[サイエンスOpinion]遺伝子ドーピング 対応急げ

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 最近注目を浴びる遺伝子を自在に変えられる「ゲノム編集」技術は、遺伝子レベルで運動能力を不正に高める「遺伝子ドーピング」を促進しかねない。2018年に国際機関も同技術を禁止リストに加えたが、対策を講じるには課題が多い。遺伝子ドーピングは「人体改造(エンハンスメント)」そのものであり、次の夏季五輪・パラリンピックの開催国として、国民的な議論を始めるべきだ。(科学部 高田真之)

 検知困難 健康被害も懸念

 「ゲノム編集は、新しい脅威になる」。17年10月、東京大で開かれた反ドーピング研究の関係者を集めた会議で、世界反ドーピング機関(WADA)の科学部門と国際協調部門の責任者のオリビエ・ラビン氏が訴えた。WADAは翌年1月には、「スポーツの公平性を損なう」として、ゲノム編集を遺伝子ドーピングの禁止リストに加えた。

 ゲノム編集の研究は12年、「クリスパー・キャスナイン」という新技術の登場で、一気に広がった。従来よりも、狙った遺伝子を高い精度で改変でき、使い勝手が良くなったためだ。

 海外では、がんや難病患者などを対象とした遺伝子治療の臨床試験に、ゲノム編集が導入されている。ウイルスなどを使って体の中に遺伝子とゲノム編集に使う酵素を入れ、体内で遺伝子改変する手法だ。日本でも今年4月、受精卵の遺伝子操作を除き、ゲノム編集を使った遺伝子治療の臨床研究が解禁される。

 この技術は遺伝子ドーピングにも転用できる。

 たとえば、遺伝子の変異で筋力が低下する「デュシェンヌ型筋ジストロフィー」の治療法開発に向け、動物実験で遺伝子を修復する試みが行われているが、人間の筋力向上にも応用できる可能性がある。持久力を高めたいなら、酸素を運ぶ赤血球の機能を高める遺伝子改変が、検討されるだろう。

 WADAはクリスパー・キャス9の普及で、こうした不正行為が現実化することに強い危機感を持った。

          ◇

 これに対し、国内では楽観論がある。多くの専門家は「選手の健康に配慮しながら遺伝子を正確に変えることは、専門施設と専門家なしにはできない」という。つまり現段階では実現しないという見方だ。

 そもそも選手クラスの運動能力を、さらに高める遺伝子を探す必要がある。複数の遺伝子が関与しているなら、効果的な組み合わせを探らねばならない。

 今年1月に開かれた遺伝子治療の臨床研究を審議する厚生労働省の部会で、遺伝子改変による人体改造が話題になった。ここでも安全性や倫理的な問題などから、「研究の申請があっても承認されないだろう」との見解で落ち着いた。不正行為のためか議論が深まらなかった。

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 それで良いだろうか。

 国家の威信をかけた五輪のような国際大会では、国家ぐるみで遺伝子ドーピングに手を染める可能性は否定できない。WADAが以前、ロシアが選手の薬物によるドーピングを主導したと断定した事件もあった。

 狙い通りではなくても、ゲノム編集することは難しくない。海外では「DIY(日曜大工)バイオ」との言葉が流布し、自分の体で実験する動画が公開されているほどだ。この簡便さが、遺伝子ドーピングの拡大を招く危険要因になりうる。

 仮に遺伝子ドーピングが行われても、現段階では検知できない。

 国内では遺伝子ドーピング対策の研究を筑波大のチームが進めている。チームを率いる臨床遺伝専門医の竹越一博・筑波大教授は、人為的に入れた遺伝子やウイルスの断片が血液に残ることに着目し、動物実験では検知できた。しかし、人間で有用性を確かめるには厳しい安全試験を経なくてはならず、容易ではない。

 現状では、不完全でも遺伝子ドーピングに秘密裏に踏み切った選手を見つけ出すことは難しいだろう。むしろ、知らぬ間に蔓延まんえんする危険性すらないか。

 ゲノム編集は、精度がいくら高いとはいえ、想定と違う遺伝子を改変してしまう「オフターゲット」という深刻な問題がある。長期的な安全性評価はなされていない。競技の公平性を欠く以前に、選手に未知の健康被害を招きかねない。

 五輪へ まず議論の場を

 こうした現実に社会の認識が追いついていない。生命倫理に詳しい宗教学者の島薗進・上智大教授は「この技術について国民を巻き込んだ議論が行われていない」と危惧する。

 脳死者からの臓器提供を可能とする法律が成立する前の1990年代、首相の下に「臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)」が設置され、医学、法曹、哲学などの専門家が「脳死は人の死か」について激論を交わした。島薗教授は「ゲノム編集による人体改造につながる生命科学も脳死に匹敵するテーマだ。多分野の専門家が一堂に会して議論し、それを国民が見えるようにすべきだ」と指摘する。

 残念ながら、国内にはそのような「場」はない。来年の東京五輪・パラリンピックは、遺伝子ドーピングの問題がクローズアップされる中で開かれる初の大会となる。科学立国を標榜ひょうぼうする開催国として、スポーツにとどまらず、最新の技術を使った生命科学がもたらす新たな問題として真剣に取り組むことを期待したい。

 ゲノムベビー 誕生

 中国人研究者が昨年11月、ゲノム編集技術で遺伝子を改変した受精卵から双子を誕生させたと国際学会で報告した=写真、AP=。科学の暴挙として世界的に批判が巻き起こるなか、現地報道によると、中国政府が今年1月に事実と認めた。ゲノム編集が注目を浴びた出来事だった。

 受精卵を使った研究について各国の対応は様々だ。日本は国の指針で受精卵の遺伝子改変の基礎研究を認めつつも、改変した受精卵を母親の体内に戻すことは禁止する方針だ。中国は妊娠目的の受精卵の遺伝子改変を国の指針で禁止し、仏独は法律で規制している。

 米国には明確な禁止規定はないものの、連邦政府は人の受精卵の遺伝子改変を伴う研究の審査に予算を使わないとしている。

 今回の事例は、病気の発症を防ぐためではなく、エイズウイルスが感染しないよう受精卵を遺伝子操作した。親が望む容姿などを持った「デザイナーベビー」の発想に近く、改めて世界的な議論の必要性が浮き彫りになった。

 【世界反ドーピング機関(WADA)】 1999年に国際オリンピック委員会から独立して設立された。世界各国でドーピングの根絶と防止活動を促進するため、国際的なドーピング検査基準や制裁手続きの統一を図る国際機関。本部はカナダ・モントリオール。正式名称はWorld Anti‐Doping Agency。

 【クリスパー・キャス9】 ゲノム編集技術のひとつ。目的の遺伝子の場所を探す「ガイドRNA」と、DNAを切断する酵素「キャス9」で、狙った遺伝子を高い精度で改変できる。ゲノム編集の応用を広げたことなどからノーベル賞候補との呼び声も高い。

437682 1 テクノロジー 2019/02/10 05:00:00 2019/02/10 05:00:00 2019/02/10 05:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/02/20190209-OYT1I50052-T.jpg?type=thumbnail

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