「原発から少しでも遠くへ」…双葉「町ごと県外避難」[記憶]<2>
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東京電力福島第一原発が立地する福島県双葉町は、2011年3月の原発事故で、自治体として唯一、県外に町役場ごと避難した。

当時は7140人が住んでいた。原子炉建屋の水素爆発が相次ぎ、放射線量が上昇するなか、町を突き動かしたのは「原発から少しでも遠くへ」という切迫した思いだった。最初の爆発から1週間後の3月19日、住民約1200人が大型バスなどに分乗して、福島を後にした。
向かった先は210キロ離れた埼玉県だ。さいたま市の「さいたまスーパーアリーナ」から、3月末には加須市にある旧県立高校の町役場兼避難所へ移り、被災者たちは畳を敷いた教室に集団で3年近く暮らした。
なぜ県外へ。それもなぜ埼玉だったのか――。関係者の証言から浮かび上がるのは、町長の孤独な決断と、紙一重でつながる幾つもの偶然だった。
被曝の恐怖 苦難の移動
2011年3月11日、東日本大震災の津波と東京電力福島第一原発事故で被災した福島県双葉町。情報が寸断された状況下で、複合災害に見舞われた原発立地町のトップが選んだのは、「役場と町民が一緒に県外に集団避難する」という険しい道だった。選択の背景には、未曽有の危機と
11~12日…轟音 空から断熱材の破片
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あの日の午後4時過ぎ、双葉町役場4階の窓から見た光景を、当時総務課長だった高野泉さん(69)は後に、ノートにこう記している。《黒い壁となった津波が一瞬で押し寄せた。波は人を、町を、そして原子力発電所をのみ込んだ》
巨大津波を前にぼう然と立ち尽くした。町役場や小中学校、公民館は、逃げてきた人々でごった返した。
その頃、原発は危機に直面していた。稼働中の原子炉は地震で緊急停止したが、非常用発電機が水没し、電源を喪失。核燃料を冷却できなくなった。
原発から町役場へ伝えられたのはファクスによる情報だけだった。町長の井戸川克隆さん(74)は「何が起きているのか、正確に理解するのが困難だった」と振り返る。
夜、国から第一原発3キロ圏に避難指示が出た。メルトダウン(炉心溶融)が起きていたが、国と東電はその可能性を公にしなかった。東電の武藤栄副社長(70)が町役場へ説明に訪れたのは12日未明。原発の状況について、「確認中」と繰り返した。同席した高野さんは「情報が
夜明け近い午前5時頃、事態が一変した。役場で窓の外を見た職員が叫んだ。「総務課長、白装束がいる」。駆け寄ると、白い防護服を着た警察官らが集結していた。原発で重大なことが起きていると気づいた。
原発周辺の空間放射線量が急上昇していた。国は朝、避難指示を10キロ圏に拡大した。町に対し、県から川俣町へ避難するよう連絡があった。川俣は双葉から北西に約50キロ。井戸川さんは、防災行政無線で、マイカーで逃げるよう呼びかけた。
約4000人は川俣の小学校など7か所へ向けて避難した。他の人は親戚などを頼って県内外に散った。
避難を見届けた井戸川さんと高野さんら職員3人は、近くの高齢者施設へ救助に向かった。正面玄関で逃げ遅れたお年寄りをマイクロバスに乗せようとしていた時、
ドォーン――。
1号機建屋が水素爆発した。施設内に逃げ込むと、数分後、黄色っぽい断熱材の破片が日光を遮るほど降ってきた。裏口からお年寄りを避難させた後、井戸川さんらも川俣に入った。夜には、避難指示が20キロ圏に広がった。井戸川さんは打ち明ける。「町民を被曝させてしまった。今でも申し訳ない気持ちだ」
13~16日…ヨウ素剤 独自判断で服用
13日、町は放射線への不安に揺れていた。川俣の避難所では、甲状腺被曝を軽減しようと、ヨウ素剤が町民に投与された。
本来は被曝前に飲むもので、県の指示もなかったが、保健師から相談を受けた井戸川さんは「責任は私が負う」と断行した。39歳以下の町民845人が粉末ヨウ素剤をシロップで割って飲んだ。県の被曝検査(スクリーニング)も行われたが、一部が検査を受けただけで「問題なし」とされた。井戸川さんは不満だった。
