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「災害の恐ろしさ、命の大切さ 『防災』災いを防ぐ防災が、災いを忘れる『忘災』にならないように」
宮城県南三陸町の日当たりの良い墓地に、一文が刻まれた墓碑がある。眠っているのは山内吉勝さん。南三陸消防署員として2011年3月11日の東日本大震災で避難誘導にあたり、津波に流された。58歳だった。
遺品のバッグの中に赤ペンがにじんだ原稿

刻まれているのは、遺品のバッグの中にあった原稿の一節だ。若い頃に1960年のチリ地震による津波について書いたもので、泥のついた紙には、赤ペンの傍線のにじんだ跡が残っていた。
「伝えたかった言葉なんだろうと思って」。一文を墓碑に刻んだ妻の美代子さん(64)は、原稿を携えていた吉勝さんに思いを巡らす。まぶたに浮かぶのは、あの日、迷いなく自宅から現場に向かった後ろ姿だ。
3月11日、吉勝さんは休みで自宅にいた。震災前から暮らす自宅のある同町歌津上沢地区は海岸線から約5キロの山中で、津波の被害を受けなかった地域だ。

地震が起きた午後2時46分は、車で2時間ほどの所に住む娘を訪ねようと、2人で着替えを終えたところだった。大きな揺れが収まると、吉勝さんは消防服に着替え直して「署に行ぐから」と言い残して車で山を下った。
無事に帰ると疑っていなかった美代子さんは、数日後、避難所の歌津中学校の炊き出しを手伝っていたところ、うわさを耳にした。「連絡が取れない消防署員がいる」
町役場も津波の直撃を受け、壊滅状態。各集落は孤立し、南三陸消防署が津波に流されていたことは、まだ知らなかった。
「うちのお父さん、大丈夫だよね」
「うちのお父さん、大丈夫だよね」。見かけた同僚署員に尋ねると「大丈夫、大丈夫」と返事があった。ただ、目をそらされたような気がした。その後も長く消息がわからず、署員らは次第に美代子さんを見ると目を伏せるようになった。

遺体が見つかったのは3月下旬だった。警察に頼み、火葬までの一夜だけでもと、亡きがらを自宅に連れて帰り、一緒に過ごした。
吉勝さんとは22歳の時に結婚し、息子2人、娘1人を育てた。5歳年上で、曲がったことが大嫌い。同僚からは「吉勝つぁん」と慕われていた。酒に弱く、酔っ払うとすぐ千鳥足になったが、腕を取って支えようとすると「そんなことすんでね」と強がった。
そんな吉勝さんとの大切な思い出が、震災の2年前、近くの山にツツジを見に行った時のことだ。帰り道で吉勝さんがそっと手をつないできた。うれしくて、おかしくて、顔をのぞき込むと吉勝さんは頬を染めて、「これは介護ですから」と言い張った。「介護なの?」「介護です」。そんなやりとりを楽しみながらゆっくり山道を歩いた。
「命守る役割果たしたい」
南三陸町では震災で吉勝さんを含めて9人の消防署員が亡くなっている。
当時、美代子さんはそのことに納得できなかった。11年夏に開かれた遺族への説明会では「なぜ逃げようと言ってくれなかったのか」と署長らに詰め寄った。
少し気持ちが解きほぐれたのは、消防遺族会での交流や、自宅に悼みに来る同僚を通じ、職場での夫の姿を知ってからだ。

仕事に誇りを持ち、納得できなければ署長にも意見する気骨のある人だった。知人からは、親戚が「吉勝に助けられた」と話していると聞かされた。吉勝さんは、海の方向に向かう車を両手を広げて制止していたところ、後ろから津波にのまれたのだという。
「最後まで一人でも助けようとしていたんだね」
美代子さんは19年11月から地区の民生委員を務める。大雨などの時は、出向いたり、電話をしたりして高齢者の安否を気遣い、吉勝さんが残した言葉の意味をかみしめる。「何よりも命を大切に。自分も助け合いの中で、それを守る役割を果たせたら」。吉勝さんもきっと、見守ってくれている。(石坂麻子)
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東日本大震災からまもなく11年となる。大切な家族や穏やかな日常が、突然うばわれたあの日から、人々はどのように歩みを進めてきたのか。岩手、宮城、福島3県の被災地を訪ねた。
消防職員ら犠牲
総務省消防庁によると、東日本大震災で岩手、宮城両県で消防職員27人が死亡・行方不明になった。消防本部別では、南三陸署を含む気仙沼・本吉地域広域行政事務組合消防本部が10人と最多だった。消防団員は両県と福島県で254人が死亡・行方不明になった。
これを受け、同庁が2012年に出した災害時の安全管理に関する通知には、職員、団員の身に危険が迫れば自らも退避することが盛り込まれた。