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[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<8>平塚時代 「親分」務め成長

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木谷先生(中央)を囲む弟子たち。最後列中央が趙さん(日本棋院提供)
木谷先生(中央)を囲む弟子たち。最後列中央が趙さん(日本棋院提供)

 プロになったボクは、子供時代とは打って変わって囲碁に精進しました。大手合おおてあいで33連勝、毎年のように昇段し、若手対象の新鋭トーナメント戦でも優勝するなど、順調な棋士生活を送っていました。

 《「大手合」は囲碁の棋士の昇段を決めるため、日本棋院や関西棋院が行ってきた対局制度。1924年の日本棋院設立時に「定式手合」として始まり、27年に「大手合」となった。戦前は囲碁の「本場所」として人気があったが、タイトル戦が主流になった戦後は徐々に時流に合わなくなり、日本棋院では2003年、関西棋院では04年に廃止された》

 木谷(実九段)先生が3度目の脳出血で倒れられたのは、1973年7月でした。それで東京・四谷にあった木谷道場をたたみ、元々のお宅があった神奈川県平塚市に戻られることになりました。それを機に兄弟子たちは独立していったのですが、ボクは弟弟子の信田成仁(六段)さんと園田泰隆(九段)さんとともに、平塚に行くことにしました。

 これがボクの大きな転機になりました。それまで道場ではいつも「末っ子」みたいな存在だったのに、この時初めて「親分」になったのです。

 おかあさま(木谷実夫人の美春さん)は先生のいる病院に行きっぱなしなので、家には木谷先生の長女の和子ねえさんとボクら弟子3人しかいない。和子ねえさんは家のことで忙しいから、弟弟子の面倒はボクが見なければいけない。自分が一番上だから、碁の勉強も余計にしなければいけない。

 時間を見つけて交代で、病院の木谷先生のところにも行きました。車いすを押して散歩したり、将棋を指したり。先生はアマチュア五段格で元々将棋は強かったのですが、病気もあってだいぶ棋力が落ちていた。将棋を覚えたばかりのボクと勝ったり負けたり、いい勝負だったんです。

 たまに来る石田(芳夫二十四世本因坊)さんや加藤(正夫名誉王座)さんといった兄弟子は将棋も強いから、先生と指すと忖度そんたくして負けてあげるわけですよ。だけどボクは弱いから、勝ち負けを調整するような「腕」がない。事情を知らない木谷先生は「治勲が一番(将棋の)筋がいい」っておっしゃっていたようですけど。

 74年の12月に独立するまで、そんな日々が続きました。当時40歳ぐらいだった和子ねえさんはボクのことを子供のように思ってくれて、とてもよくしてもらったし、師弟とはいえ、それまであまり話をすることもなかった木谷先生ともじっくりとふれあうことができました。6歳で故郷を離れたボクにとって、平塚での日々は、10歳代半ばで「家族の愛」を感じることができた日々だったのです。

 「10歳でプロ」を果たせず、がむしゃらに勉強した1年が悲壮感の中での成長とするならば、もっと人間らしいゆったりした環境の中での成長。今でもあの時代のことは、懐かしく楽しく思い出します。

    (囲碁棋士)

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使い方
1715048 0 時代の証言者 2020/12/21 05:00:00 2021/01/12 18:50:10 木谷先生(中央)を囲む弟子たち(最後列中央が趙さん)日本棋院提供 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/12/20201220-OYT8I50010-T.jpg?type=thumbnail

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