行機代、誰が払うと思ってんねん』と、笑いながら突っ込まれました。声も出ていたし、焼き肉も食べたし、年内もたないと言われたことがうそのようでした」

いったん、アメリカに戻り、12月に再び帰国した際は、ノエビアスタジアム神戸で、神戸製鋼とトヨタ自動車の一戦を、同じスタンドで観戦した。

「トヨタに(2532で)負けました。父は腹をたてていましたけど、『これだけ怒れるんやったら、俺もまだ元気やな』なんて言っていました。僕のほうは、負けて父のストレスがたまったら、がんが大きくなってしまうんじゃないかと、気が気じゃなかった。だからトヨタにトライを取られるたびに、上の方の席に座っている父の顔色を見ていました。『神戸製鋼、しっかりしてくれ!』って、懇願するような気持ちでした」

病状に深刻さが増したのは、翌2016年4月頃からだった。昂大はアメリカから急きょ帰国し、夏休みが終わるまでの5か月ほどを日本で過ごした。再度渡米したが、容体が悪化したと聞いて10月12日に日本へとんぼ返りした。

「父には、就活のために帰国したと伝えていました。変に思われてはいけないので。僕が会った時は、病院のベッドに持ち込んだiPadで神戸製鋼の試合を見て『この選手、いい動きしてる』なんて言ったりしていました。『昂大、買ってきてくれ』と頼まれた『ガリガリ君』のアイスも食べていました」

大学の卒業試験のために、昂大が日本を離れる日が迫っていた。10月19日、父と息子は握手をして別れた。別れ際は手を握り合うのが習わしだったが、これが最後になった。

「あの時、僕は『アメリカからやったら12時間で帰って来られる。飛行機に乗ったら一瞬や。なんかあったら絶対帰ってくるから、遠慮なく連絡してや』と、お願いしました。涙を拭って向き直った僕を、父は『なんで泣いてるんや』って、不思議そうな顔で見ていました。『じゃあ、帰るわ』と握手して……」

息を引き取ったのは、翌日だった。アメリカに着いて間もなく、母から電話で知らされた。「親の死に目に会えると思うな」と言われたその言葉が、現実になってしまった。心ここにあらずで卒業試験をこなし、父のもとを目指した。顔を合わせられたのは、通夜の終わり頃だった。

「ありえないと思いました。死ぬなんて。その気持ちは今でもあります」

4つの気がかり

平尾の遺影を手に、18季ぶりの日本一を喜ぶ神戸製鋼フィフティーン(2018年12月15日撮影)

闘病中に平尾が気にかけていたことが4つある。W杯日本大会の成功。昨年12月に18シーズンぶりで実現した神戸製鋼の日本一。親より先に逝くことの申し訳なさ。そして妻のことだ。

「母に『どんなことがあっても、あと3年頑張って生きるから、それで許してほしい。3年もあったら大丈夫やろ。好きなように生きさせてくれてありがとう。本当に感謝してる。お前のために、治療頑張るわな』と言ったそうです。父が逝ったのは、がんと分かってから1年1か月後でした。遠征や海外出張の時、僕や姉にお土産がなくても、必ず母には買ってくる。誕生日や記念日じゃなくても、年に数回は母に花を買ってくる。そんな父でした」

思い出のスタジアム、よみがえる父の姿

ノエスタの正面玄関先にある平尾誠二の足形の前に立つ長男の昂大(2019年9月2日)

W杯日本大会の開幕を控えた今月2日、昂大は大会の試合会場の一つでもあるノエビアスタジアム(神戸市御崎公園球技場)で、読売新聞オンラインのインタビューに応じた。

昂大にとって、ここは高校1年生の頃、初めてラグビーを生で観戦した地だ。客席まで届く「バチン」と体がぶつかり合う音に魅了され、それからノエスタや東大阪市花園ラグビー場での神戸製鋼の試合に足しげく通うラグビーファンになった。

