[地球を読む]英EU離脱 サッチャー主義の限界…細谷雄一 慶応大学教授

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細谷雄一氏 1971年生まれ。慶大大学院博士課程修了。専門は国際政治学、外交史。2010年現職。近著に「戦後史の解放2 自主独立とは何か」「安保論争」「迷走するイギリス―EU離脱と欧州の危機」。
細谷雄一氏 1971年生まれ。慶大大学院博士課程修了。専門は国際政治学、外交史。2010年現職。近著に「戦後史の解放2 自主独立とは何か」「安保論争」「迷走するイギリス―EU離脱と欧州の危機」。

 一体なぜこのようなことになってしまったのか? 英国民の多くは今、そう感じているのではないか。

 英国が欧州連合(EU)を離脱する期日まで、1か月を切った。2017年3月29日に、英国のメイ首相は、EUに離脱を正式に通知した。EUの基本条約であるリスボン条約50条で、英国は通告から2年となる今月29日にEUを離れることが規定されている。

 その際に英国とEUは、離脱の条件などを定める離脱協定と、将来の貿易関係などを規定する将来協定という2種類の協定を結ばねばならない。ところが、そのいずれもが成立する見通しが立っていない。

 現代の国家間の関係は極めて複雑となっている。英国は、EUに加盟した46年間を通じて、独仏とともにEUの中核だった。世界貿易機関(WTO)のパスカル・ラミー前事務局長は、英国をEUから離脱させるのは、オムレツの中から卵を取り出すのと同じように難しい、と述べた。

 1か月以内に協定を発効できずに「合意なき離脱」となれば、関税はもとより、制度や手続き、資格などに関する相互認証、紛争解決などの取り決めが、EUとの間に存在しないことになり、先進国がかつて経験したことのない破滅的な混乱を見ることになる。

 協定案の修正協議が続く一方、離脱期限の延期も取りざたされているが、先行きはなお不透明だ。

 こうした絶望的な混迷を生み出したのは、メイ氏自身ではない。EU残留か離脱かを問うた16年6月の国民投票で、内相だったメイ氏は、残留を主張していた。辞任したキャメロン首相の後継を決める保守党党首選挙の際にEUからの離脱方針を打ち出し、困難を承知の上で船出したのだ。

 そのメイ氏について世間では、同じ保守党出身のマーガレット・サッチャー元首相と重ね合わせる声が聞かれることがある。

 しかしながら、英国政治史上2人目の女性首相であるメイ氏は、多くの点でサッチャー氏と対極的だ。

 自らの政治信条を前面に押し出し、対決的な政治スタイルを好むサッチャー氏に対して、メイ氏はむしろ実務的であり、政策面の妥協にも躊躇ちゅうちょがない。

 いや、そうした違い以上に、重要な点に目を向ける必要がある。それはすなわち、メイ氏が苦悶くもんしながらも、EUからの離脱により、「サッチャリズムの時代」を期せずして終わらせつつある――という事実にほかならない。

 

混迷招いた思想の欠如

 メイ政権によるEU離脱が「サッチャリズムの時代」の終焉しゅうえんにつながるとは、どういうことだろうか。

 1979年にサッチャー氏が首相に就任して、今年は40年の節目の年となる。米ジャーナリストのクリスチャン・カリル氏は、著書「すべては1979年から始まった」(草思社)の中で、同年のサッチャー首相誕生が世界史の転換をもたらしたと指摘する。

 「ローマ教皇とイスラム主義者が宗教の発言力を強化するために戦ったとすれば、サッチャーの首相就任は、世界的に同じくらい深い意味を持つ新しい動きを示唆するものだった。サッチャーは『市場』の伝道師であり、社会主義を葬り、イギリス国民に起業家精神と自己信頼の価値を回復させようと固く決意していた」――と。

 政権の座に就いたサッチャー氏は、英国の保守、労働という2大政党間のコンセンサス(共通認識)でもあった福祉国家体制の根幹を破壊する。42年に経済学者ベバリッジが報告書で示して以降、「揺りかごから墓場まで」として英国に定着していた福祉国家構想を葬り去り、自由競争を正義と考えたのだ。

 市場を万能と見なし、自由主義のイデオロギーを原理主義的に信仰するサッチャー氏は、「新自由主義」と呼ばれる新しい時代の価値観を生み出した。

 そこでは、経済活動をする上での国境間の障壁を可能な限り除去する。80年代に当時の欧州共同体(EC)は、「域内市場」と呼ばれる市場統合を進めていた。それを強く促進したのが、サッチャー氏だった。

 市場の開放、国家間の関税障壁の除去、そして西側同盟の結束と、いずれもサッチャー氏が80年代に追求した政治目標だった。

 他方でサッチャー氏は、加盟国に国家主権の委譲を求める欧州の政治統合を、徹底的に嫌悪した。東欧革命が起きる1年前の88年にサッチャー氏は、ベルギーのブルージュで行った演説で、「お互いに独立した主権国家が自らの意思で積極的に協力することこそが、欧州共同体を成功裏に建設する上で最善の道となる」と語った。

 こうしたサッチャリズムに対して、メイ氏は今、正反対の方向へと動き出している。

 英国の市場を欧州大陸から切り離し、両者の間に「壁」を築こうとしている。それは結果的に、西側同盟に亀裂を招いている。

 メイ氏はまた、過度な経済の自由化と市場原理主義が貧富の格差をもたらし、社会を不安定にしていると考え、むしろ格差の解消の必要性を訴えている。

 事実、2017年6月の総選挙でメイ氏は、「一握りの特権階級のためのものではなく、英国民全員のための展望」を掲げて国民の信を問うた。ただし、結果は、保守党の大幅な議席減であり、メイ氏の惨敗であった。

 EUからの離脱をめぐる政治協議が難航し、格差解消の訴えも十分な支持を得られない中で、メイ氏はもがいている。その背景に、実務家肌のメイ氏が、サッチャリズムに代わるビジョンや思想を欠いている事実を指摘する必要がある。

 経済のグローバル化が一段と進んだ現在、国家主権に拘泥するのは無理がある。英国がかつてのように「主権を回復する」ことが、英国によるEU離脱、いわゆる「ブレグジット」の目標だとすれば、現代世界では、それはほとんど不可能だ。一方で、経済の過度な自由化が、多くの国民に不安をもたらしているのも事実だ。

 経済で自由主義を徹底しながら、国家主権を絶対視するサッチャリズムは、内在的に大きな矛盾を抱えていた。サッチャリズムが生み出した過度な貧富の格差と国民の亀裂はブレグジットに帰結した。

 だが問題は、サッチャリズムにあるのではない。現代の課題に応える「次の思想」が生まれてこないことだ。思想の貧困こそ、我々の時代の最も深刻な危機なのかもしれない。

471024 1 地球を読む 2019/03/03 05:00:00 2019/03/03 05:00:00 慶応義塾大学法学部教授の細谷雄一氏。読売新聞東京本社で。2015年9月4日撮影。同月8日朝刊[「地球を読む」新執筆者に細谷氏(社告)]掲載。大型コラム「地球を読む」の執筆者として、細谷雄一・慶大教授(44)が新たに加わります。細谷氏は国際政治学、外交史が専門で、米プリンストン大客員研究員などを歴任。安全保障問題などで積極的に論じてきました。鋭い分析と提言にご期待ください。 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/03/20190303-OYT8I50000-T.jpg?type=thumbnail

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