第3章

償いを求めて~「救済」の迷走~

YOMIURI ONLINE
制作・著作 読売新聞東京本社・西部本社 熊本県民テレビ

直接交渉によってチッソに補償を求める「自主交渉派」が東京・丸の内のチッソ本社前で座り込みを始めた。(1971年12月30日付 読売新聞朝刊)

「自主交渉派」の先頭に立ったのは川本輝夫さん(左、故人)。チッソは交渉に応じようとしなかった。写真は1973年3月28日、チッソ本社で。

1973年7月、水俣病訴訟で勝訴した原告と座り込みを続けていた自主交渉派が合流し、「東京交渉団」を結成。環境庁でチッソとの補償協定に調印した。原告以外でも認定患者に一時金や年金を支払うという内容だった。写真は調印後、当時のチッソ常務(左)と握手する田上義春・東京交渉団長。

補償協定を経て、公害健康被害救済法、のちに公害健康被害補償法によって、患者と認めるかどうかを判断する熊本県の認定審査会が設置された。認定を申請する人が急増し、その後、患者に認定された人には補償協定が適用された。写真は2007年3月の認定審査会。

「闘士」と言われた川本輝夫さん(故人)。潜在患者の掘り起こしに力を注ぎ、行政の認定制度に対抗して様々な裁判を起こした。写真は1991年4月撮影。

患者の掘り起こしや未認定患者の救済に奔走した故・川本輝夫さん。1986年~1995年の映像。

認定申請者の急増で審査が追いつかず、認定の可否が出ない人が多く存在した。認定業務の遅れは違法として、川本輝夫さんらが県を相手取って起こした訴訟で、原告側が勝訴。認定業務は結果を出すまで2年間――が目安となった。(1976年12月15日付 読売新聞夕刊)

環境庁が環境保健部長通知で水俣病の判断条件を示した。原則、複数の症状がなければ水俣病と認めないとされ、認定は「狭き門」となった。大量の「未認定患者」が生み出されることになった。写真は水俣病の判断条件について示した1977年の環境庁通知。

1974~97年、水俣湾を仕切って汚染魚を封じ込める目的で、「仕切り網」が設置された。網の効果を疑問視する声も多かったが、23年間存在した。

水俣病の病像を最大の焦点とした水俣病第2次訴訟で原告が勝訴。熊本地裁判決は、水俣病患者と認めるかどうかを審査する行政の判断条件を批判した。(1979年3月28日付 読売新聞夕刊)

1987年3月、水俣病第3次訴訟第1陣の熊本地裁判決は「防止対策を怠った」として行政の責任を認め、原告が勝訴した。しかし、被害者の救済が長期化し、原告らは和解による解決へ方針が変わっていった。

チッソの元社長と元工場長の有罪が最高裁で確定した。業務上過失致死罪を認めた1、2審判決を最高裁が支持した。四大公害で唯一、企業トップの刑事責任が認められた。(1988年3月2日付 読売新聞朝刊)

未認定患者問題を解決するための政府解決策がまとまった。1人あたり260万円の一時金支給や医療費無料の手帳配布などが主な柱となった。(1995年9月29日付 読売新聞朝刊)

1995年10月、救済されない被害者が高齢化する中、行政責任があいまいなままの政府解決策を被害者団体は受け入れることにした。

1995年10月、最大の被害者団体「水俣病被害者・弁護団全国連絡会議」が政府解決策の受け入れを決めた。政府解決策による救済対象者は約1万2000人に上った。

第3次訴訟原告団長。2006年4月、原告団長の故・橋口三郎さんへのインタビュー。第3次訴訟の原告らは政府解決策の受け入れを決めた。

水俣病問題の政治決着で、首相による初の談話が出された。しかし、行政の責任はあいまいなままだった。(1995年12月15日付 読売新聞夕刊)

2004年10月、政治決着に応じず裁判を続けた、関西在住の原告による「関西水俣病訴訟」の上告審で原告が勝訴し、国と熊本県の責任が確定した。

関西訴訟で勝訴した原告と面会する小池百合子環境大臣(当時)。2004年10月、環境省で。

2004年10月以降、関西訴訟の勝訴で政治決着による幕引きは不可能となり、再び認定申請者が増え続けた。

「水俣病被害者救済法」(特措法)が参院本会議で可決され、成立した。国の基準で水俣病と認められない「被害者」(未認定患者)の救済とチッソの分社化を盛り込んだ。(2009年7月8日付 読売新聞夕刊)

2013年4月、患者認定をめぐる訴訟で、最高裁は、症状が感覚障害のみの被害者を「認定相当」とする判断を示し、原告が勝訴した。

患者認定をめぐる訴訟「溝口裁判」で勝訴した溝口秋生さんに蒲島郁夫・熊本県知事が謝罪。2013年4月、水俣市で。