東日本大震災

3.11 「あの日」からの10年<上>

読売新聞オンライン
制作・著作 読売新聞

 2011年3月11日に発生した東日本大震災。東北地方太平洋側の沿岸各地を襲った大津波、そして福島第一原発事故。「あの日」からの10年を写真で振り返ります(2021年3月2日公開)。
読売新聞写真部

子どもをおぶった女性が、暗いトンネルを歩いていた。たくさんの人たちが、荷物を抱えたり手を取り合ったりしながら、長い線路を通り過ぎていった(2011年3月17日、宮城県気仙沼市)=池谷美帆撮影

幼稚園にいた長男の頼音(らいと)君の安否が分からず、がれきの中で立ちつくす杉本優子さん。発生から3日後、幼稚園の先生らと避難していた頼音君と再会できた(2011年3月13日、宮城県石巻市)=大久保忠司撮影

平塚義勝さんは母と妻の遺体の傍らで泣き叫んだ。ともに津波にのまれた2人を助けることができなかった。一緒に暮らしていた長男は行方不明となった(2011年3月17日、宮城県女川町)=関口寛人撮影

雨の中の一時帰宅を終えた住民ら。希望した76世帯130人が一時帰宅し、住民からは警戒区域の早期解除を求める声が相次いだ(2011年5月22日、福島県田村市)=里見研撮影

地元の消防団によって続けられる捜索活動。ぬかるんだ地面に無数の足跡が延びていた(2011年3月20日、岩手県陸前高田市)=上甲鉄撮影

がれきの中、行方不明者を捜す自衛隊員。震災から1か月が経過しても1万5000人以上の行方がわからないままだった(2011年4月10日、宮城県東松島市)=冨田大介撮影

地震から68時間後、生後4か月の赤ちゃんは両親とともに津波に襲われた住宅から救助された(2011年3月14日、宮城県石巻市)=関口寛人撮影

長男と父の行方を捜す小西康弘さん。原発からは30キロ圏内。自衛隊や警察の捜索も十分ではなく、避難先から連日通って、手がかりを探し求めた(2011年4月8日、福島県南相馬市)=清水健司撮影

津波で流され、回収されたランドセル。震災から半年が過ぎたが、引き取り手が現れず、学校に残ったままだった(写真の一部を修整しています。2011年9月11日、宮城県名取市)=中村光一撮影

紫桃(しとう)さよみさんは、宮城県石巻市立大川小5年だった次女の千聖(ちさと)さんを失った。震災前日に娘が着ていた洋服を手に取り、顔を埋めた(2011年5月5日)=関口寛人撮影

震災から1週間。発生時刻の午後2時46分に合わせてサイレンが鳴り響いた。変わり果てた風景の中、手を合わせて黙とうする親子の姿があった(2011年3月18日、岩手県陸前高田市)=上甲鉄撮影

多くの犠牲者を出した岩手県大槌町赤浜地区。民宿に乗り上げたままの遊覧船「はまゆり」の上には、満天の星が広がっていた(2011年4月29日)=中村光一撮影

津波にのまれ、焼け焦げた日和幼稚園の送迎バスの前で手を合わせる女性。バスでは園児5人が犠牲になった(2011年3月22日 、宮城県石巻市)=三浦邦彦撮影

津波で行方不明になった長男が最後に働いていた郵便局跡に、佐藤一夫さん(左)と妻のトシ子さんは花を手向けた(2017年2月11日、福島県浪江町)=三浦邦彦撮影

津波に耐え、復興の象徴となった福島県南相馬市の「かしまの一本松」は17年末に伐採された。新たに整備された防災林には、一本松の松ぼっくりから生まれた苗木を含んだ約700本が育っている(2017年10月2日)=冨田大介撮影

避難していた多くの住民が犠牲となった市民体育館。がれきや毛布が散乱したままの薄暗い館内で、友人を亡くした女性が花束を手に立ち尽くしていた(2011年9月11日、岩手県陸前高田市)=上甲鉄撮影

原発事故で計画的避難区域となった福島県飯舘村では、降りしきる雪の中、作業員らによる除染作業が続けられていた(2012年1月6日)=関口寛人撮影

酪農家の女性は、乳牛の首にはめていた金具を外した。福島県飯舘村は計画的避難区域となった。大切に育てた牛は避難先へ連れて行けず、やむを得ず食用に処理された(2011年5月18日)=上甲鉄撮影

かつての農地に強風が吹き付け、砂ぼこりが舞う。警察官たちは口元を覆った防寒装備とゴーグルをつけ、行方不明者の捜索を連日続けていた(2013年1月4日、宮城県石巻市)=冨田大介撮影

計画的避難区域となった福島県飯舘村で、除染作業する自衛隊員。敷石の間の草や土を取り除く地道な作業が黙々と続けられた(2011年12月11日)=宇那木健一撮影

除染のため樹皮を削り取られた柿の木。放射性セシウムが検出されて収穫できず、熟れきって黒ずんだ無数の実が下がっていた(2012年1月19日、福島県伊達市)=上甲鉄撮影

津波で流された自宅前で献花し、手を合わせる木村巴さん。夫と息子の妻を亡くし、7歳だった孫は行方不明となった(2012年3月11日、福島県大熊町)=林陽一撮影

避難指示解除準備区域に指定された福島県南相馬市小高区中心部は、時が止まったようだった。店舗は全て閉じられ、郵便ポストの口は塞がれていた(2013年2月18日)=鈴木毅彦撮影

行方不明の夫への思いをカレンダーの裏に書き続ける熊谷幸子さん。震災から5年を前に、その枚数は100枚を超えた(2015年11月21日、岩手県陸前高田市)=三浦邦彦撮影

小さな浜の集まる牡鹿半島。大人たちが復旧の努力を続ける中、子どもたちも手を取り合い、避難生活を送った(2011年4月17日、宮城県石巻市)=冨田大介撮影

50人以上が犠牲になった福島県南相馬市鹿島区南右田(みなみみぎた)地区。復興祈願には地元住民約30人が参加し、響き渡るほら貝の音色に復興への願いを重ねた(2015年3月11日)=清水健司撮影

震災から半年を前に、鎮魂の願いを込めた灯籠約1000個が夜空に放たれた。約1000人の参加者が火をともすと、灯籠は潮風に乗り舞い上がった(2011年9月10日、福島県相馬市)=川口正峰撮影

【撮影】読売新聞写真部
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