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[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<4>兄の勧め 来日決まる

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「マメ天才棋士」として新聞に紹介された5歳の趙さん(1962年6月14日付読売新聞夕刊)
「マメ天才棋士」として新聞に紹介された5歳の趙さん(1962年6月14日付読売新聞夕刊)

 囲碁を覚えたのは4歳の頃だと聞いています。囲碁が好きだった父が、教えてくれたのでしょう。その父ですが、働いている姿をボクは見たことがありません。どうやって生計を立てていたのでしょうかね。ボクに碁を教えたのも、自分自身の暇潰しを兼ねていたのではないのかな、と思います。

 父と一緒だったのか、兄と一緒だったのかは分かりませんが、近所の碁会所に、子供ながらに通うようになりました。当時のことですから、きっとそんなに強い人もいなかったことでしょう。

 近所のおじさん、おじいさんを相手に、勝ったら「天才だね」とおだてられながら、碁を始めて1年ぐらいでアマ五段程度になりました。その後、しばらくして木谷道場への入門話が持ち上がったのです。

 《木谷実九段が初めて弟子を取ったのは1933年だった。37年には神奈川県平塚市の自宅に棋士養成のための「平塚木谷道場」を開設。62年には東京・四谷に場所を移し(「四谷木谷道場」)、木谷九段が3度目の脳出血に見舞われた後の74年6月3日、道場を閉鎖した。生み出した棋士は50人以上になる》

 「日本に行かないか」と言い出したのは、兄の祥衍(日本棋院七段)です。韓国の囲碁界で活躍していた兄ですが、叔父の趙南哲(九段、韓国棋院名誉理事長、故人)にはどうしても勝てなかった。もう一回り強くなろうと、1961年に来日して、木谷九段の門下になったのです。

 ところが、兄は日本に来てレベルの差を実感してしまったんですね。当時の日本囲碁界の実力は群を抜いて世界一でした。叔父よりもずっと強い棋士がゴロゴロいた。兄は賢い人だから、「自分が今から勉強しても、追いつけるものではない」と気がついて、家に手紙を書いたんです。「ぼくはもう遅かった。治勲なら間に合うかもしれない。日本に呼んで鍛えてもらうべきだ」という内容の。

 両親は最初、猛反対していたようですが、兄の粘り強い説得に最後は承知したようです。前回話しましたが、そのころの我が家は貧しかった。兄だって別に生活に余裕があるわけではなかった。今でこそ「銭湯に行ってくる」ぐらいの気軽な感じで日韓を往復できるようになったのですが、当時はボク一人、日本に連れてくることだけで大変だったのではないでしょうか。

 そして1962年8月1日、6歳のボクは羽田空港に降り立ちました。木谷先生やおかあさま(木谷夫人の美春さん)たちが空港で出迎えてくれた写真が残っています。

 正直いうとボク自身は、このころのことをほとんど覚えていません。後で他人に「こうだった」と言われて「そうだったんだな」と思うだけです。ただ一つ、日本に来る前に、辛い韓国料理を腹いっぱい食べたことは、はっきり今も覚えています。(囲碁棋士)

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1700913 0 時代の証言者 2020/12/15 05:00:00 2021/01/12 18:29:32 「マメ天才棋士」として新聞に紹介された5歳の趙さん(1962年6月14日付読売新聞夕刊) https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/12/20201214-OYT8I50117-T.jpg?type=thumbnail

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