翌日、3号機建屋が水素爆発。夕方には、避難所の窓際にあった線量計の針が振り切れた。もう我慢ができず、直接交渉しようと井戸川さんは県の災害対策本部がある福島市へ向かった。
だが、県自治会館内の本部は「混乱して指揮系統がめちゃくちゃ」に見えた。「県には頼れない。自分でやるしかない」と諦めて川俣に戻った。
15日朝には、4号機建屋も水素爆発した。国は原発20~30キロ圏に屋内退避指示を出した。井戸川さんは町幹部の会議で「川俣から町民を移動させたい。200キロ圏内での屋内退避がいい」と突如宣言した。高野さんも初耳だった。貴重品も持たずに逃げてきた町民のことを心配した。
この頃、東京で情報誌編集長をしていた舘野
群馬県片品村の受け入れ情報を井戸川さんにメールで伝えたのは翌16日。井戸川さんは「原発から200キロ離れた片品村が最大1000人受ける。18日に移動したい」と告げた。高野さんは聞き返した。「片品ってどこですか」
井戸川さんは同日夜、新潟県柏崎市長の会田洋さん(73)にも電話で受け入れを要請している。同じ原発立地自治体として交流があった。会田さんは承諾した。
17日…受け入れ 埼玉県即決
17日は双葉町の運命を決める一日になった。
実は、片品村は福島県南相馬市からも受け入れを要請されていた。受け入れ可能人数1000人に対し、要請は双葉2000人、南相馬1000人。村が福島県庁に調整を依頼し、南相馬の受け入れが決まった。井戸川さんは、村から断りの電話を受けた。
舘野さんは、井戸川さんの依頼で、また避難先を探した。「さいたまスーパーアリーナ」(さいたま市)が受け入れると知り、埼玉県庁に電話した。応対したのは、都市整備政策課主幹の西村実さん(58)。前日の受け入れ発表を受け、電話が殺到する中、舘野さんの話は予想外の大きさだった。2000人規模。「すごい要請が来た」。周囲に伝わるよう大声を出した。
だが、アリーナの受け入れ想定は最大2500人。双葉町だけでいっぱいになる恐れがある。横にいた幹部は、両手で×印をつくった。電話を切った後、学生時代に第一原発を見学した経験があった西村さんは、「双葉は原発の地元。断れませんよ」と説得し、副知事の広畑義久さん(60)の判断を仰ぎに行った。
広畑さんは国土交通省のキャリア官僚で、福島第二原発がある富岡町出身。実家にも避難指示が出ていた。幹部の報告を半ばで打ち切ると、幹部らを連れて知事室へ向かった。
知事の上田清司さん(72)は即決した。「是非もない。受け入れよう」。舘野さんの電話から30分もたっていなかった。連絡を受けた井戸川さんは「町民をまとめて安全な場所に移動させられる」と
アリーナの開放は3月末まで。埼玉県は次の避難先を探し始めた。

18日~…川俣からバス40台で
18日朝、町の幹部ミーティングが始まった。高野さんのノートには、井戸川さんの言葉が書き留められている。「いよいよ移動する。今度行くところは1か所に集合できる」
高野さんは「埼玉はちょっと遠すぎる」と戸惑った。新年度予算や人事など、総務課長として重要案件を抱えていた。この時もまだ「すぐに町に帰れるだろう」と思っていた。役場には公印やパソコン、議会資料を置いてきたままだ。どうやって役場を再開させるのかで頭がいっぱいだった。
当時、川俣の避難所には約2400人の町民がいた。幹部らは各避難所で埼玉への再避難を告げた。ガソリンスタンド経営吉田俊秀さん(73)は「驚いたが、遠くに逃げることに異論はなかった」と振り返る。
埼玉行きに賛同したのは半数の約1200人。町の人口の2割弱だった。人々を乗せた40台のバスは19日午前、川俣を出発し、午後にはアリーナに到着した。
役場と町民が初めて1か所で暮らす集団生活は、月末まで続いた。
旧校舎 肩寄せた1400人
3月30日~…教室に畳 職員室に役場
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アリーナの後、埼玉県が用意したのは、
入居に際し、町が最も神経を使ったのは「部屋割り」だった。担当した町生涯学習課主幹の今泉祐一さん(65)は、高齢者や体調の悪い人をトイレ近くの教室に優先配置しつつ、なるべく行政区や集落の単位でまとめるようにした。トラブルを防ごうと、人間関係の情報も頭に入れた。
