地域の底力が試される。2011年の東日本大震災とは、そういう出来事でもあった。宮城県石巻市の北端に位置する北上町十三浜相川は、海と山と人の地力で、危機に立ち向かえることを証明した。人はだれでも、自分にしかできないことを持っている。相川地区の人たちが特別だったのは、それを次々と実行に移したことだ。
Chapter 1
東日本大震災発生
東北地方太平洋沿岸を大津波が襲った
大津波に襲われた宮城県石巻市。北上川河口域は広範囲に水没した。
南三陸町の津波被害も甚大だった。その復旧には膨大な時間が必要となった。
ワカメやヒジキの養殖用ロープなどが浮かぶ相川地区の小さな湾にも最大高さ12メートルの津波が襲った。
午後3時40分頃。90世帯約350人が暮らす集落が津波にのまれ、55戸が流失、8人が亡くなり、6人が行方不明になった
内陸へつながる橋は落ち、その先にある市の出先機関・北上総合支所も全壊した。通信も途絶し、相川地区は孤立状態に陥った。
被災した住民たちは、
高台にある相川保育所に避難した。
電力と火力の調達も素早かった。たまたま相川地区を訪れて震災に巻き込まれた水道業者が発電機を持っていた。壊れた漁船から抜き取った燃料を使い、電灯をともした。
煮炊きは、乾かしたがれきの木材を燃やした。
食料は漁師の冷凍庫や被災しなかった住民から提供された。
「山から水を引いてくる」と言い出したのは、佐々木忠彦さん(77)だった。漁村は海ばかり向いているのではない。間近に山がそびえ立つような東北地方の場合は特に。佐々木さんは若い頃、地元の高台で稲作を経験していたので、水源の場所を知っていたのだ。
「知り合いに声をかけ、農業用水を引くために使う長さ2~4メートルのパイプを数百本集めてつなぎ、山奥のわき水に固定した。
震災発生から1週間後、生で飲めるほど澄んだ水がパイプを伝って、直線距離で約2キロ先の保育所に届いた。
念願だった水が確保できると、「風呂もできんかね」と希望がわいた。被災した浜には、もってこいの用具が転がっていた。養殖ワカメをゆでるタンクとボイラーだ。ベニヤ板で簡単な脱衣所も設け、4~5人が入れる立派な「共同風呂」ができあがった。
ボランティアとして現地に入った日本総研の井上岳一さん(51)は、いまも当時の衝撃が忘れられない。
「自然の豊かさと漁村の人々の手技の結晶。市街地の人々がトイレにも困って右往左往する中、人が生きるために必要な技能とは何かを見せつけられた」
住民は徐々に親戚宅や仮設住宅へと移り、相川保育所は震災から約4か月後の7月15日をもって避難所としての機能を終えた。
現在、相川保育所は本来の保育所に戻り、子どもたちが元気に育っている。