ノエスタでは、W杯に向けて芝の養生が進められていた。初めて足を踏み入れたグラウンド脇から観客席を見上げた昂大は、あちこちを指さしながら、声を弾ませた。

「きれいですね、こんなふうに見えるのか。ノエスタで試合がある時、僕はバックスタンドから入って、客席をぐるっと歩き、父の座っているメインスタンドまで行くんですよ。目が合って、僕が軽くあいさつすると、父って結構、目をそらしちゃうんです。なんか、恥ずかしかったんでしょうね。ニコッとしてくれる時もありましたけど」

ノエスタのメインスタンド奥には、監督やコーチらが屋内からガラス窓越しに試合を見られるチーム関係者向けの席もある。だが、平尾GMはいつも、外の席で一般客に交じって観戦していた。関係者席に座らないのは、平尾なりのこだわりと配慮があってのことだった。

「関係者席で試合を見ていた父が『あいつはアカン』みたいなことを、思わずつぶやいたらしいんです。そうしたら、隣でそれを聞いていたヘッドコーチが、その選手を交代させてしまった。コーチではないGMの自分の意見が、ヘッドコーチの意見をかき消してしまうのは良くない。それ以来、関係者席から離れて座るようになったと話していました」

もっと話を聞きたかった

ノエスタは2002年のサッカーW杯に合わせて、神戸製鋼と大林組のジョイント・ベンチャーが設計と建設を手掛けたスタジアムだ。プロジェクトチームには平尾も名を連ね、アスリートの目線で様々なアイデアを出した。例えば、グラウンドとスタンド最前列の段差が1.8メートルと低く、他のスタジアムよりも選手と観客が握手やサインで交流しやすくなっているのは、平尾の助言が採用されてのことだ。

父が設計に関わったスタジアムだということは、うっすらと知っていた昂大だが、詳しい話を聞かされたことはなかった。

「そんなことを父は気にしていたんですね。あんまり僕には、自分の話をしませんでしたから。でも、すごいな。そんな話、もっと聞いておけばよかった」

ノエスタのグラウンド脇で思い出を語る昂大

生き続ける平尾誠二

昂大はアメリカの大学を卒業してから、日本に戻ってビジネスマンになり、平尾家で暮らしている。平尾が過ごした部屋は、今もそのままにしてある。リビングで一人、葉巻をくゆらせ、顔を赤らめながらウイスキーをロックで飲んでいる父の姿が、脳裏に浮かぶ。それは、平尾にとって一番リラックスでき、いいアイデアが浮かぶ貴重な時間だった。

「僕、父とお酒を飲んだことがないんです。社会人になったのも、父が亡くなってからでしたから、仕事の話もできなかった。GMって選手をリクルートしますよね。その交渉って人対人じゃないですか。僕が今やっている営業の商談も、人対人。こういう時はどうするかというアドバイスがほしかったなと思います。お酒を一緒に飲みながら、話を聞いてみたかった」

「それでも、父の親友だった方々には、ゆかりのお店に食事やお酒を飲みに連れて行ってもらうことがあります。父が僕たち家族に残してくれたもの。それは人かもしれません」

W杯開幕戦の客席で気配を感じたように、玄関でガチャンとドアを開ける音がして、父が家に帰ってくる気がすると昂大はいう。形ある存在としての平尾は姿を消したが、その精神は多くの人々の中に生き続けている。ただ、人によって思い浮かべる平尾の像は様々だ。そこが、現状維持を拒み、常に独創的な新しさを追い求めた平尾誠二らしさである。(文中敬称略。読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやワールドカップ2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫った。

神戸製鋼が7連覇を決めた日本選手権で、大東大からトライを奪う平尾(1995年1月15日撮影)

平尾誠二(ひらお・せいじ)

1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初(当時)の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。

同志社大2年の1982年、当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表キャップを獲得。通算35キャップ。W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。

97年に日本代表監督就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。神戸製鋼ゼネラルマネジャー、日本ラグビー協会理事、日本サッカー協会理事、ラグビーW杯2019組織委員会理事なども歴任した。享年53歳。

■平尾昂大さんが連載に寄せたメッセージ
人は死んだら忘れられていくものなんや――と、父は話していました。ところが、亡くなって3年も過ぎようとしているのに、ワールドカップを機に、たくさんの人が父のことを思い出してくれています。家族として、こんなにうれしいことはありません。ありがとうございます。

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