埼玉側も受け入れ態勢を整えた。寝泊まりする教室には畳を敷くよう指示。地元畳店が協力し、中古の畳約1000枚を3日ほどでかき集めた。春休み中の大学生や高校生らがほこりだらけの教室を掃除し、畳を運び込んだ。
教室ごとに給湯ポットを備え、廊下の手洗い場に、せっけんや歯ブラシ、タオルを置く棚も設けた。和式トイレに設置できるポータブル洋式トイレも用意し、校舎外には仮設トイレを置いた。校舎近くには洗濯機を10台設置した。
入居日は3月30日と31日。町民がバスやマイカーで旧校舎に到着すると、大勢の市民が出迎えた。掲げる横断幕には、「双葉町の皆さん 心からお待ちしておりました」の文字。疲れ果てた多くの町民の目から涙がこぼれた。吉田さんの妻、
4月1日には、旧校舎2階に町の埼玉支所が置かれた。校長室が町長室、職員室と事務室が役場職員の執務室になった。市は支援対策本部を組織した。大橋良一市長(73)は「双葉町の皆様を市民と同等に扱いたい。最後の一人まで私たちは支援を続ける」と宣言した。




~14年3月…代表者決め要望集約
再避難に合わせ、旧騎西高校に合流した町民もいた。当初、アリーナでの避難者を上回る1400人超が寝食を共にし、普通教室には一時、20人前後が暮らした。
1人あたりのスペースは1~2畳で、布団の周りを取り囲むように支援物資や私物が並んだ。着替えスペースもなく、女性はトイレや布団の中での着替えを余儀なくされた。後日、廊下に段ボールで囲った「更衣室」ができた。
風呂もなかった。6月、ボイラー付きの本格的な仮設風呂がグラウンドに設置されるまで、市内の温浴施設を往復するマイクロバスが走った。
食事は朝昼晩の3食、「生徒ホール」で弁当が支給された。高齢者が1階で弁当をもらって4階、5階と階段を上がっていくのも大変で、各階の踊り場には休憩用のイスがあった。
「朝から掃除をし出すので眠れない」「廊下の冷蔵庫で冷やしていたビールがなくなった」「好きなテレビが見られない」――。集団生活ゆえの苦情が相次ぎ、町民同士のけんかもあった。
不満を少しでも解消しようと、4月上旬、教室ごとに代表者を決めて町側と話し合う会議が始まった。毎日午前8時15分、校舎1階の昇降口近くに集まり、約20人の代表者と町職員が顔を合わせた。町側は生活支援情報などを伝え、町民側は要望を集約して伝えた。
町と埼玉県側との会議も毎日あり、改善策を協議した。支援を受ける側の町から伝えにくいことは、加須市が口添えしてくれた。エアコンや仮設風呂の設置などが実現した。市の支援対策副本部長だった野本政之さん(67)は「困ったことも、町側から埼玉県へは強く言いづらい。その思いを代弁するよう心がけた」と振り返る。
入居者は次第に減っていった。みなし仮設の賃貸物件や福島県内のプレハブ仮設に入ったり、埼玉県内の公営住宅に移ったりして、2か月後には1001人、11年12月には半分以下の662人になった。
町役場の本庁機能も13年6月に福島県いわき市に移転。旧校舎の避難所閉鎖が決まるとさらに加速し、13年12月には7人に。避難所は14年3月に閉鎖され、旧校舎は埼玉県に返還された。現在は、人工芝グラウンドを持つ埼玉県サッカー協会の施設になっている。
帰還希望 町民の1割
県外避難は、全町避難が続く双葉町の行く末に大きな影響を与えた。
町によると、今年1月末時点で県外避難の割合は41%に達する。同じ原発が立地する大熊町でも23%で、避難指示が出た自治体の中でも突出している。
県外の避難先は41都道府県330市区町村に広がり、特に埼玉は最多の778人が暮らす。旧騎西高校での生活をきっかけに、その後住宅を購入した人も多い。
町の復興は遅れた。昨年3月には避難指示が一部解除されたが、町民の帰還開始目標は来春で、大熊町より3年遅い。
役場の本庁機能をいわき市に移した伊沢史朗町長(62)は「住民の安全を守るため県外に避難したことは間違っていなかったと思う。ただ、行政と議会が早い段階で福島に戻れなかったことが、他の避難自治体と比べて復興が遅れることにつながってしまった」と指摘する。
町と復興庁による町民の意向調査では、帰還を希望する町民はわずか1割。6割超が「戻らない」と答えた。伊沢町長は「今後は、町外に住み続ける人々のサポートが大きな課題だ」と語る。
※取材・竹田淳一郎、大月美佳 デザイン・安芸智崇