[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲 64<1>名人 新たな旅の始発駅
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半世紀にわたって、趙治勲名誉名人(64)は囲碁界のフロントランナーであり続けてきた。日本のトップ棋士とタイトルを争い、中国、韓国の強豪としのぎを削った。残された棋譜には、昭和・平成・令和の激動の時代が刻まれている。(編集委員 田中聡)
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1980年11月6日。第5期名人戦七番勝負第6局で、大竹英雄名誉碁聖からボクは名人位を奪取しました。来日して18年、24歳での名人位獲得でした。
《名人戦は1961年、読売新聞社主催で始まった。14期を重ねた後、朝日新聞に主催を移し、76年を第1期として始まったのが現行の名人戦だ。名人は棋聖、本因坊と並んで価値が高く、棋界ではこの3タイトルを同時に持つことを「大三冠」と呼ぶ》
名人、その道で最高峰となった人。日本だけでなく、中国でも韓国でも意味は変わりません。だからこそボクは、6歳で韓国から日本へ来た時から「名人」を意識し続けてきました。対戦相手の大竹名誉碁聖は、同じ木谷実九段門下で14歳年上。ボクが来日した時にはすでに一家をなしていた大先輩でしたが、絶対に勝てない相手だとは思っていませんでした。
それよりも、初めて2日制のタイトル戦を戦うことがプレッシャーでした。「1日目で潰れるような碁は打てない」と思いましたね。「せめて7局目までは行かなければ。0―4では(関係者に)申し訳ない」。だから、第1局(白番・趙名誉名人の中押し勝ち)で内容がよかったことが自信になりました。
タイトル奪取後のインタビューの時も落ち着いていたと思います。韓国から報道陣が大勢来ていましたね。何をしゃべったのか今となっては忘れてしまいましたが、「感無量です」ぐらいのことを言ったのでしょう。
しばらくして思ったことがあります。「想像していたよりも(名人奪取は)大したことではなかったのかもしれない」って。
子供の頃からの夢、「名人にならないと故郷の土を踏めない」と思っていた目標を達成して、ドラマや映画だったらここでエンドマークが出るのでしょうが、ボクの囲碁人生はまだまだ続くのです。タイトルは棋聖も本因坊もあるし、戦う相手もたくさんいる。
「名人になることが終着駅」と思い込んでいたのに、実際は「名人は新たな旅路への始発駅」だったことに気づいたのです。
一つの夢がかなった。でも一つの夢が壊れた――。ただ一つ、「名人」という言葉の呪縛からは解き放たれることができました。「これからは自分の人生を生きられるかもしれない」。解放感と喜びを感じました。(囲碁棋士)
ちょう・ちくん 1956年、韓国釜山市生まれ。木谷実門下。62年に来日し、68年、当時史上最年少の11歳9か月で入段。73年、新鋭トーナメントで初戴冠(たいかん)後、棋聖8期、名人9期(名誉名人)、本因坊12期(二十五世本因坊)など、史上最多のタイトル75期を獲得。