第2章 

「魚湧く海」の苦難と歴史

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制作・著作 読売新聞東京本社・西部本社 熊本県民テレビ

豊かな海の恵みを受けて暮らす水俣の人々。漁業に従事する人が多かった。写真は水俣市立水俣病資料館所蔵、1969年撮影。

チッソ(創業当時は日本窒素肥料)の工場ができて海辺の町の様子は変わり、「チッソ城下町」が形成されていく。1932年にプラスチックの製造に使うアセトアルデヒドを作り始め、その製造工程で出たメチル水銀を無処理で海に流して水俣病を発生させた。写真は1967年のチッソの工場と水俣市街地。

原因不明の病気が発生したと水俣保健所に届け出があった。漁民集落を中心に患者が発生し、当初は患者の家を保健所が消毒した。伝染病と恐れられ、偏見と差別が広がった。写真は水俣保健所長が熊本県衛生部長に患者発生を報告した1956年5月4日付の文書。(熊本県所蔵)

最初はネコが異常死した。魚が大量死したり、その魚を食べた鳥が空から落ちてきたりした。

チッソ水俣工場付属病院長の細川一氏が保健所に届け出た。水俣市は「奇病対策委員会」を設置。細川氏は患者宅を回り、記録をノートに残した。写真は水俣市立水俣病資料館所蔵。

1957年、熊本県は厚生省に対し、水俣湾産の魚介類に食品衛生法を適用し、販売を禁止できるか照会したが、厚生省は適用できないと回答した。食品衛生法を適用し、水俣湾産の魚介類の販売を禁止していれば被害拡大を食い止められていたという声は今もある。写真は厚生省公衆衛生局長が熊本県知事に回答した1957年9月11日 付の文書。(水俣市立水俣病資料館所蔵)

1959年7月、原因物質を探究していた熊本大学医学部が有機水銀説を発表した。

チッソは排水を混ぜた餌を与えたネコが患者と同じ症状を発症することを確認した。しかしその事実は隠され、有害な排水は流し続けられた。チッソがネコ実験に使った小屋は今も残されている。(水俣病センター 相思社所蔵)

魚が売れなくなり、漁民たちの怒りがチッソへと向かった。チッソの工場に漁民が乱入し、けが人も出る騒ぎとなった。被害者である漁民の暴力行為だけが注目され、チッソの排水が止まることはなかった。(1959年11月3日付 読売新聞朝刊)

1959年12月、チッソは排水浄化装置「サイクレーター」を設置し、排水の安全性をアピールした。しかし後に、この装置にはメチル水銀を取り除く効果がないことが明らかになった。

熊本県知事らのあっせんで、患者はチッソと見舞金契約を結んだ。年額で大人10万円、未成年3万円などが支払われたものの、契約には「将来、工場排水が原因とわかっても新たな補償金の要求をしない」との条項も入っており、患者の声は封じ込められた。写真は見舞金契約締結後の受給者証書。(水俣病センター 相思社所蔵)

見舞金契約締結後、水俣病は終わった問題とされた。2016年2月、富樫貞夫熊本大学名誉教授へのインタビュー。

患者はチッソを擁護する市民から「会社をつぶす気か」と誹謗中傷を受け、地域社会の中で孤立した。写真は熊本学園大学水俣学研究センター所蔵データベース新日本窒素労働組合旧蔵資料、1962年撮影。

熊本大学医学部衛生学教室の入鹿山且朗教授が、チッソの工場スラッジ(かす)からメチル水銀を抽出したと発表。アセトアルデヒドの製造工程からメチル水銀が発生することがわかった。水俣病研究会編「水俣病にたいする企業の責任-チッソの不法行為」より

新潟県の阿賀野川流域で水銀中毒の患者が発生していることが、新潟大学医学部などの調査でわかった。水俣病公式確認から9年、「第二の水俣病」が発生した。(1965年6月13日付 読売新聞朝刊)

1968年9月、水俣病の公式確認から12年、政府がようやく公害と認定し、原因はチッソの排水に含まれたメチル水銀と発表した。新潟で第二の水俣病が発生し、国の背中を押すことになった。(1968年9月27日付 読売新聞朝刊)

水俣病を正式に公害病と認定する政府見解を発表する園田直厚生大臣(当時)。1968年9月

患者ら112人がチッソを相手取り、損害賠償を求めて熊本地裁に提訴した。水俣病に関する初めての裁判で、チッソの過失の有無が争われた(水俣病第1次訴訟)。(1969年6月14日付 読売新聞朝刊)

チッソの責任を問い提訴した原告。2016年1月、第1次訴訟原告・上村好男さんへのインタビュー。

訴訟では1970年7月、チッソ水俣工場付属病院長だった細川一氏がネコ実験の真実を病床で証言した。亡くなる3か月前だった。裁判官は病室で出張臨床尋問を行った。

患者を支援する市民団体が結成され、チッソの労働組合も患者支援に乗り出した。裁判の原告となった患者を支援する運動が全国に広がり、各地で「怨」の旗を掲げたデモや集会が行われた。写真は1973年3月、熊本市。

1973年3月20日、熊本地裁での水俣病第1次訴訟判決の日、原告の上村好男さんは胎児性患者の長女、智子さんを抱いて入廷した。

裁判所はチッソの責任を認める判決を下した。見舞金契約は無効とし、患者1人あたり1600万~1800万円の損害賠償を命じた。(1973年3月20日付 読売新聞夕刊)

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